富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(37)

 創世記32章25節以下の、ヤコブが、ヤボク川のほとりで、神様の使いと格闘した、という話について、お話ししています。ヤコブはこのことを通して、神様から「イスラエル」という新しい名前を与えられました。その「イスラエル」が、ヤコブの子孫たちの民族の名前となったのです。また前回は、ヤコブがみ使いに名前を尋ねたが、教えてもらえなかったということ、つまり人間は神様の名前を知ることはできない、ということをお話ししました。

 もう一つ、この話によって示されている大事なことをお話しておきたいと思います。この話の最後のところにこう語られています。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

   旧約聖書には、人間は神様の顔を見ることはできない、という考え方があります。神様の顔を見たら、人間は生きていることはできない、死ななければならないというのです。それは、前回の、神様の名前を知ることはできない、ということと並ぶ、人間と神様の関係の基本です。名前を知ったり、顔を見たりというのは、人間が相手のことを知り、わかり、認識することを意味します。相手の名前を知り、顔を見ることによって私たちは、その人を知り、その人についてのある判断を下すのです。神様は、人間がそのように認識し、理解し、判断してしまうことができるような方ではない、というのが聖書の教えです。神様をそのように知ろうとする者は、人間の分を超えたことをするのであって、その者は死ななければならないのです。

 けれども、このヤコブの話もそうであるように、聖書には時として、顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている、ということが出てきます。あるいは人間が名前を知ることのできないはずの神様が、ご自分の名前を告げて下さるというところがあります。つまり聖書の神様は、私たち人間に、顔を見せて下さる、名前を告げて下さる方でもあるのです。人間が、神様のことを理解したり判断したりすることはできません。しかし神様が、ご自分のことを示して下さり、私たちと交わりを持って下さる、それが聖書の語る神様の恵みです。その恵みがあるから、私たち人間は神様を信じることができるし、神様と共に生きることができるのです。

 

牧師 藤 掛 順 一
[2000年9月11日〜9月24日]

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