礼拝説教集 sermon

特別礼拝説教 special sermon

マルコによる福音書

特別伝道礼拝説教 信じることが出来ない私のために
 マルコによる福音書 9章14~29節  小堀康彦牧師

1.はじめに

 私共が人生を歩んで行きます時、本当に困り果て、どうすれば良いのか分からなくなり、神様にすがるしかない、そう思わされることが何度かあるだろうと思います。自分が頑張れば何とかなるというのなら、頑張りもしましょう。しかし、自分ではどうしようもない。どうすることも何も出来ない。例えば、我が子や孫、或いは夫や妻といった愛する者が困り果て、弱り切っている姿を見ますと、本当に心が痛みます。何とかしてあげたいけれども、自分では何もしてあげられない。そういう時があるのだろうと思います。「今まさに、私がそうだ。」という方もおられるかもしれません。聖書の中には、そういう人がたくさん出てまいります。今朝与えられた御言葉、マルコによる福音書9章14節以下は、まさにそういう人が出てきています。

2.悪霊を追い出されるイエス様

 こういうことが記されております。幼い時から引きつけを起こさせ、ものを言えなくさせ、火の中、水の中に身を投げ込んでしまう悪い霊に取りつかれている子供。その子供の父親が、何とか我が子を助けたいと思ってイエス様の所に連れて来たのです。この父親にとって、このようなことはきっとこれが初めてではなかったと思います。良い医者がいると聞けばそちらに行き、力のある祈祷師がいると聞けばこちらに行き、色んな所に行ってきたのではないかと思います。しかし、どうにもならなかった。そしてこの時、この父親は遂にイエス様の所に来たのです。

 ところがその時、イエス様と三人の弟子、ペトロとヤコブとヨハネは留守でした。イエス様は三人の弟子を連れて山に登っていたのです。その山の上でイエス様の姿が変わり、服が真っ白に輝くということが起きました。「山上の変貌」と言われる出来事ですが、今日はこのことについては触れません。この父親は、残っていたイエス様の弟子たちに、自分の息子をこのようなひどい目に遭わせる霊を追い出してくれるようにお願いしたのです。弟子たちは、悪い霊をこの子から追い出そうとしました。しかし、出来なかったのです。この時より少し前に、イエス様に遣わされた十二弟子たちは、多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやしておりました。ですから、この時も弟子たちは、イエス様はいないけれども自分たちで出来ると思っていたでしょうし、群衆もイエス様の弟子なら出来ると思っていたでしょう。ところが、出来なかった。そこに、イエス様と三人の弟子が山から下りて来たのです。

 イエス様は何があったのかを聞き、改めて、この子に取りついていた霊を叱りつけ、こう言われたのです。25節「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、この霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行ったのです。その子は死んだようになってしまいましたが、イエス様が手を取って起こされると、立ち上がりました。悪い霊は出て行ったのです。さすがイエス様、神の御子、ということでした。

 イエス様は、天地を造られたただ一人の神様の御子でありますから、出来ないことは何一つありません。私共はこの方を信頼して、私共の抱えているすべての問題を持って来て、解決していただけば良いのです。私は、イエス様が解決出来ない問題などこの世界には何一つ存在しないと信じております。もちろん、私共が願っているようになることが解決ということではありません。私共は、どうなることが一番良いのか、そのことも本当の所はよく分からないものなのです。明日のことを見通すなどということは、私共には出来ないからです。しかし、イエス様は御存知です。そしてイエス様は、その御存知である一番良いあり方で私共の抱えている問題、課題を解決してくださるのです。私共はそのことを信じて、イエス様を信頼して、イエス様にお委ねすれば良いのです。

3.お出来になるなら

 しかし、この委ねるということがなかなか出来ない。分からないと言った方が良いかもしれません。このことが、私共の信仰においてはとっても大切なことなのです。
 悪霊に取りつかれた息子をイエス様の所に連れて来たこの父親は、イエス様に何と言って癒やされることを願い求めたでしょうか。21~22節「イエスは父親に、『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込
みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」ここで父親はイエス様に、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言ったのです。多分この父親は、今までいろいろな所にこの息子を連れて行ったのでしょう。そして、期待しては裏切られ、また期待しては裏切られる、それを何度も繰り返してきたのだと思います。そして今やっとイエス様の所にたどり着いたのですが、イエス様の弟子たちもやっぱりダメだったのです。ですから、この父親は、もうあまり期待するのはやめよう、そんな思いさえ持ったのかもしれません。そして、「おできになるなら」とつい口に出てしまったのでしょう。ここには「出来ないのなら、それも仕方がありません。諦めますから。」そんな思いが表れていると思います。この父親の言い方は、私共にもよく分かるのではないでしょうか。これと同じような祈りを、私共もしているでしょう。

 イエス様は、この父親のこの言葉を聞き流しませんでした。23節、イエス様は「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と明言されたのです。それは、「できれば」と言ったのを、「何を言うか。失礼だろう。わたしは神の御子だぞ。」と咎めたのではないのです。もし、そうならば、「信じる者には何でもできる。」ではなくて、「神の子であるわたしには何でもできる。」と言われたでしょう。しかし、イエス様は「信じる者には」と言われた。つまり、この父親が本当に信じるなら出来るのだと明言されたのです。問題は、イエス様の力ではなくて、この父親の信仰だ、そう言われたのです。それは、イエス様はこの父親の中に、「おできになるなら」という言葉の中に、神様に対してもう期待することさえも半ばやめようとしている思いを見抜かれたのです。神様に期待しない。それは、神様を信頼しないということでしょう。神様を信頼せず、神様に期待しないところで何が起きるのかということなのです。神様、イエス様は全能の方なのですから、何でもお出来になるのです。そのお方を信頼し、そのお方に期待するかどうかなのです。

4.信じます。信仰のないわたしをお助けください。

 このイエス様の言葉を受けて、この父親はこう答えました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」この時、この父親はイエス様の言葉を受けて、すぐに叫んだのです。反射的だったと思います。しかし、この父親の言葉は、イエス様が良しとするものでした。もう一度、この父親の言葉を聞いてみましょう。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」「信じます。」と言っていながら、「信仰のないわたし」と言っています。信仰があるのかないのか、どっちなんだと思う方もおられるかもしれません。果たしてどっちなのでしょうか。

 私共は自分に「信仰がある」「信仰がない」と言った場合、その信仰とは、自分の神様に対しての確信、揺るがぬ思い、そんなイメージを持つのではないでしょうか。ですから、「私の信仰を強くしてください。」とか「弱い信仰を強くしてください。」という言い方にもなるのでしょう。しかし、どんなことがあっても揺るがぬ確信、どんな時でも神様を信じ切る信仰、そんなものを持っている人が果たしているのでしょうか。この父親は、「わたしにはそんなものはありません。」そうはっきりイエス様に告げたのです。しかし、「それでも、お助けください。」そうイエス様に助けを求めたのです。「信仰のないわたしをお助けください。」とはそういうことでしょう。

 そして、「信じます。」なのです。揺るがぬ信仰も確信もないような私です。でも、私は今、あなたに頼るしかないのです。助けを求めるしかないのです。憐れんでください。不信仰な私のすべてをあなたは御存知です。信じ切ることの出来ない私のすべてを、今あなたに委ねます。あなたの御心のままに為してください。そう言ったのです。それが、「信じます。」と言った父親の思いだったのではないかと思うのです。

 イエス様は、それを良しとされたのです。私には信仰がある。私には確信がある。そんなことではないのです。私共には、イエス様の前に誇れるような信仰などありませんし、それがなければイエス様の憐れみに与ることが出来ないというようなことでもないのです。そうではなくて、私には何もない、この問題を解決する力も知恵も能力もない。信仰さえない。しかしイエス様、あなたはそのような私を憐れんでくださいます。あなたは何でもお出来になります。どうか憐れんでください。助けてください。そうこの父親はイエス様に願い求め、イエス様はそれを良しとされたのです。

5.私の娘が生まれたときのこと

 私は29年前に神学校を卒業して、前任地の東舞鶴教会に赴任しました。4月1日に赴任したのですが、その10日ほど前に結婚して、妻と二人で赴任しました。妻は併設の幼稚園の園長、私は伝道者として歩み始めました。私が30歳、妻が28歳の時でした。初めての土地で、すべてのことが初めてであり、右も左も分からぬまま、毎日が慌ただしく過ぎていきました。そして、数ヶ月が過ぎた頃、妻のお腹に子が宿ったことを知りました。そして、産婦人科に行って、確かに子が宿ったと分かりました。同時に、卵巣嚢腫というものが出来ていて、既にこぶし大になっている。このままではそれが産道を塞ぎ、出産出来ないので、手術をする必要があると言われました。しかし、今は危険なので、5ヶ月の安定期に入るまで待ちましょう、ということになりました。その先生は「手術は盲腸の手術のようなもので、大したことはありません。」と言われましたので、私共夫婦も大したことではないのだと思って、気楽なものでした。そして、5ヶ月目に入り、手術をすることになりました。手術は、ちょうどその頃妻の両親がおりました京都で受けるということになって、京都の大学の附属病院で手術を受けることになりました。そして、手術の担当のお医者さんが、手術を受ける前の日に説明をしてくれました。何とその時、「この手術は大変危険なので、お腹の子と母体のどちらかを助けなければならない時には、母体を助けます。お腹のお子さんは諦めなくてはならないことになるかもしれません。覚悟をしてください。」と言われたのです。私共夫婦は盲腸の手術くらいの気持ちでしたので、どう受け止めて良いか分からず、困り果ててしまいました。私は神様に祈るのですが、どう祈ったら良いかも分からず、手術の前の日、私は泣きながら、ただ「神様、助けてください。何とかしてください。」と繰り返し繰り返し、壊れたテープレコーダーのように祈り続けました。それ以外の言葉が出てこないのです。「神様助けてください。何とかしてください。どうかお願いします。頼みます。助けてください。」そんな祈りを祈り続けました。妻はどうであったかと言うと、これは後で聞いたのですが、暗くなった病室で明日の手術を思って祈っていたそうです。その中で、神様は私共を愛しておられる、神様は私たちに一番良い道を備えてくださる、だから明日の手術がどういう結果になったとしても、それが一番良いことなのだ、そう思えたそうです。そして、そう思えたら安心して眠ることが出来た、というのです。一方、私は眠ることも出来ず、ただ同じ祈りをずっと繰り返し祈っていました。結果は成功し、母子共に助かりました。そして、「まことに祈りによって与えられた子」ということで「真祈子」と名付けました。

 神様は、牧師として歩み始めたばかりの私共夫婦に、御自身が生きて働いておられること、祈りを聞き、道を拓いてくださること、このことをこの出来事をもって教えてくださったのだと思います。そして、だからすべてを支配し導いてくださっているお方に、すべてを委ねれば良い事を教えてくださったのです。駆け出しの牧師夫婦のために、神様は特別プログラムを組んでくださったのです。神様は私共一人一人に、時に適った特別プログラムを用意して、私共一人一人を導いてくださっているのです。

6.祈りによらなければ

 今朝与えられております御言葉は、29節「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」とのイエス様の言葉で閉じられております。弟子たちは、この息子から悪霊を追い出すにあたって、祈らなかったということは考えられないでしょう。弟子たちも祈ったと思います。しかしそれは、イエス様の目から見れば「祈り」になっていなかったということなのでしょう。弟子たちは、悪霊を追い出したことがあった。病人をいやしたことがあったのです。だから、自分たちは出来る、そう思っていたと思います。それがダメだったということなのではないでしょうか。私共の祈りは、魔術や呪術ではないのです。このイエス様の「祈りによらなければ」という言葉は、何か私共の祈りそのものに力があって、その力で悪霊を追い出すかのように読んでは間違いです。そうではなくて、自分の中には何も無いのです。でも、神様は何とかしてくださる。何とかしてくださらなければ困る。何とかしてください。そのように、ただ神様、イエス様を頼る。信頼する。委ねる。そうすれば、全能の神様が働いてくださるということなのです。事を起こしてくださるのは、徹底的に神様なのです。私共ではないのです。弟子たちは、実績がありましたから、自分たちは出来ると思ってしまったのでしょう。そこに問題があったのです。

 私共は、強い信仰を持たなければ、どんなことがあっても信じ切らなければ、そうでなければ信仰とは言えない。そんな風に思ってしまうところがあります。そして同時に、でも自分はそんな強い信仰は持てそうもない。そのように決めつけてしまうところがあります。しかし、私共の信仰には、強いも弱いもないのです。私共の信仰は、どこまで行っても不徹底なものなのです。信じ切れない私、不信仰な私なのです。しかし、イエス様はそのような私共の姿を私共以上に御存知であり、その上で私共を招き、「私を信頼しなさい。祈りなさい。信仰のない自分をも含めてすべてを委ねなさい。神様が事を起こしてくださる。安心して祈りつつ待ちなさい。」そのように私共一人一人に声をかけ、招いてくださっているのです。

 私共は、「これはこうなってああなって、そしてそうなる」、そんな見通しを持つものです。しかし、私共の人生は、そんな私共の見通し通りには決して行かないのです。こんなはずじゃなかったということが起きるのです。しかし、それは神様が私共を愛していないからではありません。神様は、決して心変わりするようなお方ではないのです。神様は私共を愛し、そのような出来事の中で、私共が祈ることを待っておられるのです。信じ切ることが出来ない私共のために待っておられるのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と祈るのを待っておられるのです。イエス様は、私共の祈りを聞き、これに応え、出来事をもって私共の歩みを導いてくださるのです。私共は、そのことを信じて祈るのです。信じ切れなくても、何とかしてくださいと頼るのです。そのことをイエス様は良しとしてくださるからです。

 私共は今朝、私共を祈る者へと招かれるイエス様の言葉を聞きました。ですから、このイエス様の招きの声に従い、祈る者として、ここから新しく歩んでまいりたいと願うのです。

[2015年9月27日]


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