礼拝説教集 sermon

連続講解説教 expository sermon

イザヤ書

ローマの信徒への手紙

エッサイの根より
イザヤ書 11章1~10節 ローマの信徒への手紙 15章12~13節  小堀康彦牧師

1.イザヤの預言の時代

 アドベント第三の主の日を迎えました。今年のアドベントはイザヤの預言から御言葉を受けています。今朝は、イザヤ書11章の御言葉です。この預言は、先週の主の日に与えられたイザヤ書9章の「みどりごの誕生預言」、先々週に与えられたイザヤ書7章の「インマヌエル預言」と、ほぼ同じ時期に与えられたものです。紀元前8世紀、メソポタミアにアッシリアという巨大帝国が興り、次々と周りの国々を飲み込んでいく。ダビデ王によって全盛を迎えたイスラエル王国は、ダビデ王の息子ソロモン王の死と共に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、共にアッシリアの脅威にさらされている。南ユダ王国に預言者として立てられたイザヤは、「アッシリアを恐れるな。ただ万軍の主のみを畏れよ。この方に依り頼め。」と告げるのですが、王も民もイザヤの言葉を聞こうとはしません。そして、北イスラエル王国はアッシリアによって紀元前722年に滅ぼされてしまいます。この預言が与えられた時、ダビデ王家によって治められていた南ユダ王国はまだ滅んではいません。しかし、イザヤは南ユダ王国の滅びをも見ておりました。北イスラエル王国が滅びてから約150年後、紀元前587年に南ユダ王国はアッシリアの次に興ったバビロニア帝国によって滅ぶのです。アブラハム以来、神の民として歩んできたイスラエル。その神の民が国家としては存在しなくなる。イザヤは、その悲惨な神の民の歴史を誰よりも早く神様によって知らされていたのです。このようなことは知らない方が幸いでしょう。しかし、イザヤは知らされており、しかもそれを語ることをも神様に命じられておりました。預言者とは何と辛い者かと思わされます。しかし、神様によってイザヤに知らされ、又告げるようにと命じられたことはそれだけではありませんでした。もう一つの重大な神様の御心。それは救い主の誕生、救い主の到来でした。北イスラエル王国も南ユダ王国も滅びる。しかし、それで終わりではない。神様の救いの御業はそれで終わるのではないということでした。滅びの向こうにあるまことの救い、救い主の到来をもイザヤは知らされていたのです。それが今朝与えられております、キリスト預言です。

2.若枝=キリスト

 1節の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」とイザヤは語り始めます。「エッサイの株」。エッサイというのは、ダビデ王の父親の名前です。そして、「株」と訳されております言葉は、木が切り倒されて残った「切り株」を意味しています。つまり、北イスラエル王国が滅ぼされ、南ユダ王国が倒され、まるで大きな木が切り倒され、枝も幹も葉もすべて焼き尽くされてしまって、何も残っていないように見える。残っているのはただ「切り株」だけ。しかし、このもう死んでしまったように見える切り株からひとつの芽が萌えいでてくる。切り株から新しい若枝が生えてくる。そうイザヤは告げたのです。そして、この若枝こそ神様の救いの御業を成し遂げてくださるお方、救い主、メシア、キリストなのです。イザヤは、この若枝であるキリストがどのようなお方なのか、そしてこのキリストによってもたらされる神様の救いが、キリストの御支配がどのようなものであるかを告げます。もちろん、この方によってもたらされる国は、目に見えるイスラエル民族の復興ではありません。そのような一つの民族の枠を超えた大いなる国、神の国です。

3.主の霊がとどまる

 第一に、この方の上には「主の霊がとどまる」と告げます。この霊とは、「知恵と識別の霊」「思慮と勇気の霊」「主を知り、畏れ敬う霊」です。何が大切で、何を為すべきなのか、それを具体的にどうすれば良いのか、そしてそれを実際に実行する勇気を持つお方だと言うのです。そしてそれは主を知り、主を畏れ敬うことと結ばれている。そのような王だと言うのです。
 イザヤが目にした実際の王は、ことごとくそれに反しておりました。何が大切であるかが分からず、それ故何を為すべきなのかを知らず、具体的な政策もなく、またそれを成し遂げる勇気もない。その根本にあったのは、主を知らず、主を畏れ敬うことのない不信仰でありました。しかし、神様が与えてくださるまことの王は、そのような方ではない。主を畏れ敬い、自分の力に依らず、ただ神様の力を頼み、神様の御心が成るように、そのために何をどうすれば良いのかを知っているし、それを成し遂げることが出来る。そのように、信仰に裏打ちされた知恵も勇気もあるまことの王だと言うのです。それは何よりも「主の霊」、神の霊と共にあるお方だからです。人間の知恵や勇気ではないのです。人は知恵を持ち、力を持ち、勇気を持てば、必ず傲慢になります。自分の力・才覚に溺れ、自分が神にでもなったかのように勘違いし、人々を見下し、不遜になるのです。しかし、この若枝は違う。主を畏れ敬う、まことに謙遜なお方なのです。
イエス様は、聖霊によって、神の霊によってマリアに宿りましたから、その存在そのものが神の霊と共にありました。馬小屋で生まれ、十字架の死に至るまで、謙遜に神様の御心に従われたのです。その知恵は、神の言葉である律法を誰よりも深く正しく理解し、それを人々に教えられました。そして、十字架による神様の救いの御業という、誰も考えたこともない神様の御心をも知っておられ、それを成し遂げられました。病を癒やし、数々の奇跡をなさいましたが、決して傲慢になることなく、十字架の死に至るまで神様の御心に従順であられました。実に、このイザヤの告げた若枝は、イエス・キリストというお方を指し示しているのです。

4.正義と公平と真実による裁き
 第二に、この若枝である王は正義と公平と真実と共にあるお方だと、イザヤは告げます。人は目に見える所、耳にする所で他人を判断します。それしか材料がないのですから仕方がありません。しかし、まことの王であるこの若枝は、私共自身よりも私共のことを御存知です。私共を造られたお方だからです。私共は、自分が本当に願い、望んでいることさえ知りません。あれがしたい、これもしたい。ああなりたいし、こうもなりたい。色々な思いが交錯し、しかも互いに矛盾している。そんな私共でありますから、本当に自分がどのようでありたいのかさえ良く分からないのです。しかし、この方は私共の心の中に何があるのか、すべてを御存知です。私共の罪も悲しみも嘆きも願いもすべて御存知です。そして、ただ知っておられるだけではなくて、何よりも私共を愛してくださっておられる故に、正義と公平と真実をもって私共を裁かれるのです。
 人が人を裁くというのは本当に難しい。難しいというよりも、完全に正しく裁くなどということはほとんど不可能ではないかと思います。私共はすぐに、あの人はこうだ、ああだと言いますけれど、その人のどれほどのことを知っているのでしょう。ほんの上っ面の、その人が自分と関わるときの顔しか知らないのです。その人全体から見れば、ほんのごく僅かなことしか知らないのです。にもかかわらずすぐに判断し、評価します。そして甚だしい場合には、ただその人を好きか嫌いか、そんな所で判断しているだけだということだって少なくないのです。それではとても、正義と公平と真実による判断とは言えないでしょう。私共はこのお方の前に出る時、自分の判断、評価というものが何といい加減なものであるかを知らされます。
 そして、この方の言葉は愛と真実と力に満ちておられます。私共はこの方の言葉によって自らの本当の姿を知らされ、悔い改めへと導かれるのです。4節bに「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」とはそういうことです。この方の言葉は、私共が罪に死に、愛に生きる者へと導くのです。この方の正義と公平と真実とは、私共を神様の御心に適う道へと導くものなのです。

5.この方によってもたらされるまことの平和

 第三に、このお方の御支配によってまことの平和がもたらされます。イザヤが目にしていた現実は、強い大きな国がその力に任せて、弱く小さな国々を蹂躙し飲み込んでいくというものでした。大きな国は兵隊を集め、軍備を整える。小さな国は、それでも何とか飲み込まれないようにと、やはり軍備を整える。大が小を飲み込む。それに抗い、小もまた必死に戦う。弱肉強食の世界。それは今に至るまで少しも変わることのない、この世界の現実です。クリスマスが近づきますと、今年こそ世界に平和が満ちるようにとの思いを強くさせられます。しかし、今年も世界はそのような状況にはなっていません。
 しかし、イザヤが告げた、このエッサイの株から生える若枝による国は全く違うのです。6~8節「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」ここに告げられている世界は、この自然界においてはあり得ない光景です。狼と小羊、豹と子山羊、子牛とライオン、牛と熊。それは、自然界においては食べるものと食べられてしまうものです。狼が来れば小羊は逃げる。食べられてしまうのですから当然です。しかし、この若枝によってもたらされる世界においてはそうではないと言うのです。
 一つには、これは小さな国と大きな国の関係を指している。そう読むことが出来ると思います。大きな国が小さな国を圧迫し、力で飲み込んでいく、そういうことがもはや起きない、軍備を整えることもしない、そういうまことの平和が来る。そういう世界をイザヤは見ている。そう読むことが出来るでしょう。それは何も、国と国との対立、戦争のことだけを言っているのではなくて、民族と民族、人種と人種、企業と企業、人と人が互いに争うことのない世界が来ると言っている。私共も、そのような世界になればと願わずにはいられないでしょう。
 あるいは、これは文字通り、狼が小羊と共に宿る、牛も熊もライオンも草を食べる、そのようにこの自然界そのものが全く新しいものに変えられるのだということを告げていると読むことも出来ます。そんな時はいつ来るのか。それは、イエス様が再び来られる時です。私共はその時を待っています。イエス様は一度来られました。イザヤの預言は成就しました。左様にイザヤの預言が真実であることが明らかにされた以上、この預言が完全に実現されるような全く新しい世界が来る。イエス様が再び来られ、新しい天と地とを造ってくださる。私共はそのことを信じて良いのです。
 この6節の最後に「小さい子供がそれらを導く。」とあります。この小さい子供とはイエス様を指しています。この新しい平和の世界は、実に、イエス様によってもたらされる世界であるということなのです。9節に「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」と告げられているように、全き平和の到来です。私共はこの日が来ることを待っているのです。

6.異邦人の救い

 私共は、この預言をしたイザヤと同じように、この世界が今なお、戦い、争い、飢え、差別、貧困、テロといった悲しい現実の中にあることを知っています。しかし、イザヤはこれがすべてではない、やがてエッサイの株から一つの若枝が生えてくる、この方によって全き平和が来る、そのことを見ていました。私共もこのアドベントの時、このイザヤと同じ眼差しを与えられるのです。イエス様が再び来られる。その時には全き平和が来る。その日を待ち望みつつ、私共は祈るのです。マラナ・タ。主よ来てください。これがアドベントの時、私共が為すべき祈りです。
 そしてその時には、9節b「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」と告げられておりますように、すべての民が主を知るようになるのです。ただ知識として知っているということではありません。主を愛し、主を信頼し、主に従うというあり方において主を知るということです。そして10節「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」とあるように、ユダヤ人だけではなくて、すべての民がイエス様のもとに来て、救いに与るのです。先程お読みしました新約聖書、ローマの信徒への手紙15章12節において、このイザヤ書11章10節が引用されています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」パウロはこの言葉をどういう文脈で引用しているかと申しますと、この個所の小見出しには「福音はユダヤ人と異邦人のためにある」とありますように、異邦人が救われることの根拠としてこのイザヤ書が引用されているのです。パウロは、イエス様の到来、イエス様の十字架と復活を、イザヤが預言したエッサイの若枝による新しい世界の到来と受け止めました。それ故、異邦人が救われることはこのイザヤ書の預言の成就として当然のこととして受け止め、異邦人伝道に邁進したのです。このイザヤの預言を真実なものと受け止めたが故に、彼は異邦人伝道へと邁進したのです。
 聖書の神様は天と地のすべてを造られた方でありますから、この方による救いは、ユダヤ人という一つの民族にだけ与えられるなどということはあり得ないのです。だから、異邦人である私共、日本人である私共も救われたのです。このイザヤの預言はイエス様の到来によって成就しましたが、まだ完成されてはいません。イザヤはここで、クリスマスにおけるイエス様の到来による救いとイエス様の再臨による救いの完成という、二つの事柄を告げているのです。私共は、イエス様の到来によって、その十字架と復活によって救いを与えられました。そして今、その救いの完成に向けての時を生きており、イザヤが告げた預言の中を生きているのです。
 次の主の日、私共はクリスマス記念礼拝を守ります。また、24日はキャンドル・サービスを守ります。そのためにチラシを作り、葉書を作りました。それは、一人でも多くの人にクリスマスの喜びに与って欲しいと願っているからです。そして、私共がそのように願うのは、このすべての民がイエス様のもとに集い、共に救いに与り、神様との親しい交わりの中に生きる日が来ることを、主の平和が世界に満ち満ちる日が来ることを信じ、待ち望んでいるからです。「マラナ・タ。主よ来てください。」と祈りつつ、私共の愛する一人一人に、クリスマスの喜びを伝える一週を歩んでまいりたいと思うのです。それが、私共にとって、御国に向かっての確かな歩み方だからです。


ページのトップへ