富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(53)

 旧約聖書「出エジプト記」第3章についてのお話をしています。モーセは神様から、エジプトで奴隷とされ、苦しめられている同胞であるイスラエルの人々を救うためにおまえを遣わすと言われました。彼が神様に、同胞たちが、おまえに現れたその神の名は何かと問うたらどう答えたらよいのでしょうかと尋ねると、神様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。「わたしはある」それが神様のお名前なのです。それは、神様が動かし難い主体として、主人として存在する、ということだということを前回お話ししました。そのことをもう少し深く考えてみたいと思います。この「わたしはある。わたしはあるという者だ」というところは、なかなか翻訳が難しいところです。口語訳聖書では「わたしは、有って有る者」となっていました。英語の翻訳を見ますと、「I am what I am.」または、「I will be what I will be.」となっているものもあります。つまり、「私は自分がそうであろうとするものとしてある」とでも言いましょうか。そのようにここには、神様の強いご意志、自らがそうあろうと欲する者としてある、という思いが表明されているのです。そのことをさして、「神様が動かし難い主体として、主人として存在する」と言ったのです。

 ですからこのお名前には、神様が、私たち人間の思い通りにはならない方だということが言い表されています。聖書の語る神様は、人間が自分の思いや願いをかなえるために利用することができない方です。多くの宗教において、神様を信じることは、それによって神様に自分の願い、望みをかなえてもらうためのことですが、聖書の教える信仰においては、そうではないのです。信じることは、神様に願いをかなえてもらうためではありません。そんな神様なら何の役にも立たないではないか、と思われる方があれば、その通りです。聖書の神様は、人間の役に立つ神様ではないのです。しかしこの神様は、私たち人間に対して、恵み深い方です。ここでも、エジプトで奴隷とされているご自分の民イスラエルの苦しみを見、その叫びを聞いて、彼らを救うために行動を起こして下さっているのです。そしてそのためにモーセを立て、彼に「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束して下さっているのです。人間が、神様に共にいてもらって何かをするのではありません。神様が、その恵みのご意志によって共にいて下さり、救いの業を成し遂げて下さるのです。そのために弱い、欠けの多い人間を用いて下さるのです。それは、役に立つ神様を信じ、人間が神様を利用し、思いをかなえようとする信仰よりも、ずっと確かなことではないでしょうか。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年5月14日〜2001年5月27日]

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