富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(35)

 創世記32章25節以下にある、ヤコブが、ヤボク川のほとりで、何者かと格闘した、という話について、前回からお話ししています。ヤコブは、格闘をしているうちに、相手がただの人間ではなくて、神様の使いだ、ということに気づいたのです。そして、「もう去らせてくれ」と言う相手に対して、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言ったのです。ヤコブは、神様からの祝福を何としてでも得ようとして、神様の使いに迫ったのです。それでついに相手は、ヤコブを祝福しました。その時に、ヤコブに、「イスラエル」という名前が与えられました。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」とあります。

 イスラエル。それはこの後、ヤコブの子孫たちから起こっていった民族の名となりました。「イスラエルの民」という言葉が聖書にしばしば出てきます。その名はこの時ヤコブに与えられたのです。その意味は、「神と人と戦って勝った」ということだとこの話は伝えています。正確に言えば、この言葉は「神は支配したもう」ということなのですが、この話では、神と争って勝った、という意味とされているのです。ヤコブは、神様と闘って祝福を勝ち取った、それによって、イスラエルという新しい名を与えられたのです。

 人間が神様と闘って勝つなんていうことがあり得るだろうか、と私たちは思います。ヤコブという人はそれほどの力を持っていた英雄だ、ということでしょうか。しかしこれまでお話してきたヤコブの物語を思い起こしていただけば、ヤコブという人が決してそんな人ではなかったことがわかります。彼は兄エサウと比べるとむしろひ弱な、ずる賢いタイプなのです。英雄と呼ばれるにふさわしいような人物ではありません。ただ一つだけ言えることは、彼が、神様の祝福を生涯必死に求め続けたということです。彼の祖父であるアブラハムに最初に与えられ、その子イサクへと受け継がれた祝福を、彼は何とかして自分のものとしようとして、陰謀をめぐらしたのです。このヤボクの渡しにおいても、祝福してくれるまでは放さない、という必死の思いで、み使いに迫ったのです。このような、神様の祝福を必死に求めていくヤコブの姿に、神様が答えて下さった、それが、彼がイスラエルの名を与えられたことの意味であると思います。神様の祝福こそ、私たちが人生の全てをかけて求めていくべきものなのです。それを得ることが、人生の本当の勝利なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年8月14日〜8月27日]

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