富山鹿島町教会
(86)←「救いの歴史」→(88)

テレホンメッセージ

「救いの歴史」(87)

 出エジプト記第20章4〜6節にある、「十戒」の第二の戒め、「あなたはいかなる像も造ってはならない」についてのお話しを続けます。

 前回は、この戒めの中で神様が語っておられる、「わたしは熱情の神である」という言葉についてお話ししました。「妬む神」とも訳されているこの言葉は、神様が私たちのことを本当に真剣に愛しておられるということを言い表しているのです。その続きにはこうも言われています。
「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。

 ここで神様は、「わたしを否む者」、つまり神様をまことの神として信じ敬うことを拒み、他の神々、人間が造った偶像を拝むようになる者に対して、その罪を三代、四代の子孫にまで問い、罰を与えると言っておられます。これも、「妬む神」と同じく、私たちには、恨みの思いが強い、執念深い神様のように思えて、神様として相応しい姿ではないように感じられます。

 けれどもこの十戒の前提となっているのは、この神様がイスラエルの民をエジプトで奴隷とされ苦しめられていたところから救い出して下さったということです。神様は既にそういう大きな恵みをこの民に与えておられるのです。その関係の中で、その神様を拒み、他の神々、人間の求めるご利益を与える偶像の方に心を向けることは、まさに恩知らずな、人間としてあるまじきことなのです。それに対する神様のこの怒りは、「恨み」などとは違います。

 そしてさらにここで言われているのは、神様は、人間の罪をそのように三代、四代までそれを問われるが、神様を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与えるということです。罪に対する怒りは三代、四代だが、愛に対する慈しみは幾千代なのです。ここに、聖書の神様の本質が示されています。ご自分が救い出された民に十戒を与えた聖書の神様は、怒りの心よりも、慈しみの心を、幾千倍も多く持っておられる方なのです。私たちに対する慈しみのみ心を、私たちの罪に対する怒りよりもはるかに多く持っておられるこの神様の下で生きることは、本当に幸いなことなのです。「いかなる像も造ってはならない」という戒めは、この慈しみに満ちた神様のもとでこそ生きる者であれという招きのみ言葉なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年10月28日〜11月10日]

メッセージ へもどる。

(86)←「救いの歴史」→(88)