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主の日の礼拝の指針 guidelines of worship of the Lord’s Day

序.

神は、礼拝する者として人(アダム)を造られました。そしてアブラハム以来、礼拝する民として神の民を選ばれました。
神の民は、礼拝することによって神の民であり続けます。
礼拝は、神の民の命であり、全生活の基礎であり、目的であります。
神の民の礼拝の様式は、その時代や場所により異なります。礼拝は、それぞれの共同体の信仰告白の行為だからです。しかし、その礼拝を成り立たせているのは、父・子・聖霊なる三位一体の神の現臨です。
神が、神の民を礼拝へと招き、御言葉を与え、世へと遣わすのです。
神の民は、この神の招きに応えて賛美と祈りをささげ、御言葉に感謝し、御言葉に従う神の恵みの証し人として遣わされていきます。この礼拝の中心にあるのは何よりも「神の言葉」です。
私たちは、説教(聞く神の言葉)と聖餐(見える神の言葉)を主の日の礼拝の中心に据え、この生ける神の言葉によって支配される主の日の礼拝を、宗教改革以来の伝統をふまえて具体的に提示するものです。そしてこの礼拝は、伝道する教会の姿を明示します。 主の日の礼拝は、伝道の最前線だからです。

1.主の日の礼拝

旧約の神の民は、天地創造の神が安息なさったことと出エジプトの出来事を覚えて、週の第七日目を「安息日」と呼び、神を礼拝していました。主イエスの弟子たちも、主と共に安息日に礼拝していましたが、主イエスが死人の中から復活し、 罪と死とに対して勝利なさってからは、主の復活の日である週の初めの日にも礼拝するようになりました。その後、教会は主イエスの復活を記念し、心からの喜びをもってこの日に神を礼拝するようになったのです。
現在、世界中の教会が主の日にささげている礼拝は、この主の復活の勝利を特に記念しているのです。
旧日本基督教會は日曜日を週の初めの日として「主日朝拝」の式順を定めました。この礼拝式を「聖日礼拝」と呼ぶこともありますが、聖日とは神に聖別された日という意味です。教会はこの日の共同の礼拝式を、どんなことがあっても欠かすことなく守ってまいりました。それが教会の生命線であると共に、聖なる神の安息に与(あずか)る喜びの祝宴でもあるからです。
私たちは、この礼拝を「主の日の礼拝」と呼ぶことにします。

2.主の日の礼拝への備え

主の日の礼拝を真実に守るためには、その備えが大切です。
週報に次週の礼拝説教題、聖書箇所、讃美歌番号などの予告がありますから、礼拝に与(あずか)る者は、礼拝で読まれる聖書箇所を前もって確認しておきます。
そして、礼拝奉仕者たちのために、聖霊の導きを求めて祈ります。
献金を備えておくことも大切です。また、神の前に出る者としてふさわしい服装をします。

3.主の日の礼拝に臨んで

主の日の礼拝に遅刻してはいけません。礼拝開始の10分前には席に着き、聖書箇所を開き、心を神に向けて備えましょう。携帯電話は電源を切ります。礼拝室での私語は慎まなければなりません。座る位置は自分の指定席を決めず、長老会の指導に従います。
もしも自分の隣に見知らぬ人が座り、不慣れであるように思われたならば、讃美歌や説教される聖書箇所を予め開けるようにしてあげましょう。
奏楽が始まったならば、神に招かれている事実に思いをめぐらせ、神をたたえる思いをもって、招きの言葉を待ちます。
本来、神を礼拝する際に最も望ましい姿勢はひれ伏すことです。
主を畏れる心と御言葉への期待と喜びの中で、礼拝をささげましょう。

4.主の日の礼拝の構造と要素

主の日の礼拝の中心は、何よりも<神の言葉>です。この<神の言葉>を中心として、その前後に<悔い改め>と<感謝>、更にその前後に<神の招き>と<派遣>があります。
この全体構造は、神の御業とそれに対しての私たちの応答が交互になされるものです。
つまり<神の招き><悔い改め><神の言葉><感謝><派遣>という構造です。
神の招きに与(あずか)り、悔い改め、神の言葉を受け、感謝して、神に派遣されるのです。ここで<神の招き>と<悔い改め>は<神の言葉>を受けるための備えと考えても良いでしょう。
そして、<感謝>と<派遣>は<神の言葉>に満たされて歩み出す始まりです。この全体構造の中で、更に神の御業と私たちの応答が繰り返されていきます。司式者は長老会によって立てられ、教師であることが望ましいでしょう。
前奏と後奏がなされるのは、礼拝全体を整えるために適切なことです。

<神の招き>

「招きの言葉」(聖書の中の適切な箇所が朗読される)がなされます。この神の招きを受けて、私たちははばからずに神を拝むことが出来るのです。
この神の招きに応えて、私たちは神をほめたたえる「賛美」をささげます。

<悔い改め>

神の御前に出た私たちは、自らの罪を知らされ「罪の告白」をします。罪を告白する者に神は「赦しの宣言」を与えてくださり、新しく歩むべき道としての「神の律法」を与えてくださいます。新しい道を示された私たちは、喜びの「賛美」を神にささげます。

<神の言葉>

この部分が礼拝の中心です。この<神の言葉>には、聞く神の言葉としての「聖書朗読」と「説教」、そして見える神の言葉としての「洗礼」と「聖餐」があります。聞く神の言葉と見える神の言葉は共に、私たちを主イエス・キリストによるただ一つの救いの恵みに与(あずか)らせます。それは私たちにとって罪の赦しであり、キリストの命が私たちの命となることです。
<神の言葉>を受けるために、私たちは「聖霊の照明を求める祈り」をささげます。神の言葉が神の言葉となるためには、聖霊なる神が働いてくださらなければならないからです。
まず「聖書朗読」と「説教」がなされ説教の後で「祈り」がささげられます。聞く神の言葉によって信仰を新しく与えられた私たちは、感謝と喜びの「賛美」をささげます。そして、新たにされた信仰を「信仰告白」をもって言い表します。
次に、見える神の言葉としての「聖餐」に与(あずか)ります。「洗礼」がある場合は、「聖餐」の前に執行されます。聖餐に与(あずか)った私たちは、感謝と喜びの「賛美」をささげます。

<感謝>

<神の言葉>を受けた私たちは、<感謝>をもって応えます。献身としての「献金」がささげられます。そして「感謝の祈り」がささげられ、「主の祈り」がささげられます。更に「執り成しの祈り」がここでささげられます。「執り成しの祈り」は<神の言葉>を受けた私たちがなす、感謝の応答としての大切な務めだからです。そして、三位一体の神をほめたたえる「頌栄」がささげられます。

<派遣>

<神の言葉>を受けた私たちは、神の「祝福」を受けて、神の福音を告げ知らせ、証しする者として、この世へと派遣されます。

5.説教について

a.説教とは

私たちの礼拝には、聞く神の言葉としての「聖書朗読」と「説教」が欠かせません。
説教は聖霊の導きにより、聖書を説き明かすことを通して、私たちの罪のために死に、復活されたイエス・キリストを告げ知らせます。
説教によって、私たちは復活されたイエス・キリストとお会いし、今まで気づかなかった罪とその赦しを知らされ、悔い改めさせられ、慰められ、キリストの命に結ばれた新しい生活へと導かれます。説教はひとりの魂を立ち上がらせると同時に、キリストの体である教会を造り上げていきます。
そのような説教は、第一に聖書的であり、第二に教理的であり、第三に牧会的です。
説教は単なる聖書の説明ではなく、聖霊の御業としての教会の証言であるからです。

b.説教者

説教者は長老会によって立てられます。
神の召しを受け、神学の研鑽に励み、教団の教師検定試験に合格し、教会から招聘を受けた教師が、主の日の礼拝の説教者として立てられるのです。必要に応じてそれ以外の教師が、やむをえない場合には信徒が立てられます。教師の招聘や無牧の場合などには地域長老会(中会)の指導を受けます。
説教者は神の言葉を語る者として、常に地域長老会(中会)の牧師会等で、御言葉の研鑽に励まなければなりません。
また長老は、説教者が語る福音を、まず何よりも喜んで聞き取り、これを励ます聞き手でなければなりません。
そのようにして福音を聞き分け、教理を擁護するのです。

6.洗礼について

a.洗礼とは

聖餐と共に、福音主義教会におけるサクラメントの一つである洗礼は、目に見える神の言葉であり、主によって定められた恵みの手段です。これによって私たち はキリストの体である教会に連なり、新しい契約の交わりに加えられ、神の子とされ、罪を赦され、永遠の命にあずかる者とされます。
このサクラメントの執行は生涯において一回限りであり、按手礼を受けた正教師によってのみ行われます。

b.小児洗礼

小児洗礼は、信仰者である親または保護者のもとにある小児が神の選びの中にあることを、教会が信じて行われます。この洗礼の責任は、親または保護者、これ を執行する教会にあります。したがって、教会は親または保護者と共に、これが信仰告白に至るように、必要な教育と訓練を行なわなければなりません。

(1)親への準備教育

小児洗礼に際しては、親または保護者の信仰が求められます。それゆえ、その者が洗礼を執行する教会の現住陪餐会員であることが必要です。小児に洗礼を授け られることを希望する親または保護者は、その旨を長老会に申し出て、準備教育を受け、信仰の意味、教会が告白している信仰の内容、小児を信仰へと導く上で 留意することなどを学び、洗礼に備えます。

(2)試問のあり方

準備教育を受けた後、小児の親または保護者は長老会において試問を受けます。その中で、長老会は親または保護者に教会の信仰告白への同意を確認し、その小児が成長して自分の意志で信仰を告白するに至るまでこれを教育する責任を負うことを、親または保護者に確認します。

(3)信仰告白

小児洗礼を受けた者は、自分の口で教会の信仰に同意を表す信仰告白へと導かれます。その場合の信仰の内容、誓約などについては成人洗礼の場合に準じます。
信仰告白志願者に対して、教会は必要な準備教育を施し、その後長老会は本人の信仰について試問します。その内容については、成人洗礼志願者の場合に準じます。

c.成人洗礼
(1)準備教育

信仰を言い表し、洗礼を受けて教会員となることを希望する者は、長老会に申し出て、準備教育を受けて洗礼に備えます。その準備教育には、教会が告白している信仰の内容、教会員としての務め、信仰者としての生活などが含まれます。

(2)試問のあり方

一定期間の準備教育を受けた後、洗礼志願者は長老会において試問を受けます。長老会はその中で、何よりもその洗礼の志が聖霊の導きによるものであるかどうかを判断し、教会の信仰告白への同意を確認します。

7.聖餐について

a.聖餐とは

洗礼と共に、福音主義教会におけるサクラメントの一つである聖餐は、目に見える神の言葉であり、主によって定められた恵みの手段です。聖餐に与(あずか)ることは、キリストの復活の命に与(あずか)り、キリストと一つにされることです。私たちは主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みを味わいます。また、このお方が復活されたことを感謝して受け止め、確かに私たちも死から命へと復活させられることを信じ、天の御国の宴を仰ぎ望み、主の再臨による救いの完成の希望を新たにします。そして、主の体なる教会の肢(えだ)として連なり、真実な愛の交わりに歩み出すのです。このサクラメントの執行は按手礼を受けた正教師によってのみ行われます。
 三位一体の神の御名によって洗礼を受け、信仰告白をした者がこれに与(あずか)ります。小児洗礼受領者(未陪餐会員)は、信仰告白式を終えて後、これに与(あずか)ります。また、陪餐停止の戒規を受けている者は、それが解かれるまでこれに与(あずか)ることはできません。

b.聖餐への備え

聖餐の執行は、予告されなければなりません。
聖餐は聖霊の働きによる信仰の出来事です。従って、陪餐者は何よりも説教によって養われ、信仰をもって悔い改め、これに与(あずか)らなければなりません。
長老会は、教会員に対して、常々聖餐に与(あずか)ることの意義を教え、教会生活を整え、備えをもって臨むように指導し、訓練することを怠ってはなりません。


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