富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(38)

 旧約聖書創世記第4章の「カインとアベル」の物語を読みながら、「聖書の人間理解」についてお話しています。カインとアベルは兄弟でしたが、それぞれが、自分が働いて得た産物を神様に献げました。ところが神様は、アベルの献げ物を受け入れましたが、カインの献げ物は受け入れられなかったのです。

 何故神様は、カインの献げた物を受け入れなかったのでしょうか。それについては、聖書は何も語っていません。皆さんは「天地創造」という映画をごらんになったことがあるでしょうか。あの映画の中に、この場面が描かれています。そこでは、カインは、自分の造った作物を献げる時に、一端献げ物として取り分けたものの一部を、自分の袋に戻しています。つまり、惜しくなって献げ物を減らした、ということです。そのように出し惜しみをする者の献げ物は神様は喜ばれない、というのがあの映画の描き方です。しかし、聖書にはそんなことはどこにも書かれていないのです。カインの献げ物がアベルの献げ物よりも劣っていたということは聖書からは読み取れません。つまり、神様がカインの献げ物を喜ばれなかった理由は、私たちにはわからない、謎なのです。

 こういう謎が、私たちの人生にはいくつもあります。私たちの人生は、またこの世の中は、誠実に努力していけば必ず酬われて幸せになる、というふうにはなっていないのです。何も悪いことをしていないのに、いっしょうけんめい努力しているのに、不幸、苦しみに襲われることがあります。逆に、たいして努力したわけでもないのに、思わぬ幸せが得られることもあります。善人が苦しみ、悪人が栄えるようなこともあります。「なぜだ」と叫びたくなるような事実があるのです。そういう謎に直面する時に、私たちはどうするのか、そこに、私たちの人生の分かれ道、岐路があります。その謎に向かっ腹を立てて、この世を恨み、神を恨み、自暴自棄になるか、それともその謎の前でなお自分のできる限りの努力をし、前向きに生きるか、カインはまさにその選択の前に立たされたのです。そしてそれは私たちが日々直面している選択なのではないでしょうか。カインとアベルの物語はそういう意味で、まさに私たちの人生の現実を写し出していると言うことができるのです。カインはどうしたか、それを次回見ていきたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一

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