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礼拝説教

「復活された主の大号令た」
ダニエル書 7章9~14節
マタイによる福音書 28章16~20節

小堀 康彦牧師

1.復活されたイエス様は、いつも私共と共に
 先週、私共はイースター記念礼拝としてイエス様の御復活を喜び祝いました。そして、教会に来られない何人かの方を訪ねて、聖餐を守りました。イエス様がこの方と共にいてくださる。そのことを信じ、祈りを合わせました。入院されたり、施設に入られたり、自宅で療養されている方々は辛く厳しい日々を送っておられるわけですが、イエス様はその方々をも御自分の愛の御手の中に置いてくださり、共にいてくださる。どんな状況の中にあっても、私共はイエス様の御支配の下にあるのであって、イエス様以外の何者かが私共を支配しているのではありません。復活されたイエス様は、弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださいました。もちろん、この約束は復活されたイエス様と出会った11人の弟子たちだけに約束されたものではありません。この11人の弟子たちから始まるキリストの教会に連なるすべての者たちに約束された言葉です。イエス様は聖霊として、いつでもどこでも私共と共にいてくださっています。イエス様が復活されたということは、そういうことです。イエス様の御復活は二千年前にただ一度起きたことですけれども、その出来事によって、イエス様はいつでもどこでも私共と共にいてくださるお方となった。たとえ私共がそのことが見えず、分からず、信じられなくなっていたとしてもです。イエス様が私共と共におられ、私共を守り、支え、支配しておられるという恵みの事実に変わりはありません。この恵みの事実に少しずつ気付かされ続けていく。それが私共の信仰の歩みなのでしょう。

2.たとえ疑っていても
しかし、その歩みは、この地上においては完全になることはありません。私共は、イエス様が共にいてくださると信じながら、それでも信じ切れない、そういうところがあるのだと思います。100パーセント完全に信じられたら洗礼を受けようなどと思っている人は、多分、一生洗礼を受けることは出来ないでしょう。私共はこのように礼拝を守りつつも、どこかで信じ切れていない自分というものを持っている。「本当に神様は私を愛してくださっているのだろうか。本当に私と共にいてくださっているのだろうか。だったら、どうして私はこんな辛い目に遭わなければならないのか。私はまだいい。でも、あの人は、この人は、どうなのか。」そんな思いが完全に、きれいさっぱり無くなったわけでもない。私共は信じていないわけではないし、信じたいと思っている。でも、信じ切れない私がいる。それが私共の信仰の現実ではないでしょうか。
 この疑いというものを完全に消さなければ不信仰だ。そういう信仰ではダメだ。もしそんな風に言われたなら、私共は皆、「私はダメな信仰者です。信仰者失格です。」そう言うしかないでしょう。しかし私は、疑うということは信じるという歩みと共に始まるのではないかと思うのです。信じることがなければ、疑いということも無い。信じるということがなければ、元々神様なんか問題にしないのですから、疑うこともない。疑うというのは、心が二つに割れる、分裂するということです。これは、心の中の作用と反作用のようなもので、信じるという心の作用が始まると、疑うという反作用も生まれる。そういうものなのではないかと思うのです。ですから、100パーセント信じるとか、完全に信じ切るというようなことは、私共の心の中では起きないのではないかと思うのです。

3.しかし、疑う者もいた
 今朝与えられております御言葉は、11人の弟子たちが、復活されたイエス様の指示に従ってガリラヤの山に登り、そこで復活のイエス様と出会い、御言葉を与えられた所です。17節「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」とあります。彼らは復活のイエス様に出会って、ひれ伏しました。つまり、神様として拝んだというのです。先週見ましたように、9節で、イエス様の墓に行った婦人たちが復活されたイエス様と出会い、イエス様の前にひれ伏した。イエス様を神様として拝んだ。これがキリスト教会の礼拝の始まりです。11人の弟子たちも、婦人たちも、ガリラヤからずっとイエス様と一緒でした。イエス様の奇跡を見、イエス様の教えを聞いていました。確かに彼らは、イエス様を神の子、メシアであると信じ、告白しましたけれど、イエス様を神様として拝むことはありませんでした。しかし、復活されたイエス様に出会った時、彼らはイエス様を神様として拝んだのです。これは大変なことです。ちょっと偉い人が死ぬと神様として祀られる日本とは違います。彼らにとって、神様と言えば、天地を造られたただ独りの神様しかありません。彼らは復活されたイエス様を、その神様として拝んだのです。これがキリスト教の始まり、主の日の礼拝の始まりです。
 しかし、聖書は「しかし、疑う者もいた。」と驚くべき言葉を記します。11人の弟子たちは復活されたイエス様に出会い、ひれ伏し、拝んだ。でも、疑う者もいたと言うのです。何人いたのか。11人の内、1人か、2人か、3人なのか。そんなことは問題ではありません。イエス様を神様として拝んだ。礼拝した。その時から疑うことが始まったということです。これがキリスト者の姿、私共の姿です。

4.三位一体の神
 キリスト教の教理の歴史から言えば、イエス様がまことの神であるということがキリスト教会の教理として定まったのは、紀元325年のニカイア公会議においてです。この会議は、イエス様は神様と同質のお方であると言う人々と、イエス様は神様に似ているけれど神ではないと言う人々との論争の場となりました。どちらにも言い分はある。もし、イエス様が神様と同質だとすれば、神様が二人いることになるではないか。まして、天地の全てを造られた神様、無限の神様が、どうして人間という有限な者となり得るのか。一方、イエス様が神様と同質ではないとすれば、どうしてイエス様の十字架がすべての者の罪の贖いとなるのか。無限の神であられるが故に、イエス様の十字架が私の救いとなるのではないか。中々理屈だけでは結論が出ないような気がしないでもありません。しかし最後には、「自分たちはイエス様を礼拝しているのだから、イエス様は神様なのだ。」ということに決まりました。もし、イエス様が神様でなかったら、偶像礼拝をしていることになるし、イエス様の十字架によって一切の罪が贖われることにもならないし、イエス様が世の終わりまでいつも共にいてくださるという約束も反故になってしまうではないか。それは、何よりも自分たちの信仰の生活、信仰の現実に反してしまう。自分たちはイエス様を神様として拝み、イエス様が自分と共にいてくださることを知らされ続けてきたではないか。その信仰がこの論争を終結させました。

5.弟子たちの再召命と派遣
 さて、この疑う者もいる11人の弟子たちに対して、イエス様はその疑う者を除いて、疑わない者だけを相手にされたのでしょうか。そうではありませんでした。18節「イエスは、近寄って来て言われた」のです。疑う者を含む弟子たちに、イエス様の方から近寄って来られた。そして、言われた。18b~20節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」これは、「イエス様の大伝道命令」と言われる言葉です。イエス様を捨てて逃げた弟子たち、疑う者もいる欠けの多い弟子たち。その一切の罪を赦し、再び召し出す御命令でした。イエス様は自分を捨てて逃げた弟子たちを赦しています。だから、大切な伝道の使命を彼らに与えられたのです。イエス様の罪の赦しは、この御命令と切り離すことは出来ません。赦された者は再び従う者とされるのです。疑う者もいる、信じ切れない私共のことをイエス様はよく知っておられます。知った上で赦し、遣わされるのです。ふさわしくなってからではないし、ふさわしい者だけにでもありません。

6.すべての民をわたしの弟子にしなさい
 イエス様はここで、三つのことを弟子たちに命じられました。第一に、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」第二に、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」第三に、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」です。確かにイエス様が命じられたのは三つのことですが、しかし内容から言えば、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」の一つだと言って良いでしょう。この「イエス様の弟子にする」ということの中身が、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ということであり、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教える」ということだからです。
 11人の弟子たちはここで、イエス様から「あなたがたは行って」と言われて、すべての民をイエス様の弟子にするために出て行きました。それ以来、キリストの教会はずっとこの復活されたイエス様の大号令の下、伝道し続けています。150年前、この言葉を自分に告げられたイエス様の言葉として本気で受け止めた人々がいました。彼らは太平洋を渡って日本に来ました。横浜に来て、金沢に来て、富山にも来ました。この復活されたイエス様の言葉が無ければ、私共もこの教会も存在しなかったはずです。
 イエス様が「すべての民」と言われた時、それは国境も人種も文化も超えていました。ここから海外宣教という業も生まれてきたわけですが、しかし、私共が皆、海外宣教へということではありません。私共の家族、友人、それらの人々も当然この「すべての民」に含まれています。私共の中には、家族の中で自分だけがキリスト者だという人も少なくないでしょう。地域でも、職場でも、そうかもしれません。その意味では、私共は家族の中に、地域に、職場に、このイエス様の大号令によって遣わされているということなのです。

7.洗礼を授け、訓練せよ
 父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける。これが、イエス様の弟子にするということです。キリストの教会は、このイエス様の大号令の下で洗礼を授け続けてきました。皆さんに洗礼を授けた人は、誰かから洗礼を授けられました。そして、その人もまた、誰かから洗礼を授けられた。これを順々に辿っていきますと、私共の洗礼はイエス様の11人の弟子たちまで遡ることになります。現在世界中に22億人いると言われるすべてのキリスト者が、この洗礼によって、復活のイエス様に出会ったイエス様の弟子に繋がっているのです。世界のキリストの教会には数え切れないほどの教派があり、それぞれの違いを言えばキリが無いほどです。礼拝の形などから見れば、これが同じキリスト教なのかと言うほどの違いがあります。しかし、洗礼に於いては割れることはありません。皆、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ていますし、授けられた者たちなのです。ここにすべてのキリスト教会の一致の源があります。
 「父と子と聖霊の名によって」。ここに三位一体の神の名によってということが明記されています。三位一体という言葉は無くとも、父と子と聖霊という、三位一体の神の有り様が明記されている。この箇所は、三位一体の神を語る、代表的な聖書箇所の一つなのです。
 洗礼を受けた者は、イエス様の御心に適う者として歩みたいと願います。それが、聖霊なる神様の御業としての洗礼を受けたしるしです。このイエス様の御心に適う者として歩む、それが「あなたがたに命じておいたことをすべて守る」ということです。キリスト者は洗礼によって生まれますけれど、その後キリスト者として成長していきます。イエス様に命じられたことを守るように歩む者になっていくということです。ここに、教会の訓練という課題が生まれてきます。私共は訓練されていかなければならない者なのです。

8.自分の力でやっていくんじゃないよ
 このように申しますと、頑張らなくっちゃと思うかもしれません。そう思うことが無意味だとか無駄だとかいうことではありません。それは大切な思いです。しかし、その前に、イエス様がこのことを命じられると同時に、二つの言葉を告げておられることをきちんと聞きましょう。
 一つは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と告げられたこと。もう一つは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と告げられたことです。これは弟子たち、そして私共が、イエス様の大号令に従って出て行く際に、あなたがたの力でやっていくんじゃないよと告げられたということです。
 イエス様御自身がすべてのものに優る権威と力を父なる神様から与えられている。そして、弟子たちはその権威と力によって遣わされていく。自分に力があるから、能力があるから、すべての人をイエス様の弟子にすることが出来るという話ではありません。イエス様の権威と力です。すべてはイエス様が為してくださいます。イエス様は天と地のすべてを造られた神様と同質のお方ですから、このイエス様の権威と力は天地のすべてを造る権威と力だということです。ですから、イエス様の前には、地上のいかなる権威も力も影を潜めるしかありません。その権威と力によって、私共は遣わされているのです。
 そして、そのお方がいつでも私共と共にいてくださいます。何と心強いことでしょう。私共を苦しめ、嘆かせるどんな力あるものも、私共と共にいてくださるイエス様の前では無力です。父なる神様はイエス様を復活させ、死さえも打ち破られたではありませんか。その復活されたイエス様御自身が、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださっています。この約束が私共を慰め、励まし、支えます。私共には、教会を支えたり、伝道を進展させたりする力などありません。ペトロにもヨハネにもパウロにもありませんでした。しかし彼らは、一切の権能を持っておられるイエス様が共にいてくださることを知っていました。いや、イエス様に遣わされた者として歩む中で、それを知らされ続けていったと言う方が正しいでしょう。私共も、イエス様に遣わされた者として与えられた場で生きていく中で、本当にイエス様が共にいてくださることを味わい知っていくことになります。

9.結び 
 イエス様はどこにおられるのでしょう。天の父なる神様の右におられる。その通りです。しかし、聖霊として私共と共にいてくださいます。この「私共と共に」ということが本当に大事なのです。私共の信仰は不徹底で、疑いの心もある。しかし、そのような私共にイエス様の方から近付いて来てくださり、御言葉を与えてくださり、さらに共に歩んでくださる。イエス様の恵みの御業は、よく見れば私共の日常の生活の中にあふれています。
 私は主の日の夕礼拝が終わる度に、「長い一日だった。ああ、今日も守られた。」と本当にそう思う。私共が今、主の日の礼拝に集っている、ここに確かなイエス様の恵みの御業があります。イエス様が私共を召し出してくださり、御言葉に与らせ、遣わされる。私は神様に愛されている。イエス様が共にいてくださる。これは本当に確かなことです。だから、共にいてくださるイエス様の守りを信じて、遣わされた場において為すべき務めに励んでまいりましょう。

[2018年4月8日]