礼拝説教集 sermon

連続講解説教 expository sermon

イザヤ書

マタイによる福音書

召命と献身
イザヤ書6章1~8節 マタイによる福音書4章18~22節  小堀康彦牧師

1.イエス様の弟子であるキリスト者

 イエス様はガリラヤで伝道を開始されますと、四人の漁師を召し出して弟子にされました。まずシモンとアンデレの兄弟、次にヤコブとヨハネの兄弟です。この四人がイエス様の最初の弟子でした。後で八人が加わり、使徒と呼ばれることになる十二弟子となるわけです。イエス様は、神の国を宣べ伝えるという御自身の救いの御業を独りで為すのではなく、弟子を作り、彼らと共に為そうとされました。これはとても大切なことを私共に示しております。それは、イエス様が与える救いというものが、イエス様の弟子集団を形作るというあり方と不可分だということです。それは旧約において、神様の救いというものが、神の民イスラエルという存在を抜きにしてあり得なかったように、イエス様によってもたらされる救いというものもまた、新しいイスラエル、新しい神の民を形作るものであったということです。そして、その新しい神の民は、イエス様の弟子たちの集団だということなのです。キリスト者とはイエス様の弟子なのであり、新しい神の民であるキリストの教会はイエス様の弟子たちの交わりなのです。

 私共は先日、イエス様の御復活を覚えてイースターの礼拝を守りました。そして、今年は5月15日にペンテコステの記念礼拝を守ります。クリスマス、イースター、ペンテコステ。これがキリスト教の三大祭りです。このペンテコステにおいて、聖霊が弟子たちに降って、キリストの教会が誕生したと言われるわけですが、イエス様の弟子たちの群れとしての教会は、ペンテコステにおいて初めて生まれたのではなく、イエス様の宣教開始と共に生まれていたのです。このことは、イエス様お一人では手が回らないので手伝わせるために、或いは、身の回りの世話をする人が必要だったので弟子を取った。そういうことではないのです。イエス様は、「天の国は近づいた。」「神の国は近づいた。」と宣教されました。イエス様の到来と共に、神様の御支配される国が来たわけです。神の国には、神の国の住人がいなければなりません。この神の国の住人となる人。それがイエス様の弟子なのです。イエス様は、この神の国、天の国に人々を招くために来られたわけですが、この招きはイエス様の弟子になるように招くのと同じことなのです。

 イエス様の宣教の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」でした。この「悔い改めよ」とは、神様の許に立ち帰ることだと先週申しました。今朝与えられております御言葉は、そのことを更に具体的に、別の言葉でイエス様が告げられたものです。それが、「わたしについて来なさい。」という言葉なのです。神様に立ち帰るということは、更に具体的に言えば、イエス様について行く、イエス様に従っていく、イエス様の弟子になるということなのです。キリスト者とは、イエス様の弟子となった者です。イエス様を神の独り子と信じ、イエス様と一つにされ、イエス様の十字架と復活の救いに与った者。それは、イエス様の弟子となったということなのです。「私はイエス様を信じます。イエス様を愛します。しかし、イエス様には従いません。ついて行きません。」そんなことはあり得ないでしょう。実に、イエス様について行く者となる、イエス様の弟子となるということと、イエス様の救いに与るということは、同じことなのです。今朝、私共はこのことをしっかり心に刻み、受け止めたいと思います。私共はイエス様の弟子なのです。今朝、私共はイエス様の弟子として、ここに集っているのです。

2.召命と献身の個別性と普遍性

 今朝与えられている御言葉においては、四人の弟子が誕生した時のことが記されています。このイエス様の弟子が誕生するという出来事には、二つのことが必ずあります。一つは、イエス様によって弟子になるように召し出されるということです。これを召命、召して命じると書きます。この召命の出来事があるのです。そして二つ目、この召命に応える、「はい」と言って従う。これを献身と言います。この二つ、召命と献身によって、イエス様の弟子は誕生します。例外はありません。必ずこの二つがセットになっているのです。 そして、この召命と献身という出来事は、極めて個別的です。誰一人として、同じ状況でこの出来事が与えられるということはありません。キリスト者は皆、自分だけの「召命と献身の物語」を持っています。これを私共は、証しというあり方で語ったり、語られたことを聞くことがあるでしょう。それは、一つとして同じ話はありません。しかしながら、それを聞く者はどこか同じことを聞いていると感じます。自分の時と同じ出来事をそこで聞いています。それは同じ調べを聞いていると言っても良いかもしれません。皆、同じ神様に出会い、召し出された。そして、その同じ神様に従っていくことを決めた。この召命と献身の物語は、極めて個別的でありながら、同時にまことに普遍的なのです。私共は全く別の話を聞きながら、「私もそうだった。」そう思うのです。

 今朝与えられております御言葉は、世界で最初にイエス様の弟子となった四人の物語です。ここには、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネという、十二使徒の中でも特に重要な働きをした人たちの物語があります。しかし、これを聞いた代々の聖徒たち、キリスト者たちは、「私もそうだった。」そう思ったに違いないのです。或いは、「私に起きたことはこういうことだったのか。」と改めて思い知らされた。そのようにして、この物語は語り継がれ、聞かれ続けてきたのです。

3.イエス様の召し出し

 18節を見ますと、「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」とあります。イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられた。すると、シモンとアンデレが網を打っていた。彼らは漁師でしたので、いつものように仕事をしていたということでしょう。するとイエス様は、彼らにこう声をかけられたのです。19節「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」

 イエス様は、いきなりシモンとアンデレにこのように声をかけられたのです。イエス様がシモンとアンデレに会ったのが、この時が初めてだったのかどうかは分かりません。はっきりしていることは、彼らが魚を捕るという仕事をしている最中にイエス様が来て、「わたしについて来なさい。」と告げられたということです。そして、20節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」とありますように、二人は網を捨て、この時からイエス様に従う者となったのです。

 ここで私共は色々なことを思わされます。第一に、イエス様はシモンとアンデレが仕事をしている最中に声をかけ、召し出されたということです。私共は、イエス様が自分に語りかけられるのは、この礼拝の時とか、家で静かに聖書を読んでいる時とか、そういう時にだと思っているでしょう。もちろん、そういう時もイエス様は声をかけられるでしょう。しかし、全くそういう時ではない、仕事の真っ最中に声をかけられることもあるのです。イエス様は全く自由な方ですから、私共の都合に合わせるわけではないのです。この時シモンとアンデレは、網を打つという仕事の真っ最中でした。次のヤコブとヨハネも同じです。彼らは漁を終えて、網を繕っている時でした。

 このことは、イエス様は日常の生活の中で私共に声をかけられるということでしょう。仕事や家庭や子育てや介護、色々な課題を私共は抱えているわけですが、そのただ中で、「わたしについて来なさい。」そうイエス様は私共に声をかけられるということなのです。「この仕事が終わったら、この問題が解決したら、イエス様の話を聞きましょう。でも今はそれどころじゃない。」そんな思いを持ったことがある方もおられるでしょう。しかし、イエス様はその問題のただ中にある私共に向かって、「わたしについて来なさい。」「わたしに従って来なさい。」そう告げられるのです。この問題が解決したら、時間があったら、余裕が出来たら、ではないのです。その課題のただ中で、イエス様は私共を召し出し、「わたしについて来なさい。」と告げられるのです。このイエス様について行くということによって、私共の抱えている問題、課題に道が開かれていくのです。実に、イエス様に従っていくというところに、すべての問題が解決されていく道があるのです。

3.イエス様への献身

第二に、どうしてシモンとアンデレはすぐにイエス様に従ったのか、そんなことがすぐに決断出来たのかという問いが浮かぶかもしれません。網を捨ててということですから、仕事はどうしたのか。次のヤコブとヨハネの場合、22節に「舟と父親とを残してイエスに従った。」とあります。仕事は、家族はどうしたのか。「イエス様に従うということは、仕事を捨て、家族を捨てるということなのか。そんなことは自分には出来ない。」そういう思いが、この問いの背後にはあるのでしょう。

 しかし、先程申しましたように、召命と献身の出来事はまことに個別的なものですから、誰もが仕事を捨て、家族を捨て、ということではないことは明らかです。イエス様を取るのか、仕事を取るのか。イエス様を取るのか、家族を取るのか。そのような、どっちを取るかというようなことではないのです。しかし、イエス様の召しに応えて従うというところには、必ず「捨てる」ということがあるということも本当だと思います。何も捨てない。それは何も変わらないということでしょう。何も変わらないでイエス様に従うことは出来ません。何も変わらないのならば、それは悔い改めにならないからです。何かを捨てるのです。それは本当のことです。でも、それが何なのか、それはイエス様に召されて決めることです。他人がとやかく言うことではありません。  ここで大切なのは、「わたしについて来なさい。」と告げられたのがイエス様だということです。他の誰が言ったのでもないのです。イエス様は神の独り子としての権威をもって、そして圧倒的愛をもって、この言葉を告げられた。だから、この言葉を受けて、四人は喜んで従ったのです。それは、私共とて同じことです。この「わたしについて来なさい。」というイエス様の言葉もまた、私は十字架の言葉だと思います。私のために、私に代わって十字架にお架かりになったイエス様が、私に向かって「わたしについて来なさい。」と言われる。このイエス様に対して、どうして「嫌です。」なんて言えるでしょう。イエス様の十字架が私のためであったということが分からないのなら、「嫌です。」と平気で言えるでしょう。「私はこれこれをしなければならないし、このような将来の夢もある。あなたについて行くなんて出来ません。」そう言えるでしょう。しかし、イエス様の十字架の前で、イエス様の十字架を見上げて、そこから告げられる「わたしについて来なさい。」という言葉に対して、私は「はい」としか言いようがありません。それが献身ということなのです。
このイエス様に従うということについて、マタイによる福音書16章24節において「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とイエス様は言われました。十字架を背負うのですから、全く辛くもないし、全く苦しみもない、そんなことはないでしょう。しかし、自分の十字架を負うということは、嫌で嫌で仕方ないけれど、後ろ髪を引かれて仕方がないけれど、それでも何とか苦渋の選択をして、やっとの思いでイエス様に従うのではないということです。私共がこの「捨てる」ということに関して、歯を食いしばって、未練たらたらだけれど捨てる、そんなイメージを持っているとすれば、それは聖書が語ることではありませんし、代々の聖徒たちが歩んだ道でもありません。第一、そんなことでは続くはずもありません。イエス様の愛と赦しがあるのです。だから、私共は喜んでイエス様に従うのです。

 また、ここで「すぐに」という言葉が繰り返されていることに引っかかる人もいるかもしれません。「イエス様の召し出しを受けたなら、その瞬間に決断しなければならないのか。そんなことは私には出来ない。」そのように思われる方もいるでしょう。実際、私共が礼拝に集うようになってから洗礼を受けるまでには、一年とか二年とかかかっているわけです。礼拝に来て、説教を聞いて、その日に洗礼を決めたなんていう人はいないでしょう。では、私共の献身は「すぐに」ではなかったのでしょうか。私共は「すぐに」と言えば、文字通り「その時すぐ」と考えます。しかし、神様から見れば、三年かかっても、五年かかっても、二十年かかっても、「すぐ」なのです。私共の千年は、神様には一日に過ぎないのですから。

4.人間をとる漁師にしよう

 第三に、イエス様はシモンとアンデレに、「人間をとる漁師にしよう。」と言われました。イエス様はここで、イエス様に従うならばどうなるのか、そのことをお示しになったのです。イエス様は神の御子として、神様の御計画の中にあるシモンとアンデレの将来を示されたのです。仕事を捨てて大丈夫なのかと私共は心配してしまうかもしれませんが、神様の御計画の中で、彼らにはキリスト教会の礎となる将来があったのです。

 イエス様は闇雲に「わたしについて来なさい。」と言われるのではないのです。私共がイエス様に従っていくならば、その後のことはイエス様がすべてを備えてくださるのです。ですから、何も心配する必要はないのです。私が会社を辞めて神学校に行く時、私には何の心配もありませんでした。神様が何とかしてくださる。それを素朴に信じて、少しも不安を感じることがありませんでした。イエス様について行くなら、イエス様が必ず道を拓いてくださいますから、心配することはないのです。この安心が、イエス様の弟子となった者には、イエス様に従う者には、必ず与えられるのです。

 ところで、この四人の召命は、「人間をとる漁師にしよう。」とイエス様が言われたのだから、伝道者という特別な者に対しての召命であって、平信徒である自分とは関係ない、そのように読む人もおられるかもしれません。確かに、この召命と献身の記事はこの四人の、使徒とされた者固有のものです。しかし、召命と献身の物語には普遍性もあるのです。私は、イエス様が告げられたこの「人間をとる漁師にしよう。」という言葉の中にも普遍性があると思っています。キリスト者は誰もが伝道者として献身しなければならない、ということではありません。皆が牧師になるわけではない。しかし、すべてのキリスト者は、「わたしについて来なさい。」とのイエス様の召しを受けたならば、同時に「人間をとる漁師にしよう。」というイエス様の御心をも受けている。そう私は考えています。それはこういうことです。

 私共福音主義教会が宗教改革以来大切にしている原理として、「万人祭司」というものがあります。中世カトリック教会のローマ法王を頂点とした階級制度に対して、宗教改革者たちは否を唱えたのです。「信徒と祭司は身分が違う」という中世カトリック教会の理解に対して、「すべてのキリスト者はイエス様から召しを受けてキリスト者となった。そこに信徒と祭司の区別はない。そこにあるのは役割の違いだけだ。」と主張したのです。これはとても大切な点です。私は、この「万人祭司」というのは、「万人伝道者」と言い換えても良いと思っています。「人間をとる漁師にしよう。」というイエス様の召命の言葉は、すべてのキリスト者に向けられているものだということです。牧師・教師だけが伝道するのではないのです。イエス様の弟子は皆、伝道するのです。そのことを自覚的に受け止めてきた教会が、福音主義教会、プロテスタント教会なのであり、私共の教会なのです。明治の時代に宣教師として来日した人々の中には、信徒も大勢いました。私共の教会の伝統で言えば、ヘボン式ローマ字を作ったり、明治学院を建てたことで有名なヘボンさんは信徒でした。アームストロング青葉幼稚園を建てたアームさんも信徒でした。私共の教会は、信徒が伝道する教会なのです。

 今朝私共は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」というイエス様の言葉を聞きました。私に向けられた十字架の言葉として聞きました。この召命に応える者として、この一週もまた、それぞれ遣わされている場において、イエス様の弟子として歩んでまいりたいと思います。

[2016年4月10日]


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