富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(100)

 「救いの歴史」と題して、旧約聖書創世記第12章以下についてのお話をしてきました。今回はその第100回ということになります.今お話ししているのは、出エジプト記第20章の、「十戒」についてです。その第六の戒め、「殺してはならない」についてのお話しを、前回から始めています。

 ところで、「殺してはならない」という戒めは、仏教の「不殺生戒」とは違うものです。「不殺生戒」は、およそ生き物の命を奪ってはならないという戒めですが、十戒の「殺してはならない」は、「生きとし生けるものを殺してはならない」という意味ではなくて、「人を殺してはならない」という、つまり殺人を禁じた戒めなのです。聖書は、人間の命と他の動物の命とをはっきり区別しています。そして、人間は動物を殺してその肉を食べることが神様によって許されているのです。神様は、獣を、人間の食料として与えて下さっているのです。ですから、動物を殺してその肉を食料にしても、それは「殺してはならない」という十戒の違反ではありません。勿論だからといって、やたらに動物を意味もなく殺すことがよいわけではありません。人間は、動物たちをも含めて、神様が造られたこの世界を管理する務めを神様から与えられているのであって、動物であっても好き勝手に殺すことはその神様のみ心に反するのです。しかし十戒で禁じられているのは、人を殺すこと、殺人を犯すことなのです。

 このことを、聖書は人間を動物より上に置いていて、人間の傲慢を助長している、と批判する人がいます。「不殺生戒」のように、人間も動物も区別なくその命を大切にする教えの方が優れている、というのです。しかしもしそう考えるなら、その人が肉や魚を食べることは矛盾であり、言っていることとしていることが一致していない、ということになるでしょう。人間の命も、他の生き物の命も同じ命だ、というなら、蚊をつぶしたりゴキブリを殺したりすることもできないはずです。そういうことと、人を殺す殺人とを、同じことだと考えることはむしろ不自然でしょう。聖書はそのことを明確に区別し、人を殺すことを禁じているのです。

 そしてその根拠は、前回少し申しましたように、人間の命は神様のものであり、神様がその人に命を与えて生かそうとしておられるのだから、人を殺すことはその神様のみ心を踏みにじることだ、ということです。私たちが生きているのは、自然にそうなっているのではありません。神様が命を与え、「生きよ」と言っておられるのです。そして神様は、お定めになった時に私たちの命を取り去り、人生を終わらせられます。生きることも、死ぬことも、神様のみ心によることなのです。だから、人の命にせよ自分の命にせよ、人間がそれを奪うことは、神様のみがなさるべきみ業に人間が口をはさみ、介入することであって、それは人間の分を越えたこと、罪なのです。つまり、「殺してはならない」という戒めは、単なる道徳の教えではなく、神様を信じる信仰における教えなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年5月19日〜6月1日]

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