1.イエス様の姿を重層的に語る聖書
2018年最初の主の日を迎えています。クリスマスの飾りは今日片付けます。クリスマス、正月と慌ただしい日々を過ごしてまいりましたが、今日からは教会も通常の歩みを為してまいります。
今朝与えられております御言葉は、新共同訳の小見出しでは「指導者の娘とイエスの服に触れる女」となっております。これは、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも、同じ記事が記されております。この三つを比べますと、今朝与えられておりますマタイによる福音書の記事が大変短いことが分かります。マルコとルカは、マタイの約2倍の分量をもって記していますので、大筋では同じなのですが少し違う所があります。このような福音書の記事に出会いますと、どっちが本当なのかと考えがちですけれど、そういう発想はあまり意味がないと思います。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書は共観福音書とも呼ばれ、イエス様の言葉と業を記していますが、共通記事が多いのです。しかし、この三つの福音書は、丁寧に見ますとそれぞれ微妙に書き方が違っていて、強調点といいますか、語ろうとしているところが少しずつ違っているのです。イエス様の言葉、イエス様の業というものは、唯一これだけが正しい意味だと特定することは出来ません。神様の御子の言葉と業ですから、重層的に色々な意味を私共は受け取ることが出来ますし、そうするようにと福音書は私共に促しているのでしょう。そして私共は、聖霊なる神様の導きの中で、今私共に必要な御言葉を受けていくのです。
2.二つの癒しの業
さて、今朝与えられております御言葉の特徴は、二つのイエス様のいやしの業がセットになって記されているということです。指導者の娘が死んで、父親である指導者はイエス様に娘を生き返らせてもらうことを願い出る。イエス様は、それを受けて指導者の家に行く。その途中、12年間長血を患っている女性と出会い、これをいやされる。そして、指導者の家に行って、死んでしまった娘を復活させるという話です。つまり、指導者の娘が復活させられるという出来事に挟まれるようにして、長血の女のいやしが記されている。イエス様のいやしの話としては二つあるわけです。これを二つの出来事として二回に分けて御言葉を受けることも出来るでしょう。しかし、この二つの出来事はセットとして記されているのですから、二つをセットとして受け止めることも意味があるのだと思います。順に見てまいりましょう。
3.指導者の娘と12年間長血の女
まず、指導者についてですが、マルコやルカでは「会堂長のヤイロ」と記していますが、マタイは名前を記しません。それは、「指導者」という言葉を用いることによって、社会的地位がある人一般をイメージさせようとしているのでしょう。そうすることによって、この出来事やイエス様との関わりを普遍的な出来事として語ろうとしているのではないかと思われます。
そしてそれは、12年間長血を患っている女性と対比するためでしょう。この女性は12年間も出血が続いているわけですが、これは婦人病の一種ではないかと考えられています。レビ記15章25節には「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。」という規定があります。汚れた女性は人前に出ることが出来ません。この女性は12年もの間、人との交わりが断たれていた。そういう状況にあったわけです。
一方は、社会的地位もあり、それなりの権力も持っている人。一方は、人前に出ることさえ出来ない女性。人間の目から見れば、社会的には全く違う立場にある二人です。しかし、ここでイエス様は、この二人を全く区別しません。二人ともイエス様に救いを求めに来た。イエス様はそれを受け止めて、二人の求めに応じられた。ここに、神様の愛がどういうものであるか、イエス様というお方がどういうお方なのか、はっきり示されています。イエス様は、私共がどのような社会的評価を受けているかを全く問題にされないのです。どんな人も、神様に造られ、愛されている者なのです。ただイエス様に救いを求めさえすれば、イエス様はそれに応えてくださるのです。これが、イエス様によって示された福音の大原則です。私共にはみな、それぞれ社会的立場というものがあります。しかし、イエス様の救いに与るのに、それは何の意味もないということです。
このことは、今朝与えられている二つの奇跡の出来事が、どこから始まっているのかということにも示されています。指導者が、自分の娘が死んでしまって、イエス様なら復活させてくださるのではないかと思って救いを求めに来たのは、9章9節以下にあります、イエス様が徴税人のマタイを御自分の弟子として招き、徴税人や罪人と一緒に食事をしている時でした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章13節)とお語りになった、その時です。イエス様に招かれ、イエス様の救いに与る人は、いわゆる正しい人ではありません。律法を守って、正しく生きている人が救われるのではないのです。どんな人でも、イエス様に救いを求めるならば、イエス様を頼るならば、イエス様はその全能の力を用いて救ってくださるのです。
4.死を打ち破る方として信じる ~指導者の信仰~
さて、マルコやルカでは、「会堂長のヤイロ」という人は「娘が死にそうです。」と言ってイエス様に助けを求めました。しかし、今朝与えられているマタイでは、指導者は「娘がたったいま死にました。」と言ってイエス様に助けを求めます。この違いは大きいでしょう。私共は、マルコやルカの記事の方に馴染んでいるかと思います。しかし、このマタイが記す指導者のイエス様への信仰、イエス様への信頼は、イエス様は死さえも打ち破る方、死人も生き返らせる力ある方として信頼し、救いを求めています。マタイは、この「指導者」という言い方でこの人を普遍化していると申しましたが、この人の信仰も普遍化している、そう言って良いと思います。18節に「ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。」とありますが、この「ひれ伏す」という言葉は、神様として拝むという意味の言葉です。この指導者は、イエス様を神様として拝んで、そして既に死んだ娘の復活をイエス様に願い求めたのです。
この指導者が、イエス様に娘の生き返ることを願い求めた時、まだイエス様は十字架にお架かりになっていませんし、復活もされていません。しかし、この指導者はイエス様を、自分の娘を復活させる力ある方として信じ、救いを求めた。そして、イエス様は、その願いを良しとして受け入れられたということです。それは、今も同じです。私共がイエス様を信じるということは、死によって終わってしまう私共の命、この命の主として、私共の肉体の死を超えて生きて働き給う神として、信じ、受け入れ、頼るということです。私共には限界がある。しかし、イエス様は私共の限界を超えて働いてくださるのです。
イエス様がこの指導者の家に行きますと、「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」がいました。これは、指導者の娘が死んだので弔いの時が始まっていたということです。この娘の父親である指導者はイエス様に助けを求めにいきましたけれど、彼以外の者は「娘はもう死んだ。もう何をやっても無駄だ。」そのように考えていたということです。確かに、死は絶対的です。私共はこれに抗うことは出来ません。
しかし、イエス様は違います。イエス様は、「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と告げられました。これを聞いた人々はあざ笑いました。当然です。死んだ人間が生き返るなんて、あり得ないからです。これが私共の常識です。しかし、イエス様は私共の常識、この世の法則の外におられます。何故なら、イエス様はこの天と地のすべてを造られたお方の独り子であり、この世界のすべてを父なる神様と共に造られたお方だからです。
25節「イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。」とあります。少女は復活したのです。もちろん、この少女も、ヨハネによる福音書11章に記されている、同じくイエス様に復活させられたラザロも、やがて死を迎えました。ですから、この復活は、イエス様の復活や私共が終末に与えられる永遠の命への復活と同じではありません。しかしこの出来事は、イエス様が、死さえも打ち破るお方、まことに力に満ちたお方であることを示しております。このお方に不可能はないのです。だから、私共を救うことがお出来になるのですし、私共はこのお方を信頼し、すべてを委ねることが出来るのです。
さて、イエス様は、自分の娘が死んでしまったので、手を置いて生き返らせてくださいと願い出た指導者に「ついて行かれた」(19節)とあります。「ついて行く」と訳されている言葉は、「従った」とも訳せます。イエス様がこの指導者について行った。従ったのです。愛する娘を失い、失意の中、嘆きの中にあるこの指導者について行った。イエス様はこの指導者を独りにしないのです。嘆きの中について来られるのです。
5.あなたの信仰があなたを救った ~12年間長血の女~
そこに、12年間長血を患っていた女性が、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる。」と思って、後ろからイエス様の服の房に触れました。マルコやルカでは、この女性がイエス様の服の房に触れるとすぐに、女性の病はいやされたとなっています。しかし、マタイによる福音書では、イエス様がこの女性に向かって「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われて、「そのとき、彼女は治った。」と記されています。マタイは、イエス様がこの女性に信仰を見出して、この女性を憐れんでいやされたというように記されているわけです。
改めて、この女性の信仰とはどういうものだったのかと思うのです。彼女はイエス様を三位一体の一つの位格としての「子なる神」として信じていたわけではありません。イエス様を「まことの人にしてまことの神」と信じていたというわけではないでしょう。彼女にしてみれば、12年もの間、社会的生活を制限され、人並みの生活が出来ない。医者にもかかったはずです。でも、どうにもならない。長い患いは彼女の家をも暗いものにしていたでしょう。この女性は、イエス様なら何とかしてくれると思って、人前に出てはいけないことは百も承知で、これが最後のチャンスだと思って、イエス様の服の房に触れたのでしょう。彼女は、イエス様の前に出て救いを求めることさえ出来なかったのです。そんなことをすれば、「汚れたお前がどうしてこんな人前に出て来たのか。家に戻れ。」そう言われるかもしれなかった。イエス様の前に出て、イエス様に直接救いを求めることさえ出来ない。それがこの女性の置かれている状況でした。そういう中で彼女は、イエス様の服に触れさえすれば治してもらえる、そう信じ、後ろからそっと近づいて、イエス様の服の房に触れたのです。
イエス様は振り向いて、彼女を見つめます。そして、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と告げられたのです。それは、この女性の信仰が立派だったから、いやされるに値するほどの信仰だったからいやされたということでしょうか。そうではありません。彼女をいやしたのはイエス様であり、イエス様の憐れみであり、イエス様の力です。彼女は、「イエス様ならいやしてくれる。服に触れさえすればいやされる。」そう思っただけです。これが彼女の信仰でした。
私共は、信仰というものを難しく考えてはいないでしょうか。教理的に正しいことは大切ですし、そのための学びをすることも良いことです。しかし、そのように教理などをよく弁えるようになったら救われるのではないのです。この女性の信仰は、信仰と言えるかどうか、まことに心許ないものだった。有るか無きかの信仰と言っても良いでしょう。しかし、イエス様はその有るか無きかの信仰を、それで良いと受け取ってくださって、「あなたの信仰があなたを救った。」と言ってくださり、いやしてくださったのです。
6.信仰によって救われる
私共が「信仰によって救われる」というのも、そういうことです。正しく、立派で、強い信仰を持ったら、その信仰によって救われるということではありません。私共の信仰は、どこまでいっても頼りなく、弱々しく、私共は過ちばかり犯しているような者です。しかし、そのような私共の、情けない、有るか無きかの信仰を、イエス様は良きものとして受け取ってくださり、憐れんでくださり、私共を救ってくださるということなのです。「ただ信仰によってのみ救われる」とは、「ただ神様・イエス様の憐れみによって救われる」という意味です。この神様の憐れみは、神様に向かって、イエス様に向かって、救いを求めるすべての人に注がれます。これが福音です。
勿論、イエス様をどのような方として信じるのか。これは大切なことです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙10章9~10節で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と告げました。イエス様を復活された方として、死を打ち破られた方として信じる。そして、このお方の憐れみを信じて、この方に頼る。そこに、出来事が起きるのです。主は生きておられるからです。皆様の人生においても、このような出来事があったのではないでしょうか。
7.救われるのに、早いも遅いもない
この説教の備えをしながら、娘が生き返るようイエス様に救いを求めた指導者にしても、12年間長血を患っていた女性にしても、もっと早くイエス様の所に救いを求めに来れば良かったのに、と少し思いました。でも、自分のことを思い起こして、そうではないと思い直しました。私は18歳で初めて教会に行き、20歳で洗礼を受けました。これが早かったのか遅かったのか、そんなことは私共が決めることではないのでしょう。私にとってもそうでしたが、この二人にとって、この時がイエス様の救いに与るための一番良き時だったのでしょう。イエス様との出会いの時は与えられるものですから、これが一番良い時だったのです。イエス様の救いに与るのに、早いも遅いもありません。
二人はイエス様の所に来た。救われることを願い求めて、イエス様の所に来た。その時、イエス様は二人を憐れみ、いやし、救ってくださった。大切なのは、イエス様に救いを求めるということです。自分ではどうにもならないことがある。しかし、イエス様に出来ないことはありません。イエス様は必ず憐れんでくださり、全能の力をもって私共を救ってくださいます。そのことをしっかり心に刻み、イエス様に助けを求めつつ、この一週も御国に向かっての歩みを為してまいりたいと思うのです。
[2018年1月7日]