1.福音書の中心
週報に記してありますように、来週は受難週です。火曜日から金曜日まで四日間、朝と夜に受難週祈祷会を持ちます。イエス様の御受難を覚え、祈りを合わせ、喜びのイースターを迎えたいと思います。せめて一回は祈祷会に出席するよう、皆さん是非覚えていただきたいと思っています。
今朝は受難週に入る一つ前の主の日ということになります。与えられた御言葉は、受難週の最初の出来事、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入られた出来事が記されております。この21章から始まって27章まで、受難週の出来事が記されていきます。イエス様は日曜日にエルサレムに入られ、金曜日に十字架にお架かりになる、その六日間の出来事を記すのに、マタイによる福音書は8章分を用いています。マタイだけではありません。マルコもルカもヨハネも、四つの福音書すべてが、3割から4割の分量を割いて受難週の出来事を記しています。それは、福音書の中心、福音書記者たちがこれを一番大切なこととして記そうと思ったことが受難週の出来事であり、その最後にある十字架の出来事、そしてその後の復活の出来事であったということを示しているのでしょう。
イエス様はいろいろなことをお語りになりましたし、様々な奇跡をなさいました。そのすべての言葉と業とは、十字架に架かり復活されたお方の言葉であり業だったのだ、と福音書記者たちは言いたかったのです。それは、福音書記者たちが与えられた信仰の筋道、キリストの教会が初めから保持していた信仰の筋道でした。イエス様は素晴らしい教えを語られ、様々な奇跡をなさったから、神の子、我が主・我が神と拝むべき方だということではないのです。そうではなくて、私のために、私に代わって十字架にお架かりになり、復活されたお方であるが故に、我が主・我が神と拝むべきお方なのです。そして、そのお方が語られた教え、言葉であるが故に、それは真実であり、私共を生かし、力を与えるのです。そして、イエス様がなさった様々な奇跡もまた、私のために、私に代わって十字架に架かり、復活されたお方の業であるが故に、それは単に大いなる力があることを示すだけではなくて、愛と憐れみに満ちた御心の表れとして受け止めることが出来るのです。
福音書の記事はどれも、最後にあるイエス様の十字架と復活の出来事から、その意味を明らかにされなければならない、そういうものなのです。十字架と復活の光に照らされなければ、本当の意味が分からないのです。
2.ろばの調達
さて、今朝与えられておりますイエス様のエルサレム入城の場面には、二つのことが記されています。一つは1~7節にあります、イエス様の弟子二人がイエス様の言いつけでろばを調達したという出来事。もう一つは、8~11節に記されています、イエス様がそのろばに乗ってエルサレムに入られたという出来事です。
まず、第一の場面に目を向けてみましょう。ここで、何故イエス様は、御自身がエルサレムに入るのにろばを用意させたのでしょうか。マタイによる福音書は4節で、「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」と記しています。そして、5節には旧約の預言者の言葉が引用されています。これはゼカリヤ書9章9節の引用です。ゼカリヤ書には「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」とあります。イエス様は、この預言を成就するために、ろばを弟子たちに用意させました。ということは、この「ろばに乗って」というところに、イエス様がどのような方としてエルサレムに入ろうとしておられたのか、その意図、その意味がはっきり示されていると考えて良いでしょう。
その意図とは第一に、イエス様は「王様としてエルサレムに入ろうとしておられた」ということです。イエス様はろばに乗らなくても、いつものように弟子たちと歩いてエルサレムに入ることも出来たし、その方が自然だったでしょう。しかし、イエス様はそうはされなかった。それは、この時イエス様がエルサレムに入るということは、この神の都にエルサレムの王として入る、神様に遣わされた神の民の王として入るということだったからです。だから、この出来事を「エルサレム入城」と言うのです。「入城」の「じょう」は城と書きます。王様が城に入るから入城と言うのであって、私共が城に入っても入城とは言いません。入城というのは、今までとは別の王様が城に入って、その城の主人が替わるという事態を指している言葉です。時は過越の祭りです。巡礼のために多くの人々がエルサレムにやって来ていました。イエス様は、その巡礼者たちの一人としてエルサレムに入られたのではないのです。神様によって選び建てられた神の都、この都の本当の王として入ろうとしておられたということです。
第二に、イエス様は王であるに違いないのですが、いわゆるこの世の王ではありません。この世の王は力をもって人々の上に立ち、その力をもって人々を支配します。しかしイエス様は、「柔和な方」です。ゼカリヤ書の言葉で言えば、「高ぶることのない方」です。その「しるし」がろばなのです。力の王は馬に乗ります。しかし、イエス様は力の王ではなく、平和の王ですから、馬ではなく、ろばに乗る必要があったのです。ゼカリヤ書9章10節には「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」とあります。イエス様の支配は、軍馬を絶ち、戦車を絶ち、弓も断たれるものです。この戦車というのは、何頭かの馬に引かせる二輪車の馬車です。当時の王たちは戦場において、この戦車に乗りました。凱旋将軍はこの戦車に乗って、人々の歓声を受けたのです。馬や馬に引かせる戦車は戦いの象徴、武力の象徴でした。イエス様が王となることによって何が起きるかと言えば、人々は互いに戦うことをやめるということです。イエス様は、そのような平和の王としてエルサレムに入ろうとされた。だから、ろばなのです。ろばでなければならなかったのです。そして、このまことの平和の王であるイエス様の即位式は、十字架に架けられることだったのです。
3.エルサレムに入る
次に、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入られる所を見てみましょう。
イエス様は群衆に囲まれてエルサレムに入ります。この群衆とはどういう人たちだったのでしょうか。10節には「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。」とありますから、この群衆はエルサレムの住民ではなかったと考えるのが自然でしょう。イエス様はガリラヤで、またガリラヤからエルサレムに来る途中で、様々な教えを語り、様々な奇跡をなさいました。多分、彼らはその場面に出くわした人々ではなかったかと思います。具体的に言えば、山上の説教を聞いた人々であったり、五千人の給食に与った人々であったり、悪霊を追い出してもらった人であったり、病気をいやしてもらった人であったり、或いはその家族といった人たちだったのではないでしょうか。11節に「そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った。」とありまいすから、彼らはイエス様を預言者だと思っておりました。また、9節「ダビデの子にホサナ」と叫んだように、神様から遣わされた方、この方によってイスラエルは再びダビデの時代のような栄光を取り戻す、イエス様こそエルサレムの王としてふさわしい方、そう思ったのです。だから、イエス様のエルサレム入城を歓喜の声をもって喜び祝ったのです。
しかし、群衆のイエス様に対するその思いは、イエス様御自身の思いと一つだったでしょうか。群衆がイエス様に抱いた王のイメージは力の王であり、つまりイエス様がろばに乗っておられることを正しく理解したものではなかったと思います。しかしこの時、イエス様はそのような群衆の思いをたしなめたり、「わたしはあなたがたが思っているような王ではない。」と否定されたりはなさいませんでした。イエス様はこの時までに既に三度、御自身が死刑になること、そして復活することを弟子たちに予告しておられました。ですから、イエス様ははっきり分かっていたはずなのです。御自分が柔和な王、平和の王であるということは、十字架に架けられるということだ。そのことをはっきり分かっていた。それなのに、この時イエス様は群衆の熱狂的な歓迎を退けなかった。この群衆の自分に対しての期待は誤解だ。そのことをはっきり知っていながら、イエス様はそれを退けたりなさらなかった。何故なのでしょう。
私はこう考えるのです。イエス様は、群衆が御自分を正しく理解していないことを知っていました。しかし、彼らがイエス様に対して示した行動、それは正しいことだった。だから、イエス様は群衆の歓喜に沸く歓迎を退けず、これを受け止められたのではないか。彼らがイエス様に対して示した行動、それはイエス様を自分の王として迎えたということです。そしてまた、8節に「大勢の群衆が自分の服を道に敷き」とありますように、自分の大切なものを捧げて迎えたということです。この群衆がイエス様を乗せたロバの前に敷いた服というのは上着のことです。イエス様に従った群衆の多くは貧しい人たちでした。当時の貧しい人たちは、上着は一枚しかないのです。上着は夜には寝具にもなりました。彼らにとって上着は、自分が持っている物の中で一番高価なものでした。それをイエス様が通られる道に敷いた。それは、自分の一番大切なものをイエス様に捧げて、自分の王として迎えたということです。イエス様は、それを良しとされたのです。
4.棕櫚の主日
イエス様のエルサレム入城の日、受難週の始まりの日、これはイースターの直前の主の日ですが、この日は「棕櫚の主日」と呼ばれて来ました。「また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」とありますこの「木の枝」は、ヨハネによる福音書によれば「なつめやしの枝」、口語訳では「棕櫚の枝」と訳され、それに因んで「棕櫚の主日」と呼ばれてきました。この日を受難週の始まる日、イエス様がまことの王としてエルサレムに入られたことを喜び祝う大切な日として守られて来ました。この時の群衆のイエス様を迎え方は間違っていた。あれではダメだ。そんな風には理解されて来なかったのです。そうではなくて、「そうだ。私たちもあの日と同じように、あの群衆たちと同じように、イエス様をまことの王として、私の王として迎えよう。」そのことを心に刻む日として守られて来たのです。
イエス様に向かって、群衆は「ホサナ」と叫びました。これは、元々は「今、救い給え」という意味の言葉ですが、ここでは「万歳」というようなニュアンスで用いられています。群衆は「イエス様万歳!」そう言って迎えたのです。もちろん、私共はあの時の群衆とは違います。イエス様が柔和な王であり、平和の王であることを知っています。十字架にお架かりなって、私共を救ってくださった方であることを知っています。そのようなまことの王として、我が主・我が神として、「イエス様万歳!!」と言って迎えるのです。それは、彼らがイエス様の通る道に上着を敷いたのと同じように、自分が大切だと思っているものをイエス様の御前に捧げるというあり方を抜きにしては、真実なものとはならないでしょう。
代々のキリストの教会は、イエス様をまことの王として、我が主・我が神として迎えるということは、「主がお入り用なのです」との言葉に真実に応えることだと受け止めて来ました。イエス様は二人の弟子にろばを調達に行かせた時、2~3節「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と言われました。イエス様は既に、このろばの持ち主と話をつけておられたと理解する人もいます。そうかもしれません。しかし、大切なことはそんなことではないのです。ろばは当時の農民にとって大切な財産です。それを持って行かれそうになったら、「おいっ、何をするんだ。」そう、ろばの持ち主は言う。当たり前のことです。しかしイエス様は、「その時には、『主がお入り用なのです。』そう答えなさい。そうしたら、すぐに渡してくれる。」と教えました。そして実際、二人の弟子がそうしたら、ろばを渡してくれたというのです。この「主がお入り用なのです」という言葉によって、自分の大切なろばを捧げた。そのことによって、イエス様はゼカリヤ書の預言を成就されたのです。「主がお入り用なのです。」この言葉を自分に向けられた言葉として真面目に受け止める時、私共はイエス様をまことの王として、自分の王としてお迎えすることになるのではないでしょうか。
5.主が必要としている
この「主がお入り用なのです」と訳されている言葉は、「主がそれらの必要を持つ」つまり、「主が必要としている」という言葉です。イエス様が必要としたのはろばです。大きな馬ではありません。主は私共を必要としてくださっているのです。これは驚くべきことではないでしょうか。私共は、誰にも必要とされていないのではないか、そのように思ってしまうことがあります。何かに失敗したり、或いは年老いて当たり前のことが出来なくなってくる時、そんな風に思ってしまうかもしれません。しかし今朝、イエス様が私共に、「あなたが必要だ。」と言ってくださるのです。自分のどこに、イエス様に用いられるような所があるだろうと思うかもしれません。しかし、イエス様は「あなたが必要だ。」と言われるのです。「わたしがエルサレムに入るには、柔和な王、平和の王として人々の前を歩むには、あなたが必要だ。」と言われるのです。
私共は、ただイエス様をお乗せするのです。ほめたたえられるのはイエス様です。ろばではありません。ろばはただ求められるままに、イエス様を乗せてとぼとぼと歩むだけです。イエス様は「それで良い。それが必要だ。」と言われるのです。イエス様をお乗せする。それは少しも難しいことではありません。私共はキリスト者、クリスチャン、キリストのものと呼ばれています。ある人は職場の仕事仲間から、「キリストが来た。」と言われたりしているそうですが、その人ばかりではなくて、私共もキリストの名をもって呼ばれている。キリスト者ですから。ということは、私共が何をするにしても、周りの人は「ああ、キリストとはああいうものか。」と見ているということです。そうであるならば、私共は、どこにいてもイエス様をお乗せしているのと同じではありませんか。自分はそんなつもりはなかった、では済まないのです。
私共は、イエス様の御栄光が現れるように歩んでいきたいと思う。それは単純に、「私の主人は、私の王はイエス様、あなたです。私の大切だと思っているものも、あなたのものです。どうか、あなたが存分に用いてくださいますように。」この祈りと共に生きるということでしょう。「自分が大切にしているもの」と言われて、皆さんは何を思い浮かべるでしょう。群衆は上着を敷いた、この上着に当たるものです。いろいろあるでしょう。例えば、自分の時間であったり、富であったり、特技であったり、色々あるでしょう。そのような中で、今朝、私が思いますことは、この上着についての一つの理解は、「自分を良く見せよう、偉く見せようとする思い」ではないかということです。プライドと言っても良いかもしれません。つまらない小さなプライドがぶつかる時、必ず争いが起きます。人と人でも、国と国でも同じです。平和にならない。それをイエス様のために敷くのです。パウロは、「誇る者は主を誇れ」と言いました。大切なことは主の栄光が現れること。私の栄光ではありません。イエス様が私を必要だと言ってくださる、ここに私共の喜びがあります。世の誰もが私など必要ないと言ったとしても、イエス様は私を必要だと言ってくださる。ここに私共の喜びと誇りがあります。ここに生き切る。その為に、私の小さなプライドなど捨てたら良いのです。
もう少しで受難週そしてイースターを迎えるにあたり、イエス様は私のために何をしてくださったかを心に刻むと共に、このお方こそ私の主、私の王であられることを喜び、このお方が必要としてくださるなら何でも捧げていく者として、主の御前における歩みを整えられてまいりたい。そう心から願うのであります。
[2018年3月18日]