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礼拝説教

「父と母を敬え」
出エジプト記 20章12節
マタイによる福音書 15章1~9節

小堀 康彦牧師

1.第五の戒めの位置
 今日は一月の最後の主の日ですので、旧約聖書から御言葉を受けます。前回は十戒の第四の戒、「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」でした。今日は十戒の第五の戒、「父と母を敬え。」です。
 十戒は前半が神様との関係における戒、後半が人と人との関係における戒という構造になっていることは、すぐに分かることです。しかし、どこまでが前半で、どこからが後半なのか。それは昔から議論のある所です。今日与えられております第五の戒、「父と母を敬え。」を前半に入ると考えるのか、後半に入ると考えるのか、そこで議論が分かれるのです。これは、十戒は二枚の板に記されましたが、一枚目の板にはどこまで記されていたのか、二枚目の板にはどこから記されていたのかという議論でもあります。十戒を記した石の板は残っていないのですから、いつまで議論しても結論は出ないのですけれど、この第五の戒には、そのような議論があるほどに、二つの面があるということでもありましょう。それは、この第五の戒が、人と神様との関係と、人と人との関係を繋ぐ、そのような位置にあるということなのでありましょう。
 まず、神様との関係で考えますと、神の民は、出エジプトの出来事によって自分たちを救ってくださった神様をただ独りの神、私の主として拝み、この方と共に生きるのですけれど、このことを教えるのが父と母の役割であるということなのです。子どもは幼い時から、父と母の信仰者としての姿を見て、神様を畏れ敬うことを学び、教えられる。神様に対しての信仰の基礎を父と母によって据えられるということです。だから、前半に入るという理解をするわけです。
 一方、人と人との関係においても、私共がどのように人と関わっていくか、その基本的なあり方を、子どもは父と母から学ぶ。人間関係の基礎もまた、父と母から教えられていくということです。それは口で教えられることもあるでしょうけれど、それ以上に、父と母の日常の姿によって教えられ、学んでいくということです。ハイデルベルク信仰問答などは、この戒めを後半に入れて受け止めています。
 私は、前任地において幼児教育と関わっておりましたけれど、子どもの時に父や母とどのように関わったのかということは、その後の人格形成にとても大きな影響があるということを、実際本当のことだと思わされました。

2.すべての神の民に対しての戒め
 神様との関係、人との関係の基礎が父と母によって与えられる。それは本当のことです。ですから、その基礎を与えてくれる「父と母を敬え」ということに対して、反対する人はまずいないだろうと思います。それは何も聖書によって教えられなくても、当たり前のことではないかと受け取っている人が多いのではないでしょうか。実際、洋の東西を問わず、父と母を敬うことを大切なこととして教えない宗教あるいは文化は、おおよそ無いと思います。ですから、「父と母を敬え」という戒め自体に反対する人はいない。しかし、それが出来ているかと問われれば、心許ないというのが私共の現実ではなかろうかと思います。子どもの時は「父と母を敬え」でいいけれど、「老いては子に従え」と言うではないか。大人になったらこの「父と母を敬え」という戒に縛られることはない。そもそも、本当に敬うことが出来る父や母なのか。そんな反論も聞こえてきそうです。しかし、聖書は「子どもの時は父と母を敬え」とは言っていません。この戒めはすべての神の民に命じているのです。ということは、この戒は私共が大人になっても、更に実際の父と母が亡くなってしまった後にも、神の言葉として私共を導く戒であるということでしょう。

3.年令と共に変わる受け止め方
 確かにこの戒は、私共の年齢と共にその受け取り方が違ってくる所があります。その辺りのことを少し見ていきたいと思います。
①幼少期
 まず、幼少期です。赤ちゃん、幼児、少年少女の頃、私共は父と母の庇護の許にありますので、「父と母を敬え」との言葉は、それほど違和感なく受け止めることが出来るだろうと思います。幼少期にどのような親子関係を与えられるかということは、本当に大きなことです。生まれた時から毎日食前の祈りをしていた者にとって、祈ることは当たり前のことであり、神様と言えばイエス様の父なる神、天と地を造られたただ独りの神様しかいないということになるでしょう。また、両親から愛情を一杯注がれ、大切に育てられた子は、自分に対しての自己評価も高く、自分は生きている値打ちがない者だなどとは思いません。また、人に対して、社会に対して、肯定的に関わりますから、人との関わりにおいても比較的良好な関係を持つことが出来るようになります。もちろん、完璧な父も母もおりませんし、神と人との関係において完全に良好な関係を持てる人もおりません。これは、傾向として、そうだというだけのことです。
②青年期
 次に青年期ですが、この頃になりますと、親の言うことが何となく疎ましくなる。親から自立していく過程において、どうしても父や母への反抗という時期を通らなければなりません。この時期には、「父と母を敬え」という戒は、上から押し付けられる権威の象徴のように思え、とても喜んで従える戒ではなくなるのかもしれません。
③成人期
 そして成人し、自分も結婚し、子どもを持つ。そうすると、この戒は全く違った響きを持つようになります。それは、この戒を子どもの側から聞くのではなく、父母の側から聞くようになるからです。そうしますと、この戒は、子どもに敬われる父や母にならなければならないという、神様から与えられた責任の大きさを思う。そのように聞くようになるのではないかと思います。
 この戒を根拠に、自分の子どもたちに敬うことを強制しても意味がありません。反発されるだけです。大切なことは、敬われる親になるということです。信仰においても、人との関係においてもです。子どもは親の姿をよく見ているものです。口で言っていることとやっていることが違っていれば、「口ばっかり。」と言われて信用されません。しかし、これは本当に厳しいことです。自分の子どもに心から敬われている親がどれほどいるかということにもなります。自分が親になってみて初めて、親に反抗していたけれど親もそれなりに一生懸命だったのだと分かったりします。そして、自分の親に対して優しく出来るようになる。そういうこともあるでしょう。
④壮年期
 そして、最後に親が老人になって自分が面倒を見なければならない時を迎え、この戒はまた今までとは全く違った響きを持って私共に迫ってきます。介護の問題は、高齢者が多くなった日本の社会全体の課題ですけれど、介護する側にとっても、介護される側にとっても、なかなか大変な課題です。親は子に迷惑をかけたくないと思いますし、子は仕事をしているから実際に介護するのは難しい。遠く離れている場合もありますし、経済的な問題もあるでしょう。そのような中で「父と母を敬え」という言葉が神の言葉、神の戒として私共に迫って来るわけです。もちろん、キリスト者ならばこうしなければならないというものがあるわけではありません。それぞれが与えられた場、状況において、この戒に従う道を選び取っていかなければならないわけです。
 幸いなことに私の場合は、母を昨年95歳で天に送るまでの6年間、牧師館で同居することが出来ました。実際には妻がすべてをやってくれたわけですが、いろいろなことがありました。そのような中で、この「父と母を敬え」という戒が、神の言葉として私に迫ってきました。本当に嫌になってしまうこともあるわけです。でも、「父と母を敬え」なのです。この戒に従うことが私共夫婦にとって、神様に従うということでした。第一の戒である「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」という戒に従うことと、「父と母を敬え」という戒に従うことは、あの6年間、私共には分けることの出来ない一つのことでした。そのことを教えて戴き、本当にありがたいことだったと思っています。
⑤老年期
私共はやがて、血の繋がりにおける父母とは、地上の生活においては別れなければなりません。父も母も亡くなった。その場合、この戒を無視して良いかといいますと、そうはならないのです。自分自身が父として母として、敬われるべき存在として生きる、手本となる、そういう責任があるということなのです。「父と母を敬え」とは、父と母に対しては責任を果たすことを求める戒でもあるからです。

4.神様の御計画の中で、自分の人生を受け取り直す
 そもそも、「父と母を敬え」と言われた場合の「敬え」とは、どういう意味なのでしょうか。元々の意味は「重んじる」という言葉です。父と母を重んじる、尊ぶ、尊敬するということです。しかし、自分の父は、或いは母は、とても尊敬出来るような人ではない。そういう人もいるだろうと思います。誰もが両親が揃っていて、その両親から愛情深く育てられたと言えるわけではありません。中には、生みの親は知らないという人もいるでしょう。そういう人にとって、この「父と母を敬え」とは、自分には関係の無い言葉になるのでしょうか。そうはならないのです。これは神様の戒ですから、自分にはこれは当てはまらない、自分は例外だ、この戒を無視してもいい、という人はいないのです。
 神様が「父と母を敬え」と言われたのは、私共は父と母がいなければこの地上に生まれてきていないわけです。どんな父でありどんな母であっても、この二人から自分が生まれてきた。これは事実です。そして神様は、「その事実の背後にわたしがいる。あなたは、わたしの計画の中で、選びの中で、御心の中で、その父と母から生まれたのだ。このことを重んじなさい。」そう言われているのではないかと思うのです。子は親を選べない。それは親にとっても同じです。親も子を選べない。親にとって子は神様から与えられたものですし、子にとっても親は神様が備えてくれたものなのです。ということは、父と母を敬うということは、自分という存在、自分の人生を、神様が与えてくれたものとして受け取るということなのです。
 親子の関係というものは、なかなか難しいものがあります。青年期の反抗がずっと続いているような場合もありますし、子どもの頃の親の身勝手な行動で傷付けられ、その傷をずっと抱えたままという関係だってあります。そもそも、親に全く傷付けられていない人などいないのです。親子も夫婦も兄弟も、家族というものは一緒に生活するわけです。罪ある者同士が一緒に生活をすれば、必ず傷つけてしまうということがあるのです。それが私共の現実の家族・家庭というものです。しかし神様は、「父と母を敬え」と命じられるのです。「その傷ついた関係のままであっては、あなたがたは幸いになれない。」と言われる。何故なら、自分が生まれてきたこと、生かされていることを、神様が与えてくださった良きものとして受け取れていないからです。この「父と母を敬え」という戒は、「あなたの存在は、あなたの人生は、わたしが与えたものだ。わたしの心の中にあるものだ。だから良いものだ。そのようなものとして受け取りなさい。受け取り直しなさい。」そう言われているのだと思うのです。

5.赦し合う親子
 別の言い方をすれば、父と母を赦せということです。神様は「わたしはあなたのために、独り子を十字架にかけた。だから、あなたも赦しなさい。」そう告げられているのです。私も自分の娘に対して、多くの罪を犯し、傷つけてきたことでしょう。今、父親として娘に言いたいことは「赦して欲しい。」ということです。父も母も、子に赦されなければならないのです。そして、子もまた、父と母に赦してもらわなければならないのです。この赦しがなければ、この戒めに従うことが出来ない。それが私共なのです。
 ですから、この戒は、何でもかんでも父や母の言うことには従わなければならないという意味ではありません。親だって理不尽なことを子に求めることは出来ませんし、子どもだって親の言う通りにしなければならないなんてことはないのです。神様の御心に従うことが第一ですから、これに反することを求められたら退けなければなりません。父母を敬うということは、父母はいつでも正しいということではないからです。正しいのは神様であり、神の言葉なのです。ですから、親も子も共に神様の前に額ずき、神様に従う中で、赦し合う中で、子が父と母を敬うという健やかな関係が形成されていくということなのでしょう。
 しかし、父や母が信仰を子どもに伝えようとしてこれを強制しても、なかなか上手くいきません。信仰はその人の存在そのもの、日常の生活の中での小さな言葉掛けであったり、何かを選択する時の基準であったり、その人の存在そのものが表れてしまうところで伝えていくしかないのだろうと思います。主の日の礼拝を大切にするということは一番分かりやすいことでしょうけれど、そこだけ強調しても、或いは強制しても、父や母が祈る姿を日々の生活の中で見たことがないなどということでは、子どもに信仰はなかなか伝わっていかないのだと思います。

6.共同体形成の原理として
 さて、この「父と母を敬え」というのは、血の繋がり、親子、家族という場においてのみ適用されるものではありません。確かに、親子や家族は社会における一番小さな共同体ですけれど、ここから更に大きな共同体の原理としても適用されていくべきものと考えて良いと思います。そもそも十戒が与えられたのは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から解放された時でした。奴隷の子は、主人のものです。家畜や家具と同じように売り買いされる存在でした。父と母が子を育てるという当たり前の家族関係を当時のイスラエルの人たちは持っていたわけではないのです。ですから、この戒めは、家族という単位を超えて、神様の前に共に額ずく共同体、信仰共同体としての神の民のあるべき姿をも示していると理解して良いのだと思います。
 私共の教会にもたくさんのお年寄りの方がいます。そういう方を父母として重んじる。それがキリストの教会の当たり前の姿なのです。信仰生活において長く人生を歩まれた方々を尊敬し、重んじる。そしてまた、長い信仰の歩みをしてきた人は、高齢になっても信仰者としての筋の通った教会生活を身をもって示していく。それが大切だということでもあります。
 長老は現任でなくなっても長老ですし、牧師は引退しても教師です。執事もそうです。年齢と共に、実務の責任からは解かれるでしょう。しかし、神様の御前における責任を解かれるわけではないのです。
 私共の教会の高齢の方は、本当に忠実に礼拝を守られます。本当に頭が下がります。頭が下がる。それは「敬う」ということの別の言い方です。私も牧師としてもう若くはありません。ですから、「あんな牧師にはなりたくない。」そんな風に言われないように、主の御前に喜んで精一杯お仕えする姿をもって証しをしていきたいと思うのです。
 心と体と言葉をもって、主にお仕えすることの素晴らしさを証ししてまいりましょう。それが、「父と母を敬え」との戒に生きる者の姿だからです。

[2018年1月28日]