富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(29)

双子の兄弟エサウとヤコブの物語についてお話ししています。旧約聖書創世記25章から27章です。兄エサウではなく、弟ヤコブが神様によって選ばれ、祝福の継承者となりました。ここには、神様による選びということが語られています。ヤコブは選ばれ、エサウは選ばれなかったのです。

何故、ヤコブが選ばれ、エサウは選ばれなかったのでしょうか。私たちは必ずそのように、選びの理由を問おうとします。しかし聖書には、ヤコブが何か優れた点を持っていたから選ばれたとか、エサウが何かよくないことをしたから選ばれなかったということは全く語られていません。彼らの選びは、生まれる前から決まっていたのです。つまり、人間の側に選びの理由を求めることはできないのです。選びは、全く神様のみ心によることです。そこには私たちが納得できる合理的理由はないのです。

そのように言うと、そんな神様の気まぐれのようなものに運命を左右されてはたまらない、と思う人が多いでしょう。けれども、そこで考えてみていただきたいのです。もしも私たちが神様に選ばれるか選ばれないか、つまり救われるか否かが、全て私たちに理解できる合理的理由によることだったとしたらどうでしょうか。神様に選ばれ、救われる者には必ずそれにふさわしい優れた点、長所、よい行いという理由がある、選ばれない、救われない者にはそういうものが欠けている、ということなのだとしたら、いったい私たちは自分の救いを確信することができるでしょうか。人それぞれ、よい点もあれば悪い点もあります。どのくらいよい点があったら、選ばれ、救われるのに相応しいと言えるのでしょうか。よい点の方が悪い点よりも一点でも多ければ救われるのでしょうか。いったい自分はどうなのでしょう。自分はよい点の方がはるかに多い、大丈夫だ、と思っている人がいるとしたら、その人はよっぽど鈍感で、自分のことが見えていないと言わなければならないでしょう。鋭い感覚を持ち、自分がよく見えている人ほど、自分のよい点よりも悪い点に敏感に気づくのです。そして、果して自分は救われるに値する者なのか、疑問に思うのです。つまり、選びの合理的理由を求めれば求めるほど、選びの確信は得られなくなるのです。

しかし、神の選びは人間の側の理由によるものではありません。選ばれる者、救われる者は、ただ神様の恵みのみ心によって選ばれ、救われるのです。「神の恵み」にのみ、その根拠はあるのです。それは一見あやふやなことのように見えますが、実はこれほど確かなことはありません。「神の選び」を信じることができるなら、私たちは、自分がどんな人間であっても、救いを確信することができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年5月22日〜6月4日]

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