1.はじめに
ペトロの手紙一から御言葉を受けてまいります。レントやイースターがありまして、ペトロの手紙一から御言葉を受けるのは2月18日以来となりますので、少し振り返っておきましょう。この手紙は1章1節にありますように、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地」、つまり現在のトルコ・小アジアの東の地域にいるキリスト者たちに宛てて記されました。それは、その地方のキリスト者たちが迫害を受けるような状況にあったために、彼らがその苦難を乗り越えることが出来るように励ますためでした。そのことが特にはっきりと示されておりますのが、4章12節以下の所となります。ここは2月18日に御言葉を受けましたが、「信仰の故に苦しみを受ける」という状況にあった人たちのことが記されています。たとえば12節には「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」とあり、13節には「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」とあり、また14節には「キリストの名のために非難される」といった言葉が続きます。キリスト者でない人が味わう困難や苦しみ、仏教の言葉では生病老死と言いますが、キリスト者はこれらを免れることが出来るということはありません。キリスト者も病気にもなりますし、老いていくことは辛いことです。しかし、ここで告げていることは、キリスト者であるが故に味わう苦しみ、困難というものがあるということです。それに対して「驚き怪しんではなりません」、またそれを「決して恥じてはなりません」と告げます。
現在の日本に住む私共は、キリスト者であるということで特にひどい目に遭ったということはあまりないかもしれません。しかし、それは戦後78年間だけのことです。つい79年前までは、キリスト者は中々大変な目に遭いました。キリスト教は敵性宗教であり、キリスト者であるということは異質な者として見られていました。このキリスト者に対して「異質な人」という周りの目は、程度の差こそあれ今もあるでしょう。しかし、この「キリスト者の持つ異質さ」というものは、キリスト者が神の国を求めて、神様の御心に従って生きようとする者である以上、程度の差はあっても、どの時代でも、どの国でもある、そう私は考えています。目に見えない神様の御心を第一とし、愛に生きる。イエス様の御足の跡をたどって、愛に生きようとする。この世の栄華ではなく、神の国を求めて歩むならば、それはどうしたって、「ちょっと違う」とならざるを得ません。それは、私共が立派なキリスト者だからということではなくて、主の日の度ごとにこのように礼拝に集うということだけでも、それは十分に異質です。この世にあっては、主の日は休みの日であり、お楽しみの日であって、神様を礼拝する日ではないからです。キリスト者は、この世にあっては、この異質さというものを負って生きるしかない。そういう面があります。
2.キリスト者としての苦しみ:神をあがめるべきこと
ですから、キリスト者として生きるが故の苦しみというものに直面することがあります。端的には、差別や迫害といったものです。なぜ、すべてを御支配されているまことの神様を信じてそのような目に遭わなければならないのか。この「なぜ」に答えることは、とても難しい。それは神様の御心の中にあることですから、「この苦しみの理由はこういうことです。」と答えることは難しいです。しかし聖書は、この「なぜ」という問いに答えるよりも、もっと大切なことに答えます。それは、この苦しみは私共が「喜びにあふれるため」のものであり、「幸い」なことであり、「聖霊がとどまってくださる」ことになる。つまりこの苦しみは、「神様をあがめる」べきことなのだと告げています。キリスト者であるが故の苦しみ。そんな目に私共は遭いたくありません。どうしてこんな目に遭うのかと、神様に苦情を申し立てたくなります。ところが、聖書が告げているのは、それとは全く反対のことです。その苦しみによって私共は喜びにあふれることになる。幸いなことであり、聖霊がとどまってくださることになる。だから神様をあがめるべきことなのだ、と言うのです。悪いこと、嫌なことではなくいて、良いこと、喜ぶべきことなのだというのです。
どうして、そんなことが言えるのでしょうか。理由は二つあります。一つは、このキリスト者であるが故の苦しみというのは、私共がイエス様の十字架の苦しみと一つにされることだからです。十字架のイエス様と一つになるということは、復活のイエス様と一つになることになるからです。まさに使徒パウロがローマの信徒への手紙6章5節でこう告げているとおりです。「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
もう一つ。それはこの苦しみは地上におけるものであって、私共はそれがすべてではない、その後があるということを知っているからです。つまり、この地上の命が閉じられた後、神の国に招かれ、復活の命に与り、神様の御前に立って、喜びにあふれて主を誉め讃えることになることを知っているからです。もし、この地上の命がすべてであるならば、キリストの御名の故に苦しむということは、だだ理不尽なこと以外の何ものでもありません。しかし、そうではありません。そうでなければ、どうして11人の使徒たちのほとんど皆が殉教し、キリストの教会はそれを誇らしいこととして伝え続けてきたのでしょうか。この手紙を書いたペトロ自身、殉教しました。ペトロは、自分が殉教するとき、これですべてが終わるなんて、全く考えていなかったでしょう。イエス様の御許に行くことを喜んだはずです。
3.裁きは神の家から始まる① 神の家:教会
さて、17節を見てみましょう。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」と告げられています。これはドキッとする言葉です。どうしてドキッとするかといえば、神の家である教会が、またそれに連なる自分たちが「裁かれる」、つまり神様によって「滅ぼされる」という誤った読み方をしてしまうからです。これは、間違った読み方です。ここでの「裁き」とは、神様が「試練を与えて聖める」という意味だと受け止めると良いでしょう。このペトロの手紙一の1章6節b~7節で「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」と言われています。この世での苦しみは試練であり、これによって私共の信仰が鍛えられ、純度の高いものにされていくためのものなのです。
この世界は、やがてイエス様が再び来られる時に裁かれることになります。「神の家」であるキリストの教会においては、その時が既に始まっているとペトロは告げています。つまり、キリストの教会においては既に終わりの時が始まっている、既に終末の時に生き始めているということです。それは、いつイエス様が来られても良いように、キリストの教会はその日に備えて歩んでいるということです。それは、こう言っても良いでしょう。私共はこの主の日の礼拝の度ごとに、死への備えをしている。死は忌むべきものであり、けがれており、それを見てはならないし、考えてもいけない。そのような感覚が日本の文化の中にはあるかもしれません。しかし、キリストの教会は死を忌むべきもの、汚れたものとして見ることはしません。その証拠に、キリストの教会はどこでも十字架を掲げています。十字架はイエス様の死です。私共は主の日の度ごとに、イエス様の十字架を仰いで礼拝しています。それは、十字架の上で死なれて、三日目に復活されたイエス様こそ、私共の主であられるからです。そして、イエス様の十字架の死は私の死であり、イエス様の復活は私の復活だからです。この主の日の礼拝において、私共は自らが死ぬべき者であること、そしてよみがえる者であることを心に刻んでいるわけです。昨年、毎週礼拝に集っていた方が急に礼拝に来られなくなり、御国に召されるということがありました。私共もこれが最後の礼拝になるかもしれません。たとえそうであっても、私共は、主の日の礼拝の度ごとに、その備えをしているのです。
4.裁きは神の家から始まる② 神の家:私自身
ところで、パウロはコリントの信徒への手紙3章16節で、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と告げました。つまり、私共が信仰を与えられたということは、聖霊なる神様が私共の中に宿ってくださったということであり、私共自身が神様を宿す神殿となったということです。ですから、ここで「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」と言われているのは、私という神殿から裁きが始まるということになります。そして、この「裁き」が神様の「聖め」であるとするならば、実に私の中で聖霊なる神様による聖めが起きているということです。それは少しも難しいことを言っているわけではありません。
私共は信仰が与えられるまで、神様を第一とすることなど、考えたこともありませんでした。そのような私共がイエス様の愛に触れ、天と地のすべてを造られた神様に愛されていることを知り、この方と共に生きていくことを決断しました。その時から、私共の中で神様によって聖められるという変化が起こり続けているということです。この聖めの中で大切なことは、自分の思いが遂げられることではなくて、神様の御心が成ることであるということがはっきりしてきました。また、何よりも私共と神様との愛の交わりが保持されていくことが恵みなのだということもはっきりしてきました。キリスト者であるが故の苦しみというものは、自分の安楽や思いが適うというこの世の幸から見れば、正反対のことです。しかし、そのことによって、私共の中で最も大切なことは何なのかということがはっきりさせられていくことになります。そして、私共の人生は、神様に与えられた御国に向かって走って行く競技場となりました。イエス様の御名による苦しみは神様による訓練・鍛錬の時であり、そのような馳せ場をしっかり走り抜くこと、それが大切なのだと学んでいく。ヘブライ人への手紙12章1~2節に、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」と告げられているとおりです。その時大切なことは、イエス様を仰ぎ望みながら「耐え忍ぶ」ということ、「忍耐する」ということです。
5.福音に従わない者の行く末
次の17節b~18節の御言葉ですが、「わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです。」と告げられています。ここは少し説明が必要でしょう。ここで言われている「裁き」は、今まで申してきましたように、この世においてキリスト者である私共が受ける苦しみ、試練ということです。最後の審判における裁きのことではありません。ですから、「正しい人がやっと救われるのなら」というのは、「私共キリスト者の救いは『ギリギリやっと』のことで、そうならない者もいる」という意味ではありません。私共の最終的な裁きの結果は、決まっています。キリスト者は完全に救われます。この救いに「やっと」とか「ギリギリ」ということはありません。イエス様の憐れみ、イエス様の救いの御業によって、私共は間違いなく完全に救われます。私共自身には、「やっと」であろうと「ギリギリ」であろうと、自分で自分を救う力はありません。救われるのは、ただイエス様によってです。ということは、「正しい人がやっと救われる」と言われていることは、キリスト者はこの地上にあっては厳しい歩みをし、やっとのところで乗り越えていくことになるという意味です。
また、これを読んでいるのはキリスト者であって、この手紙の関心は「神の福音に従わない者たち」や「不信心な人」「罪深い人」たちにあるのではありません。関心はどこまでもキリスト者です。つまり、「神の福音に従わない者たち」や「不信心な人」「罪深い人」はキリストを頼ることを知らないけれど、キリスト者は知っている。だから、困難な時にもキリスト者は神様・イエス様に頼って、厳しい道もこの方の守りの中で歩んで行こう、と聖書は告げているわけです。
6.自分の魂を神様にゆだねる:やけを起こさず
ですから、次の19節の言葉に繋がっていくわけです。19節「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」と告げられています。人は理不尽と思える苦しみの中で、「どうして自分はこんな目に遭わなければならないのか。神の支配、神の愛なんてあるのか。」とそう思ってしまうことがある。しかし、それでもやけにならないように。私共に命を与えて、すべてを御手の中においてくださっている神様は真実な方です。御子を与えてくださるほどに真実な方です。ですから、この方を信頼し、この方に自分の身も魂もすべてをゆだねて歩んで行こう。忍耐強く、やけを起こさないで、善い行いを為し続けていこう。神様を愛し、信頼し、御言葉に従って歩んで行こう。と聖書は勧めます。どんなことがあっても、やけを起こさない。私共の信仰の歩みおいて、これが本当に大切です。理不尽と思える苦しみは、私共がやけを起こしてしまうのに格好の機会となります。悪魔は、それを良く知っており、私共の心に囁きかけ、狙ってきます。私共はそのことをよくわきまえて、忍耐して、しっかり歩んで行かなければなりません。
7.ヨブ記から
最初に「なぜ」このようなことが起きるのか、こんな目に遭わなければならないのか、この問いに答えることは難しいと申しました。旧約において、この問題に対して集中して記された書があります。ヨブ記です。豊かな財産を持ち、たくさんの家族を持ち、幸いな日々を過ごしていた信仰深いヨブ。ところが、彼はあっという間に家族を失い、財産を失い、重い皮膚病をわずらいます。信仰深かったヨブの心が、信仰が揺れます。そのヨブに、友人が入れ替わり立ち替わり、どうしてヨブがこんな目に遭うことになったのか、その理由を説明します。しかし、どんな説明に対してもヨブは納得しません。それはそうだと思います。理不尽と思える苦しみの中で発せられる、この「なぜ」という問いに答えることが出来る者などいません。そして、長いヨブ記の最後に、神様が出てきます。ただ神様だけが、このヨブの問いを正面から受け止めることが出来ます。しかし、神様はヨブの「なぜ」という問いに答えたわけではありません。ヨブ記38章1節から少し読んでみます。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。」このような神様の言葉がずっと続きます。神様がすべてを造り、御支配されていることを、事例を挙げて語り続けます。要するに「わたしは神だ。お前は何者か。」と告げるだけなのです。それに対して、ヨブは遂に神様にこう告げます。42章です。「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」ヨブは、最後に神様の言葉を聞き、神様の御姿を信仰の眼差しで仰ぎ見て、そして神様の御前に悔い改めました。結局、この「なぜ」に神様が直接答えられることはありませんでした。しかし、ここでヨブの「なぜ」に答える以上に大切なことをお示しになりました。それは御自身の御姿を示し、ヨブに語りかけるという出来事でした。神様御自身との出会いがヨブに与えられ、それによってヨブは、「なぜ」という問いに対する答え以上のものを受け取りました。それは神様との交わりです。ヨブは頭で、理屈で納得したわけではありません。ヨブはこの全能のお方の御前に立たせられ、神様の御声に撃たれ、自らの小ささを知らされました。自分は神様を問いただす権利があると思っていました。しかし、御臨在される神様に触れ、ただ圧倒され、もう悔い改めるしかありませんでした。
8.十字架の言葉として
この「なぜ」に対して、今朝与えられている御言葉は、やはりその理由を答えることはしません。しかし、イエス様の救いに与った者として、ペトロはこう告げます。「その苦しみはあなたをイエス様と一つにし、あなたは神の国においてキリストの栄光を受けることになる。そして、あなたは喜びにあふれることになる。だから、やけになることなく、忍耐して、善き業に励め。そして、すべてを造られた神様にすべてを委ねよ。」そう告げます。この言葉はヨブが神様の御前に立たされ、御声を聞き、神様に圧倒されて初めて納得したように、この言葉はイエス様の十字架の言葉として聞こえてこなければ、私共は納得することは出来ないでしょう。ここがとても大切な所です。私共は、聖書の言葉を通して、この礼拝において語られるイエス様の御声を聞く。そして、その御言葉を与えてくださった方を、我が主、我が神と礼拝します。そこに、神の子・神の僕として新しくされて、御国に向かって歩む私共の道が開かれています。どんなことがあっても、イエス様の救いに与った者として、神様を愛し、信頼し、すべてを御手にゆだねて歩んでまいりましょう。その道は、確実に御国へと繋がっています。
お祈りします。
恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝、あなた様は、聖書の御言葉を通して私共に、「この地上の生涯の中で理不尽と思える苦しみに遭ったとしても、それは御国においてキリストの栄光に与るための途上でのことなのだから、決してやけになったりせずに、忍耐を持って、神様を信頼して、すべてを委ねていくように」と勧めてくださいました。どうか、しっかりこの勧めに従って、この新しい一週も御国に向かって歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを心から、祈り、願います。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
[2024年4月14日]