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イースター記念礼拝説教

「あの方は死者の中から復活された」
詩編 68編20~21節
マタイによる福音書 28章1~10節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 今朝、私共はイエス様の復活を記念して礼拝を捧げています。神様は私共の想定外のことをなさいます。神様は私共の想定内の所にはおられません。天と地を造られたお方ですから、天と地の理(ことわり)を超えておられます。そのことが最もはっきり示された出来事、それがイエス様の復活でした。死んだ者が復活する。それはあり得ないことです。しかし、そのあり得ないことをなさるお方。それが天と地のすべてを造られた、全能である私共の神様です。神様は、御自身の独り子を私共に代わって十字架にお架けになり、私共の一切の罪を赦してくださいました。そして、その独り子を三日目に復活させ、肉体の死では終わらない命を証しされ、私共がその命に与る道をも開いてくださいました。このことを心に刻み、喜び、祝い、御名を誉め讃え、感謝を捧げるために、ここに集ってまいりました。イエス様が復活された出来事を記す聖書の箇所から、共に御言葉を受けてまいりましょう。

2.墓に行くと
 イエス様は、金曜日の午後3時に十字架の上で息を引き取られました。イエス様の遺体は、総督ピラトに引き取りを願い出たアリマタヤのヨセフによって十字架から降ろされ、墓に葬られました。勿論、アリマタヤのヨセフ一人で出来ることではありません。きっと、彼の召使いなどによってなされたことでしょう。総督ピラトに許可をもらって十字架から降ろし、墓に葬り、更に日没までにそれぞれが自分の家に帰り着いていなければなりませんでした。日没からは安息日になってしまうからです。ですから、とても慌ただしくイエス様の遺体は葬られました。
 そして「安息日が終わって、週の初めの日の明け方」、今ですと6時30分くらいが日の出ですので、朝の5時から6時くらいでしょうか、イエス様の婦人の弟子たちが、イエス様の墓に向かいました。彼女たちはイエス様の十字架を遠くから見ていました。そして、イエス様の遺体を葬るアリマタヤのヨセフの後をつけて、イエス様の遺体が葬られた墓を確認しておりました。彼女たちはイエス様の葬りに一切関わることが出来なかったことに、無念さ、寂しさを覚えていたのでしょう。せめて、人並みにイエス様を葬りたい。遺体をきれいにして、香料を塗って、丁寧に亜麻布で包んで、イエス様を葬りたい。そんな思いを持って、イエス様の墓に向かいました。ルカによる福音書には、「準備しておいた香料を持って墓に行った」(ルカによる福音書24章1節)と記されています。

  3.天使のお告げ①
 彼女たちが墓に着くと、驚くべきことが起こりました。まず、「大きな地震が起き」ました。そして、「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」のです。イエス様の墓を塞いでいた大きな石がわきに転がりましたので、墓の中が見えるようになりました。この時、イエス様の墓の番をしていた番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになって」しまいました。彼らは、弟子たちが来てイエス様の遺体を盗み出すことがないようにと、見張りをするように命じられていました。祭司長たちが「弟子たちが来て死体を盗み出し、『復活した』などと言いふらすかもしれない。」とピラトに言ったので、そうさせないようにと番をしていたわけです。ところが地震が起こり、墓の石がわきに転がり、天使が現れた。番兵たちは、この世のものではないものを見た恐ろしさに震え上がり、死人のようになった。つまり気を失ってしまいました。無理もありません。私だってこの場に居合わせたなら、腰を抜かしていたでしょう。
 しかし、イエス様の婦人の弟子たちは、同じように「恐ろしい」とは思いましたけれど、気絶してしまうことはありませんでした。そして、天使の告げる言葉を聞きました。天使はこう告げました。5~6節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」天使が告げる言葉は、婦人たちの思いをはるかに超えたものでした。そもそも、天使の言葉を聞くということ自体、彼女たちの思いをはるかに超えたものでした。天使に「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。…遺体の置いてあった場所を見なさい。」と告げられ、婦人たちはイエス様の遺体を納めた墓の中を覗いたに違いありません。そこにはイエス様の遺体はありませんでした。ルカによる福音書には「亜麻布しかなかった」、ヨハネによる福音書には「亜麻布が置いてあった」「亜麻布が置いてあるのを見た」とあります。彼女たちは、これが何を意味するのか、にわかに理解することは出来ませんでした。
 彼女たちは、天使から「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と告げられたその言葉の意味はよく分からなかったけれども、イエス様は十字架の上で死んで、それで終わってしまったわけではないということは、何となく分かりました。天使は「かねて言われていたとおり」と言いましたけれど、確かにイエス様は少なくとも3回は「十字架と復活の予告」をされていました。16章21節、17章23節、20章19節です。しかし、これほどはっきり何度も告げられていながら、イエス様の弟子たちでイエス様が十字架に付けられたときにこのことを思い起こす者はおりませんでした。この婦人たちもそうです。それ程までに死というものは絶対であり、これが打ち破られるなどということは、弟子たちも本気にすることが出来なかったということでしょう。復活とは、この世の理(ことわり)に反したことであり、とても信じることなど出来ない、私共の想定の外にある、とんでもない出来事でした。しかし、全能の神様は確かにイエス様を復活させられました。そして、自らが全能であることをお示しになりました。死では終わらない命があることをお示しになりました。

4.天使のお告げ②
 まだ何が何だかよく分からない婦人の弟子たちに、天使は続けてこう告げます。7節「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」「確かに、あなたがたに伝えました。」と念をおされて、婦人たちは急いで、自分たちが見聞きしたことを弟子たちに伝えるために走って行きました。
 この時の婦人たちの心の様子を聖書は「恐れながらも大いに喜び」と記しています。不思議な表現です。「恐れる」という感覚と「喜ぶ」という感情が、同時に彼女たちの心にあったというのです。私は、この聖書の記事の背後には、この時のことを証しした婦人たちの証言、婦人たちの肉声があると考えています。婦人たちは、このイースターの朝のことを何度も何度も話したに違いありません。「イエス様が復活された日、墓に行くと、天使に語りかけられたの。『イエス様は、ここにはおられない。復活された。』って。天使は怖いし、何を言われているのか分からないし。でもイエス様の遺体がないの。『復活した』と天使は言うし、もう何が何だか分からなかった。でもイエス様は死んでない、また会える、そう思うと、嬉しさがこみ上げてきたの。そして、弟子たちの所に走って行ったの。」そんな風に証ししたのではないでしょうか。

5.復活のイエス様との出会い
 そして、彼女たちが弟子たちの所に行く途中で、復活されたイエス様が現れ、婦人たちに「おはよう」と言われました。この復活のイエス様と出会うことによって、婦人たちは天使が告げた「イエス様が復活なさった」ということがどういうことなのか、はっきり分かりました。イエス様の「おはよう」という声を聞いて、婦人たちは「イエス様だ。何も変わっていない。あのイエス様だ。」と分かりました。そして、婦人たちは「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」のです。この「ひれ伏す」と訳されている言葉は、「神様を拝む」という意味でしか用いられない言葉です。今まで、婦人たちはイエス様の近くにいて、イエス様の言葉を聞き、イエス様の奇跡を見て来ました。イエス様を愛していました。しかし、イエス様を「神様として拝む」ということはありませんでした。この「ひれ伏す」と訳されている言葉は、28章17節の、ガリラヤで11人の弟子たちが復活のイエス様に出会ったときにも用いられています。婦人たちも弟子たちも、復活のイエス様を初めて神様として礼拝しました。これがキリスト教の礼拝の始まりです。十字架で終わっていたら、この礼拝はありませんでした。私共が週の初めの日に礼拝を捧げているのは、復活されたイエス様を婦人たちも弟子たちも礼拝したからです。キリストの教会は、その最初から復活のイエス様を神様として礼拝してきました。この復活という出来事がなければ、イエス様を神様として拝むということはなかった。この復活によって、弟子たちはイエス様を神様として拝み、礼拝し、この復活の命に与るという救いの道を感謝と喜びをもって受け止めてきました。週の初めの日が来る度に、イエス様の復活を覚えて礼拝を捧げてきました。それがキリストの教会の礼拝です。後に「三位一体」という教理が定まりますが、その教理が出来たのでイエス様を神様として拝むようになったわけではありません。キリストの教会は、その最初から、イエス様が復活された日から、イエス様を神様として礼拝してきたのです。その礼拝において大切に守られてきたのが、聖餐です。

6.聖餐
 イエス様が聖餐を制定されたのは、最後の晩餐の時でした。聖餐は、初代教会においては「パン裂き」と呼ばれていました。使徒言行録2章に記されているように、ペンテコステの出来事があって、洗礼を受けて多くの者がキリスト者が生まれ、キリスト者の群れが誕生したとき、彼らは何をしていたのか。初代教会の様子を聖書はこう記しています。使徒言行録2章42節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」この「パンを裂くこと」という言葉は聖餐を指しています。
 今、聖餐を制定されたときのイエス様の言葉を丁寧に見るいとまはありませんけれど、イエス様は「これはわたしの体である。」と告げ、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と告げられました。聖餐においてイエス様の体を食べ、その血を飲むということは、イエス様の十字架によって与えられる神様との新しい契約を更新し、イエス様の命、復活の命に与るということです。更にイエス様は、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」と告げられました。つまり、この時イエス様は、十字架の死によってすべてが終わるのではなく、復活する。更に、神の国・天の国において再び弟子たちと食卓につく時が来ると告げられました。
 この聖餐においてキリスト者は、復活されたイエス様と出会い、イエス様の命と一つとされた恵みを味わってきました。また、イエス様が私共のために十字架にお架かりくださったことを思い起こして来ました。そして、やがて神の国・天の国においてイエス様と共に同じ食卓につく日を、信仰をもって仰ぎ望んできました。つまり、私共のために、私共に代わって十字架に架かってくださったイエス様を思い起こし、復活されて今も生きて働き、私共と共にいてくださるイエス様との交わりを受け止め、やがて御国において相まみえるイエス様を仰ぎ、拝んできました。イエス様と一つとされたが故に、イエス様の十字架は私の十字架となり、イエス様の復活は私の復活となり、イエス様の昇天は私の召天となります。イエス様の命が私の命となりました。イエス様と一つにされて、神の子としていただいた私共です。この救いの恵みを最もはっきりと、目に見える形で示しているのが聖餐という出来事です。ですから、代々の聖徒たちは聖餐を大切にしてきました。

7.N.Y.姉の証し
先日、ある婦人の証しの本が届きました。この婦人は、昨年の「新来会者を招く会」があった日に当教会の礼拝に出席された方で、N県のN教会の信徒の方です。礼拝の後の「新来会者を招く会」にも出席され、お証しをしてくださいました。開口一番、「大腸癌で余命半年から一年という宣告を受けたので、最後の旅行に富山鹿島町教会で礼拝をしたいと思って来ました。」と言われました。あまりに明るく言われたので、呆気にとられてしまいました。本人も付き添いの方も、当教会のホームページの説教で祈祷会を長年してきたという方でした。ホスピスでの生活の中で、N教会の牧師が聞き手となって、その婦人とされた対話を冊子にしたものです。牧師が婦人の言葉と思いをとても上手に引き出していました。そして、そのやり取りはとても正直な言葉で語られていて、あっという間に読んでしまいました。その中で、こんなやり取りがありました。

牧師 「この本の題名を『生の中に死があり 死の中に生がある』とした意図は?」
N.Y. 「生があって死がある。生の中に死がある。死なないものはない。生物は永遠に生きるものではない。死の中に生がある。死は死では終わらない。死の中に生がある。復活がある。」
牧師 「つまり、生の後に死がやって来て、死の後に復活がやって来るということですね。」
N.Y. 「違う、違う。そうじゃない。生の中に死があるということ。生の中に死が既に待っているということ。生は死を含んでいるということ。生は死の後からやってくるのではない。」
牧師 「どこが違うのかよく分からない。」
N.Y. 「生の中に死がある。生の後から死がやって来るとしたら、私たちにとって死は永遠にやって来ない。明日死ぬとしたら、明日まで私たちは生を生きて、死を忘れている。死は、いつまでも先延ばしにされ、結局死は死の瞬間まで忘れられている。」
牧師 「なるほど。後半の『死の中に生がある』というのは、復活のことを言っていると分かるが…」
N.Y. 「私たちクリスチャンにとり、死の中に復活が待っている。死は死では終わらない。復活に続くのだから、死は復活を含んでいる。死だけで存在することはない。」
牧師 「死の後から復活が来るのではないということですか。」
N.Y. 「死の中に復活がある。後ではない。後から来るなら、死だけが存在する瞬間があることになる。私たちは暗闇の中にはいない。」

8.キリストの命に一つとされた者
 私はここを読みまして、この方は「自分の命がキリストの命と一つにされている」という救いの恵みをしっかり受けとめ、自分の言葉で語っていると思いました。使徒パウロが「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマの信徒への手紙6章4~5節)と告げているとおりです。私共はキリストと一体とされ、イエス様の死の姿と重ねられ、復活の姿にあやかることになります。
 また、ラザロの復活の場面で、イエス様はマルタとの会話においてこう告げられたこと。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネによる福音書11章25~26節)この時イエス様が言われた「信じる者は、死んでも生きる。」とか「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」という御言葉は、イエス様の命と私共の命が一つにされるという救いの恵みを受け取らなければ、よく分からないのではないでしょうか。
 私共の命は「単なる肉体の命」として受け止めることは出来ません。勿論、肉体の命は大切です。しかし、私共の命は、何よりも十字架のイエス様の命と、そして復活されたイエス様の命と一つにされました。この命は、顕微鏡を覗いても見えることはありません。ただ信仰によって、ただ聖霊なる神様によって、私共に与えられた命です。そして、ただ信仰によって受け止めることが出来る命です。この恵みに与っていることをしっかり受けとめ、今、詩編の詩人と共に、代々の聖徒たちと共に、私共の神様を心から誉め讃えたい思います。「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神。」(詩編68編20~21節)

   お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。あなた様の御名を心から畏れ敬います。
 あなた様は今朝、イエス様の復活を覚えてのイースター礼拝を捧げることを得させてくださいました。感謝いたします。あなた様は、私共に信仰を与え、復活されたイエス様の命と一つにしてくださり、復活の命に与る者としてくださいました。あなた様の子としてくださいました。心から感謝いたします。この恵みの中に私共が留まり、御名を誉め讃えつつ、御国に向かって健やかに歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを心より祈り、願います。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2024年3月31日]