富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(4)

旧約聖書、創世記の第12章において、アブラムという人が、神様の言葉に従って、生まれ故郷、父の家を離れ、神様の示す地へと旅立ったことから、聖書における「救いの歴史」が始まった、ということをお話ししています。この旅立ちは、聖書の教える信仰とはどのようなものか、を象徴的に現しています。第一に、信仰とは、神様の語りかけに応えて、未知の世界へと旅立つことです。生まれ故郷、父の家は、私たちがもともと知っている世界、慣れ親しんでいる世界を象徴しています。信仰とは、そこから旅立つことです。自分の知っている世界に閉じこもっていては信仰は得られません。聖書の教える信仰は、私たちの生活に安心や平安を与えてそれを補強するためのものではなくて、むしろ、未知の世界へと冒険の旅に出ることなのです。

第二に、この旅の目的地は私たちが決めるのではなくて、神様がお決めになる、ということです。神様はアブラムに、「わたしの示す地に行きなさい」と言われました。それがどこなのか、アブラムには分かっていませんでした。彼は、行く先を知らずに旅立ったのです。信仰とはそのように、神様の示しに従っていくことです。自分が行く先を決めるのではなくて、神様の導きによって歩んでいくのです。

けれどもそれは、どんなひどい所に連れていかれてしまうかわからない、というものではありません。この旅を導くのは、神様のみ言葉です。そのみ言葉は、祝福の約束を語っています。アブラムは、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。」という神様の祝福の約束を受けて旅立ったのです。信仰の旅は、神様が与えて下さる恵みへと向かう旅です。それが第三のポイントです。自分が行く先を決めるのではなく、神様の導きに従っていく時に、人間の力ではとうてい到達できないような、恵み、祝福への歩みが与えられるのです。自分の知っている世界を後にして、未知の世界へと旅立つのは、この祝福を求めてのことです。自分の知っている世界の中に留まっていたら、自分の力の範囲の中での喜びしか得ることはできません。しかし私たちの力は、まことにちっぽけなものです。その力の中での喜びも、ちっぽけなものに過ぎないのです。しかし神様の導きに身を委ねて旅立つならば、そこには、人間の力を超えた、神様のみが与えることのできる未知の、すばらしい喜びへの道が開けるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[1999年5月17日〜5月30日]

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