日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「復活されたイエス様による派遣」
イザヤ書 66章18~21節
マタイによる福音書 28章16~20節 

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 2024年度最初の主の日の礼拝を迎えました。先週は、イエス様の御復活を覚えて、イースター記念礼拝を捧げました。礼拝後には祝会もいたしました。5年ぶりに食事を共にしての祝会でした。そして、週日には訪問聖餐を行いました。今週も行います。コロナ禍以降、病院や施設の対応はそれぞれ随分違っていますが、訪問聖餐が出来る施設も出始めました。本当に良かったと思います。

2.復活されたイエス様と出会った婦人たちと使徒たち
 イースターの朝、イエス様の墓に来て復活のイエス様に出会ったのは、婦人の弟子たちでした。それは4つの福音書すべてに記されています。もし、イエス様の復活が弟子たちによるねつ造であったならば、婦人たちがイエス様に出会ったのではなく、使徒たちが最初に出会ったとしたことでしょう。当時の女性の地位はとても低く、聖書で人数が記されるときも女性と子どもは数に入らないほどです。ですから、有名な「五千人の給食」の出来事は、成人男子が5千人いたということであって、実際にはそれに加えて女性や子どもたちがいました。いわゆる「女子供が言っていること」というのは、信用出来ないこと、取るに足らないつまらないことという意味でした。ですから、「婦人の弟子たちが復活のイエス様に最初に出会った」などという話にするはずがありません。イエス様の復活という出来事は、そうでなくても中々信じられない、受け入れられない出来事です。それを、婦人たちが復活のイエス様に出会ったとか、婦人たちが天使と出会って天使の言葉を聞いたとか、わざわざそんな話にするはずがありません。しかし、4つの福音書はすべてそのように記しています。それは、本当にそうだったからです。それは、この世においては軽んじられている人であっても、神様は軽んじない。神様は独り子を十字架に架けるほどに皆を愛しておられるからです。その御心に適ったことでした。イエス様の誕生を最初に知らされたのが、王様でも、祭司でも、律法学者でもなく、羊飼いだったというのも、同じ理由でしょう。神様の愛は、この世の地位や立場などと全く関係ないからです。
 そして、イエス様の11人の弟子たち(この時イスカリオテのユダは既に自殺してしまっていたのでイエス様の弟子は11人でした)は、婦人たちに告げられたとおり、ガリラヤに向かいました。婦人たちはイエス様の墓で天使に告げられ、また復活のイエス様からも同じことを告げられていました。婦人たちは「ガリラヤに行くように。そこでイエス様にお目にかかれる」と使徒たちに伝えました。それで彼らはガリラヤに向かいました。エルサレムを出発するとき、弟子たちは半信半疑だったと思います。ルカによる福音書では、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、信じなかった。」(ルカによる福音書24章11節)とはっきり記しています。
 今朝与えられている御言葉は、ガリラヤにおいて11人の弟子たちが復活されたイエス様と出会った時のことを記しています。これが何時だったのか、はっきり記されておりませんので分かりませんけれど、私はイースターの次の週の初めの日だったのではないかと思っています。エルサレムからガリラヤまで150㎞以上ありますので、歩いて一週間くらいはどうしてもかかります。イエス様が復活された次の日などであるはずがありません。復活されたイエス様は、何度もその御姿を弟子たちに現されました。一回ではありません。何度も御姿を現し、弟子たちに話をし、聖書を解き明かし、食事を共にしました。イエス様が天に昇られるまでの40日間、何度も何度もです。この40日の間に、5回の週の初めの日があります。この週の初めの日、これが後に「主の日」と呼ばれるようになりますが、この最初の5回の主の日に、弟子たちは復活のイエス様と出会い、食事をし、御声を聞き、イエス様を礼拝したのではないかと私は考えています。復活されたイエス様との出会いと交わりが、キリストの教会の主の日の礼拝となっていきました。

3.ガリラヤの山で
 しかし、どうしてイエス様はガリラヤの地を指定されたのでしょうか。ガリラヤは弟子たちがイエス様と出会った場所であり、一緒に町々村々を回った土地でもあります。弟子たちにとって、ガリラヤは自分たちが生まれ育った土地であると同時に、イエス様と出会い、過ごした土地でした。ガリラヤ湖で嵐に遭ったこと、山上の説教を聞いたこと、5千人の給食がされたこと、病人が癒やされたこと等々、弟子たちはガリラヤの風景を見るだけでイエス様がお語りになったこと、なされた奇跡を思い起こしたことでしょう。復活されたイエス様が弟子たちと会おうとされたのは、弟子たちをもう一度御自身の弟子として召し出して、福音を宣べ伝える者として派遣するためでした。その場所として、イエス様はガリラヤを選びました。それは、一つには「もう一度、最初からやり直そう」という意味だったと思います。何故なら、弟子たちはみんなイエス様を捨てて逃げてしまった者だったからです。ペトロはイエス様を三度知らないと言ってしまいました。しかし、他の弟子たちに至っては、大祭司の屋敷に連れて行かれるイエス様の後をつけることさえしませんでした。イエス様が捕らえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタイによる福音書26章56節)とはっきり記されています。自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちともう一度やり直す。その場所として、イエス様はガリラヤをお選びになった。原点に返って、一からやり直す弟子たちにとって、ガリラヤの地は実に相応しい場所でした。
 第二に、もう一度やり直すと言っても、弟子たちがイエス様と過ごした日々が無駄になるわけではありません。しかし、あのガリラヤでの日々を思い起こし、イエス様が語られたこと、為されたこと、その一つ一つを思い起こしつつ、その意味を「十字架に架かり復活されたイエス様」がお語りになり、為された出来事として受け取り直す必要がどうしてもありました。イエス様が語られ、為されたことは、すべて「十字架に架かり、復活された方」が語り、為されたこととして受け取り直さなければ、本当の意味が分からないからです。イエス様は、ガリラヤの地で御自身が語られたこと、為されたことを弟子たちに思い起こさせながら、弟子たちにその本当の意味を教えられたのです。

4.復活のイエス様を礼拝する
 さて、弟子たちは復活されたイエス様と「指示されていた山」において出会いました。どうして「山」だったのか、そのことは後で触れます。弟子たちは復活されたイエス様に「ひれ伏し」ました。先週の説教でもお話ししましたが、ここで「ひれ伏した」と訳されている言葉は、直訳すれば「礼拝した」という言葉です。聖書において、礼拝の対象は厳密に唯一の神様だけです。それ以外は偶像礼拝となります。つまり、弟子たちは、復活のイエス様を神様として礼拝した。この時、復活されたイエス様は、弟子たちに対して一切恨み言を言われませんでした。「お前たちはわたしを見捨てて逃げたな。ペトロよ、お前は三度もわたしを知らないと言ったな。」なんて、全く言いませんでした。こんな風に言われたら怖いですね。しかし、この復活されたイエス様の表情には、しぐさには、そんな気配は全くありませんでした。復活されたイエス様に出会った瞬間、弟子たちは自分が赦していただいたことがはっきり分かりました。この時、イエス様は弟子たちに「すべてを赦す」というようなことは、何も告げていません。また聖書には、この時のイエス様の表情やしぐさについては、何も記してありません。しかし、私共には分かります。この時のイエス様のお顔は実に晴れ晴れとして、両手を広げて弟子たちを迎え入れるようなしぐさをされていたに違いないと私は思っています。イエス様にすべてを赦していただいた弟子たちは、復活されたイエス様を「我が主、我が神」として礼拝したのです。ここで、イエス様が赦し、イエス様に赦されるということが、イエス様を神様として礼拝することの根本にありました。
 ただ、ここで見過ごせない一言が記されています。それが「しかし、疑う者もいた。」という言葉です。目の前に復活のイエス様がいるのに、一体何を疑うというのでしょうか。目の前のイエス様は、本当に復活したイエス様なのだろうか。幻ではないのか。イエス様は本当は死んではいなかったのではないか。そのように疑った者もいたのかもしれません。しかし、それ以上に重大な疑いは、「イエス様を神様として礼拝して良いのか」という疑い、疑問だったのではないでしょうか。この問題は紀元325年の第一回ニカイア公会議まで議論が続きました。現在でも、すべてのキリストの教会が「あれはキリスト教ではありません」と言っているもの、いわゆる異端ですが、それはイエス様を神様として礼拝することをしません。しかし、イエス様を神様として拝む、キリストを礼拝する、だからキリスト教と言うのであって、イエス様を礼拝しないのであれば、それはキリスト教ではありません。
 弟子たちの中にそのような者がいても、イエス様はこの11人の弟子のすべてを受け止め、再び弟子として迎え、召命を与えられました。私共の信仰は弱く、揺れ、惑います。100%全く疑いのない信仰者などいません。しかしそのような者たちが、それでもイエス様の赦しによって立てられているのが、キリストの教会です。この「疑う者」の中に、自分は入っていないと考えませんように。それは思い上がりです。

5.復活のイエス様の言葉①「天と地の一切の権能を授かっている」
イエス様は、このとき弟子たちに幾つかの言葉を告げられました。第一に「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(18節)でした。これは宣言です。イエス様は自らが神の御子であり、神であることを宣言されました。イエス様は「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」(マタイによる福音書11章27節)と語られたことがありましたが、復活されて、いよいよこのことをはっきりさせました。もう隠す必要はありません。
 イエス様の権威の前で、地上の目に見える権威は全く意味がありません。つまり、このお方の前では、この礼拝においては、すべての者がただひれ伏すだけだということです。ここに「神の御前における平等」ということがはっきりします。
 そして、この宣言は、イエス様が私共を救う権能をお持ちであるということを示しています。この権能によって使徒たちは赦され、選ばれ、召し出され、立てられ、遣わされていくことになります。私共が召命に従わなければならない理由は、ここにあります。イエス様が与えられる召命は、絶対の権威を持つものだからです。これに抗うことが出来る者などいません。

6.復活のイエス様の言葉②「すべての民をわたしの弟子にしなさい」
 次にイエス様が告げられたのは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(19節)でした。これは、「イエス様の大号令」「大伝道命令」と呼ばれたりします。この「大」というのは、これを語られたお方が復活されたイエス様、天と地の一切の権威をお持ちの方ですから、これよりも権威のある大いなる御命令はないという意味です。また、この命令は誰も反故にすることは出来ませんし、なかったことにすることも出来ません。この御命令は、いつでもどこでも、すべてのキリスト者、すべてのキリストの教会に与えられています。それは「時が良くても悪くても」です。このイエス様の御言葉に従う者たちによって、この2000年の間に、世界中にあるすべてのキリストの教会、キリスト教の学校や諸施設は建てられてきました。今も、私共はこのイエス様の言葉に従って歩んでいます。このイエス様の「あなたがたは行って」という言葉に従って、弟子たちは世界中に出て行きました。そして、現在でもなお世界中に宣教師が遣わされています。私共は、どこにいても、何をしていても、イエス様の恵みと真実を、イエス様によって救われた喜びを告げています。言葉にしなくても、その存在をもって周りの人たちに伝えています。私共の内に宿った神様の光は、隠すことなど出来ないからです。それが「あなたがたは世の光である」とイエス様が告げられた意味でしょう。

7.復活のイエス様の言葉③「洗礼を授けなさい」
 この「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という御命令に付随して、二つのことが告げられています。一つは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」ということです。洗礼は、直接イエス様のこの御命令から始まりました。キリストの教会が途中で、「これが良いんじゃないか」と始めたものではありません。復活されたイエス様は、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ことを命じることによって、洗礼を受ける者が神様の子とされ、イエス様の命と一つに結ばれ、永遠の命に与る道を与えてくださいました。すべてのキリストの教会は、この御命令に従って洗礼を授け続けてきました。そのやり方やそこに至る準備などは教派によって多少の違いはありますけれど、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ことに違いはありません。私共はこの洗礼によって、同じイエス様の命に与った者として、世界中のキリスト者と結ばれています。そして、更に言えば、私共に洗礼を授けた人は誰かから洗礼を授けられており、さらに、その人も誰かから洗礼を授けられており…と、ずっとたどっていくならば、すべてのキリスト者はこの使徒たちにたどり着くことになります。すべてのキリスト者が、使徒たちまでさかのぼっていくことが出来ます。この洗礼によって結ばれた者たちの群れ、それがキリストの体なる教会です。世界に広がり、歴史を貫き、天地を貫くキリストの体。これにそれぞれのキリスト者が結びつけられるのは聖霊によってであり、信仰によってです。しかし、目に見えるところで言えば、この洗礼によってです。

8.復活のイエス様の言葉④「教えなさい」
 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という御命令に付随して告げられたもう一つのことが、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」です。復活のイエス様が弟子たちと出会われたこの山は、マタイによる福音書5章から始まります、山上の説教をお語りになった山ではないか、と多くの人が考えています。この山で「あなたがたに命じておいたこと」と言われれば、弟子たちは山上の説教を思い起こしたことでしょう。勿論、それだけではありません。弟子たちはイエス様とガリラヤの村々を旅しながら、たくさんのことを教えていただきました。それをみんなに教えていきなさいと命じられたわけです。勿論、そこには聖餐を守ることも含まれていたでしょう。イエス様は、洗礼を受けて救われるだけではなくて、救われた者として、神の民としてどのように生きていくのか、そのことをも教えていくように命じられました。この教えによって、人々は変わっていきますし、世界が変わっていく。何が大切なのか、神様の御前にどのように生きることが正しく、美しいことなのか。そのことを教えられ、学んでいく中で、少しずつ人は変わっていく。そして、世界も変わっていきます。何故なら、この世界は神様に造られた世界であり、その目指すべきところは神の国だからです。

9.復活のイエス様の言葉⑤「あなたがたと共にいる」
 このイエス様の言葉に従って、使徒たちは世界中に出て行きました。しかし、どんなに励んでも、周りから全く相手にされない。そういう時もあったでしょう。この11人の使徒たちの多くは殉教しました。しかし、このイエス様が与えてくださった福音、キリストの命は、途中で絶えることなく今に至っています。このイエス様の大号令を自分に告げられた言葉として受け止めたキリスト者たちによって、イエス様の福音は伝えられ続けてきました。その歩みを守り、支え、導いてくださったのは、イエス様御自身です。イエス様は最後にこう約束してくださいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この約束は真実です。この約束が、先ほどのイエス様の大号令に対しての保証として与えられました。イエス様の御言葉に従っていくとき、私共はどこにいても、何をしていても、どのような状況にあっても、イエス様は私共と共にいてくださいます。しかも、この「いつも」というのは、「世の終わりまで」ですから、いつの時代でも、その時代のキリスト者と共にいてくださるという約束です。もっと言えば、この約束は私共の肉体の死によっても破られることはないということです。キリスト者は死んでもイエス様と共にいるということです。ですから、使徒たちは肉体の死をも恐れずに、この御命令に喜んで従っていきました。
 確かに、イエス様は弟子たちにその復活の姿を現されたときのように、私共の目に見えるわけではありません。しかし、イエス様は御言葉と出来事をもって、私共と共にいてくださることを示し続けてくださっています。そして、イエス様はすべての人と共にいてくださるために、復活された後、天に昇られ、そこから聖霊を送ってくださり、聖霊として私共と共におられることにされました。それがペンテコステの出来事です。十字架・復活・昇天・ペンテコステ、これは一つながりのイエス様の救いの御業です。復活の前に十字架があります。そして、復活の後には昇天があり、ペンテコステへと続きます。使徒たちは、そのすべての出来事の証人として「イエスは主なり」との信仰に生き、その信仰を伝えました。新しく始まりました2024年度、私共もこの信仰を受け継ぎ、喜んでこのイエス様の大号令に従う者として歩んでまいりたいと願うものです。 

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 あなた様は今朝、復活されたイエス様が弟子たちを再び召し集めて、御自身の証人として遣わされた御言葉を与えてくださいました。時が良くても悪くても、代々の聖徒たちは、イエス様が共にいてくださる恵みの現実の中で、このイエス様の言葉に従い、福音を宣べ伝え続けてきました。私共もまた、そのような歩みを御前に為してまいりとうございます。どうか、私共を聖霊によって励まし、慰め、支えて、御業に仕えていくことが出来ますよう、心から祈り、願います。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2024年4月7日]