富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(20)

旧約聖書創世記第22章についてお話ししています。神様はアブラハムに、たった一人の子イサクを犠牲として献げるようにお命じになりました。何故そんなひどいことをお命じになるのかは、新約聖書を合わせて読むことによってわかると前回申しました。新約聖書には、神様が、その独り子イエス・キリストを、私たちの罪を背負って身代りになって死ぬ犠牲としてこの世に遣わして下さったことが示されています。独り子を献げて下さったのは、神様の方だったのです。

このことは、創世記22章12節の、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」という神様の言葉と、新約聖書、ローマの信徒への手紙第8章31節以下の「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」という言葉を比較してみることによってもわかります。ローマの信徒への手紙8章は、明らかに創世記22章を意識しながら、神様がその独り子をさえ惜しまずに私たちのために死に渡して下さった、という恵みを語っているのです。

アブラハムのためには、イサクの代わりに献げる雄羊が備えられていました。アブラハムは独り子イサクを返していただいたのです。創世記22章14節には、「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり』と言っている」とあります。「主の山に、備えあり」という諺がこのことから生まれたのです。主なる神様に従っていくところには、神様が必ず必要なものを備えて下さる、たとえそれがどんなに苦しい、つらい歩みであっても、独り息子を奪われてしまうような苦しみを体験しなければならないようなものであっても、神様は、私たちが苦しみによって滅びてしまうことのないように、必要なものを備えて下さるのです。神様が備えて下さったいけにえの雄羊、それは主イエス・キリストを指し示しています。神様はご自身の独り子の命を、私たちのために備えていて下さる。聖書はそういう救いの歴史を語っているのです。

 

牧師 藤 掛 順 一
[2000年1月10日〜2000年1月23日]

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