礼拝説教集 sermon

特別礼拝説教 special sermon

ミカ書

マタイによる福音書

クリスマス記念礼拝説教 いと小さき者への祝福
ミカ書 5章1~4節a マタイによる福音書 2章1~12節  小堀康彦牧師

1.クリスマスを迎えて

 クリスマス記念礼拝を守っています。今年もクリスマスを祝える。このことを何よりうれしく思います。このクリスマス礼拝に集えた。このことを本当にうれしく思うのです。この一年、色々なことがありました。その歩みの中で、何とか信仰を保つことが出来た、守られた。そのことをうれしく思うのです。心から神様に感謝を捧げないではいられません。

2.神様に選ばれて

 今朝、一人の姉妹が洗礼を受けられます。皆さんもよく知っておられる、この二年程の間主の日の礼拝にほとんど休むことなく集って来られた方です。この方と洗礼の準備を進める中で、神様の選びについてお話をしました。「あなたがキリスト教の神様を選んだのではなく、神様があなたを選ばれたのですよ。」ということを話しました。すると、「自分が選んだのではなくて、神様が自分を選んでくださったのですか。ありがたいことですね。本当にありがたい。」そう言って涙を流された。その涙に私の方が狼狽え、また感動しました。神様が私を選んで信仰を与えてくださった。私共にとってそれは信仰の基本的なことであって、当たり前のことです。しかし、私共の信仰において当たり前であるこのことは、「本当にありがたいことだ。」と涙して受け取るべきことなのだと、改めて教えられました。

 神様は、その救いの御業を為される時、必ず「選び」ということをなさいます。聖書に記されている神様の出来事は、すべて「神の選び」に基づいて為されているものです。神様はアブラハムを選び、神の民を起こされました。神様はモーセを選び、出エジプトの出来事を起こし、律法を与えられました。神様はダビデを選び、神の民の国を建てられました。神様はイザヤを選び、エレミヤを選び、預言を与えられました。神様はペトロを選び、ヨハネを選び、パウロを選び、イエス様の弟子とし福音を宣べ伝えさせられました。そして、神様は私共を選び、この鹿島町教会に集わしめ、神の民、キリストの体なる教会を建てさせてくださっています。神様は、その救いの御業を「選び」という出来事をもって遂行して来られたし、今も為しておられるのです。私共は神様の選びによって神の民とされ、神の僕とされ、今朝ここに集っているのです。

3.なぜ占星術の学者たちが選ばれたのか?

 さて、今朝与えられております御言葉には、東方の博士たち、新共同訳では「占星術の学者たち」が、不思議な星に導かれてイエス様を拝みに来たという記事が記されております。ページェント(降誕劇)においても必ず出てくる場面です。ページェントでは、大抵一番最後にこの三人の博士が登場し、黄金、乳香、没薬をイエス様に献げます。教会の歴史においては、この三人の博士がイエス様を拝むのは、クリスマスの日ではなく少し後の日とされておりますが、いずれにせよ、ルカによる福音書が記す、飼い葉桶に寝るイエス様や羊飼いたちに天使が現れて救い主の誕生を告げる場面と共に、この博士たちがイエス様を拝む場面は、私共にとても馴染み深いものとなっています。

 しかし、私は正直な所、この箇所を読みながら、いつも戸惑いと申しますか、違和感と申しますか、何とも釈然としない思いがありました。それは、新共同訳になっていよいよはっきりしたのですが、それはこの東方の博士たちが占星術を行う者であったということです。旧約聖書において「占い」は、偶像礼拝と並んで神様が最も嫌われることの一つでした。40ヶ所以上にそう記されています。いくつか見てみますと、レビ記19章26節「占いや呪術を行ってはならない。」、民数記23章23節「ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。」、申命記18章10~12節「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。」とある通りです。このように、占いというものは神様が忌み嫌う行為なのです。私共の明日は、神様の御手の中にあります。占いというものは、その神様の御意志、御心というものを、信仰によらず窺い知ろうとする行為なのです。或いは、神様以外の何らかの原理によってこの世界が支配されており、それを知ることによって予め明日起きることを知ろうとする技術、それが占いです。つまり、占いというものは神様の御支配というものを信頼しなかったり、否定するものなのです。ですから神様は占いする者を厭われるのです。

 キリスト者になるということは、占いと決別することだと言っても良いほどのものです。私共は占いをしないのです。私共の明日は神様の御手の中にあることを知っており、その神様は私共を愛してくださっているのですから、私共は安んじて自らの明日を神様にお委ねする。占いによって明日を知ろうなどとは思わなくなったのです。私がキリスト者になった時、そのように教えられましたし、確かにそうだと思って歩んでまいりました。ところが、イエス様の誕生を知らされたのは占星術の学者であり、彼らは星に導かれてイエス様を拝みに来た。どうして占星術の学者なのか。釈然としない思いが私の中にいつも残っておりました。

4.最も遠い所に生きていた者であるが故に

 しかし今年、教会に来られなくなった方々をお訪ねして聖餐に与る訪問聖餐の備えをしている中で、ハッと気付かされました。訪問聖餐においては、お訪ねする方の状態により、状態が良くなければ1分程の、状態が良ければ15分、20分の説教をいたします。一日に4人の訪問聖餐をするならば、4つの短い説教をするわけです。その備えの中で、気付かされたのです。何故、彼らがイエス様の誕生を知らされたのか。その一つの理由がはっきり分かったのです。それは、彼らが占星術の学者という、神様から最も遠い所に生きていた者だからだということです。彼らは、まことの神を信じ、これに従う人ではありませんでした。それどころか、神様が最も忌み嫌う占い師でした。私は、どうしてそんな人が選ばれたのかと思っていたわけですが、そうではないのです。まさにそのように神様から最も遠い者であったが故に、彼らは選ばれたのです。神様の御前に誇るべきものを何一つ持ち得ない者であったが故に、選ばれたのです。彼らは聖書も知らず、神様も知らず、神の民でもなかった。占星術を行う異邦人でした。それ故に、彼らは選ばれたのです。

 私が、この占星術の学者が選ばれたことに対して違和感を覚えていたのは、自分は占いと決別した者だ、神様が忌み嫌う行為はしない者だという、自らを誇る思いがあったからなのです。何という傲慢でしょう。私は、自分が神様に選ばれた時のことをすっかり忘れてしまっていたのです。私は聖書の神を知らず、祈ることを知らず、占いも大好きで、自分の力で生きている、生きていく、そう思っていた者でした。しかし、神様はそのような私を選んでくださり、信仰を与え、神の子、神の僕としてくださった。この選びの中で、神様は私への愛を示されたのです。神様の愛とは、御自分から最も遠い、御自分に敵対する者のために、独り子を十字架にお架けになってまでその一切の罪を赦して御自分のもとへと招かれる、そういうものです。それが神様の愛です。そのことに気付いた時、この異邦人である占星術の学者たちこそが、イエス様の誕生を知らされるにまことに相応しい者であったということが分かったのです。

 神様は、毎日星の観測をしていた彼らのために、不思議に光る星を与え、救い主の誕生を知らせました。それはちょうど、モーセが召し出された時、いつまでも燃え尽きない不思議な燃える柴を見たのと同じなのです。神様は、彼らをイエス様の下に召し招くために、不思議な星を見せられた。神様は私共を召し招くためなら、何でも為さるお方なのです。私共が教会へと招かれ信仰を与えられるまでに、お一人お一人きっかけとなる出来事があったことでしょう。それは人間の眼には偶然のように見えたとしても、決してそうではないのです。実にピンポイントで私共を召し出すために、神様が備えてくださっていたことなのです。

5.いと小さき者に向けられる神の愛

 さて、イエス様がお生まれになった場所は、ベツレヘムという小さな村でした。このベツレヘムという村は、ダビデ王の出身の村でした。サムエル記上17章12節に「ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。」と記されています。救い主はダビデの子孫として、ダビデの村に生まれたのです。

 このベツレヘムに生まれるという預言は、ミカ書5章1節に預言されており、その引用がマタイによる福音書2章6節に記されています。ミカ書をそのまま読みますと、5章1節「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」とあります。ここで、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」とはっきり言われています。このいと小さき者からイスラエルを治める者が出る。だから、マタイによる福音書の引用では「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。」と言われているのです。ベツレヘムは「いと小さき者」なのです。しかし、そこに救い主が誕生する。だから、「決していちばん小さい者ではない」と言われているのです。救い主であるイエス様がお生まれになったのは、神の民の永遠の都エルサレムではなかったのです。いと小さなベツレヘムだったのです。ここにも、いと小さき者に心を向けられる神様の御心、神様の愛があります。

 私共は皆、いと小さき者です。誇るべきものも、取り立てて言うべきものも、何も無いいと小さき者。しかし、神様はそのいと小さき者を愛し、これを選び、神様の救いの御業のために用い給うのです。

6.占星術の学者たちのその後

 さて、この占星術の学者たちは、この後どうしたのでしょうか。東方に戻って、今までと同じように占星術を行ったのでしょうか。聖書には何も記されておりません。ですから想像するしかないのですけれど、ある人はこの占星術の学者たちが献げた黄金、乳香、没薬は、占星術のために用いる高価な道具であったと言います。とすれば、彼らがイエス様にそれを献げたということは、今まで自分たちの生業としていた占星術というものから足を洗ったということになるのではないか。彼らは神様に選ばれ、導かれ、まことの救い主、まことの王、自分の人生の主人と出会った。だから、彼らはもう占う必要はなくなった。そのような者に変えられた。そう考えて良いのではないでしょうか。聖書はそのことを、12節「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」という表現で示しているのではないかと思います。イエス様と出会う前と、出会ってからは、別の道を歩むようになるということです。

 神様は、その人がイエス様と出会うまでどのような歩みをしていたのか、どんな罪を犯したのか、そのようなことは一切問わないのです。ただ、イエス様と出会ったなら、変えられる。今までと違う歩みをするようになるのです。神様を愛し、神様に信頼し、神様に従う者となるのです。そうであるならば、この占星術の学者たちも変えられたに違いない。私はそう思うのです。  私共も皆、それぞれイエス様と出会う前とは違う、全く別の道を与えられました。その道とは、御国に向かっての道です。去年のクリスマスよりも、今年のクリスマスは一年分だけ、間違いなくイエス様が再び来たり給う日に近づいています。「クリスマス、御国に向かう一里塚」ということなのでありましょう。

 今週は子どものクリスマス会、キャロリング、キャンドルサービスとクリスマスの行事が続きます。その一つ一つを、イエス様の下に神様から最も遠い人たちを招いていく時、いと小さき者たちを招いていく時として神様が用いてくださいますように、神様に献げる業として為してまいりましょう。
2015年12月20日


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