1.2018年度定期教会総会を迎えて
今日は礼拝の後で2018年度の定期教会総会が持たれます。総会では2018年度の予算、宣教計画が話し合われ、長老・執事の選出がなされます。この2018年度の私共の歩みを導く御言葉として、エフェソの信徒への手紙6章10節「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」が選ばれました。皆さんお気付きのことと思いますが、4月1日からこの御言葉が週報の表紙に記されています。
2.最後に言う
週報の表紙には記されていませんが、この御言葉は「最後に言う。」という言葉から始まっています。エフェソの信徒への手紙において色々なことを語ってきたけれど、その最後にこのことを言うと告げるのです。エフェソの信徒への手紙は他の手紙と同じように、前半はイエス様によって与えられた救いの筋道、教理が記されています。そして、後半は具体的なキリスト者としての生活について記されております。それは、この手紙が、イエス様の救いに与ったということはどういうことなのかを告げ、その救いに与った者はどのように生きるのか、どのように生活するのかということを記しているということです。そして、それらを語った最後にこの「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」という御言葉が記されている。それは、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなる」ということでなければ、イエス様が与えてくださった救いに留まれない、イエス様に救われた者としての生活を為して行くことが出来ないということでしょう。
この御言葉を受けて、私共は「自分は強くならなければならない。」とすぐに思ってしまうかもしれません。確かに、私共は強くならなければなりません。しかしそれは、自分の精神を鍛え、心も体も強くしていくということではないのです。そのように自分が強い者にならなければ、イエス様の救いに留まれない、救われた者としての歩みが出来ないということではない。私共はどこまで行っても弱いのです。そのことをパウロはよく知っていました。それは彼自身もまた弱い者だったからです。パウロは偉大な伝道者でした。しかし、その彼も強い人ではなかった。ただ、彼は強くなる道を知っていました。知らされておりました。それは、「主に依り頼む」という道です。主は復活された方です。その方の力はどんなに大きなことでしょう。この圧倒的な力、絶大な力、これだけが私共の信仰の歩みを勝利へと導きます。この方に依り頼むのならば、この方の絶大な力に守られ、支えられ、導かれていくのであれば、私共の歩みは力強いものとなります。私共が強められていく道は他にありません。逆に、私共が自分の力に依り頼むのならば、私共の信仰の歩みは無残なものになるしかありません。何故なら、私共はまことに弱いからです。
3.信仰の戦い
私共の信仰の歩みは、この地上にあっては戦いです。信仰するのは私共が平安に生きるためなのであって、信仰は戦いだと言われても困る。そのように思われる方もおられるかもしれません。しかし、私共の信仰の歩みは、その一歩が始まった時から戦いのただ中にあるのです。この事実を私共はしっかり受け止めなくてはなりません。
それは人間を相手にする戦いではありません。12節を見ますと「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」とあるとおりです。「血肉」とは人間のことです。「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」とは、11節にある「悪魔」のこと、悪しき霊のことです。パウロは、信仰の歩みは戦いだということ、しかもその戦いは人間を相手にするものではなく、悪魔を、悪しき霊を相手にするものだということを知っておりました。ここで言おうとしているのは、私共を神様から引き離そうとする者、イエス様の救いから引きずり落とそうとする者がいるということです。そして、それは目に見える人間ではなくて、悪魔とでも言うべき悪しき霊です。私共の信仰の歩みは、そのような悪しき力にいつもさらされているということです。具体的な生活の場においては、目に見える形で現れることもあります。しかし、その背後に目に見えない力、存在があるということです。この敵をしっかり見据えないと、私共の信仰の歩みは無残なものになってしまうのです。
この目に見えない敵はまことに賢く、私共の弱い所を突いてきます。しかも、決して諦めることなく執拗に攻撃してきます。私共の罪と呼応して、私共を誘惑し、私共の信仰を台無しにしてしまいます。例えば、「人間は死んだら終わりだ。」という常識もそうでしょう。まるで、死というものが最終の勝利者であるかのように、私共に迫って来る。「復活なんてあるはずがない。」「神様なんか頼って何になる。自分の力と努力で道を切り開いていくしかない。」そのようにささやいてきます。或いは、「みんなやっていることだ。そのくらいのことはどうということはない。やりたいのだろう。やっちゃえ。」とささやいてきます。「信仰なんて、宗教なんて、まやかしだ。インチキだ。そんなものにだまされるな。」「愛が何になる。お金だ。豊かな生活だ。それを手に入れれば幸せになる。」「日曜日に礼拝に行くより、もっとやることがあるだろう。」等々、言い出せばキリがありません。様々な誘惑がささやきが私共に働きかけてきます。私共が信仰の歩みを確かなものとしていくには、それらの誘惑と戦うことがどうしても必要です。そのためには、悪しき霊が私共に働きかけているということをはっきりと知ること、そしてそれに負けないようにすることが必要なのです。
皆さんは悪しき霊の一番得意な戦術を御存知でしょうか。それは、自分の姿を隠すことです。悪魔など、悪しき霊など存在しないと思わせることです。それは、神様なんていないと思わせることにも繋がります。目に見えることがすべてであると思わせるわけです。これは、この世の常識とか、学問や科学という形で私共に迫って来たりもします。
先日、教会学校に来ている小学校の低学年の子が、こうお母さんに言ったそうです。「私は、人間は猿から進化したことを知っているよ。でも、教会では神様が造ったと言う。だから、月曜日から土曜日は猿から進化したことにして、日曜日には神様が造ったと信じるの。」その背景には、神様のことを学校で話したらみんなにバカにされたということがあったようです。だから、もう学校では神様のこと、教会のことは話さないし、考えないことにしたというのです。私はこのことを聞いて、本当に心が痛みました。小学生が教会学校に来る。そのことだけでも大変な戦いを強いられている。ここに見えない悪しき霊の働きがはっきり現れている。私は牧師として、この子のために本当に祈らなければならない、主の偉大な力によって幼子の信仰が守られるようにと祈らなければならないと思いました。悪しき霊との戦いを強いられているのは大人だけではありません。幼子もまた、この世の常識という悪しき霊力の影響を受けた大波にさらされているのです。
4.悪魔の誘惑を退けられたイエス様
この悪しき霊による誘惑は、イエス様御自身も受けられました。荒れ野の誘惑です。ルカによる福音書では4章に記されていますが、イエス様は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」また、この世界のすべての国々を見せて、「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」と言い、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と試みました。イエス様はこれらをすべて退けられました。しかし、この記事は13節で「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」と記して閉じられています。この言葉は意味深長です。悪魔が「時が来るまでイエスを離れた」ということは、時が来たなら再びイエス様を誘惑するということでしょう。その後、直接悪魔がイエス様を誘惑したという記述はありません。
でも、ユダがイエス様を裏切った時、ルカによる福音書は「ユダの中に、サタンが入った。」(22章3節)と記します。つまり、イエス様の十字架はサタンが働いた結果なのだと言っているわけです。そして、イエス様が十字架に架けられた時、人々はイエス様に向かって「もし神からのメシアなら、自分を救え。」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と言ったと記されています。ここには、人々が悪魔の誘惑によってこのようにイエス様を罵ったとは記されていませんけれど、このようにイエス様を罵る人々の背後に悪魔がいる。そう考えて良いでしょう。肉体の苦しみの極みを味わわせ、そこでその苦しみから逃れるようにそそのかす。何と狡猾でしょう。もし、イエス様が十字架から降りてきてしまえば、私共を救おうとされた神様の御業は頓挫します。
これらことは、悪魔というものがどんなに賢く、狡猾であり、簡単に諦めるような者ではないということを示していす。一度、誘惑を退けたからといって、それでもう終わりではないのです。何度も何度も、決して諦めることなく、私共の弱いところをこれでもかと突いてくる。しかし、これらの出来事においてもっと大切なことは、イエス様は完全に悪魔の誘惑を退けられたということです。何度誘惑されても、どんな状況の中においても、イエス様は悪魔の誘惑を退けられました。だから、イエス様に依り頼むならば、私共は悪魔の誘惑を退けることが出来るのです。イエス様が退けてくださいます。私共はまことに誘惑に弱い。しかし、イエス様は強いからです。
5.神の武具を身に着ける
パウロは、11節で「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と言います。神の武具です。それは私共のために神様が備えてくださった武具です。私共が悪魔の策略に対抗出来るように、神様が武具を用意してくださっている。それを身に着けよと言うのです。丸腰で戦ったら勝てるはずがない。だから、神様は武具を備えてくださった。その武具とは、当時世界最強だったローマ兵が身に着けていた武具一式をイメージしていると思います。その武具が14~17節に挙げられています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」順に見てまいりましょう。6つあります。
第一に、真理の帯です。帯とは、革で出来たコルセットのようなものを考えればいいでしょう。これを腰に締めるとシャキッと立てます。この真理とは、三位一体の神様のこと、神様の御支配、イエス様の十字架と復活による救いのこと、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命等々、福音の真理のことです。これをしっかり身に着け、弁えるということです。この福音の真理を弁えていなければ、悪しき霊と戦いようがありません。
第二に、正義の胸当てです。この「正義」というのは、神様が与えてくださった義、つまりイエス様の十字架による罪の赦しです。イエス様の十字架によって一切の罪が赦され、神の子とされた。信仰による義です。ここがぼやけますと、信仰の心臓が一突きにされてしまいます。イエス様の十字架に依らず、自分の正しさに立とうとしてしまうからです。これは悪しき霊が、私共の信仰の道を誤らせるいつもの手口です。イエス様の十字架を無意味なものにする、無駄にしてしまおうとするのです。
第三に、平和の福音を告げる準備の履物です。私共は、イエス様の救いの福音を宣べ伝えていくことによって、悪しき霊力の支配下にあった人々を神様の御支配の下へと導いていきます。ここでこそ最も激しい戦いが強いられるでしょう。この伝道のための言葉と体勢をいつでも整えておくことです。
第四に、信仰の盾です。この盾は、体をすっぽり覆うことの出来る大きな盾です。この盾に身を隠すなら、悪しき者の放つ火の矢に撃たれることはなく、これを消すことが出来ます。どんな時でも神様を信頼することです。苦しみ、悲しみ、病気等々、私共が弱った時、神様は本当にいるのか、神様は本当に愛してくれているのかと、悪しき者は私共の心にささやいてきます。しかし、それでもなお主を信頼するのです。
第五は、救いの兜です。この救いとは、テサロニケの信徒への手紙一5章8節に「救いの希望を兜としてかぶり」とありますので、これは終末に於ける救いの完成の希望です。この希望をしっかり持たないと、「死んだら終わりだ。」というささやきを、また「目に見えるものがすべてだ。」というささやきを、退けることは出来ません。肉体の死は必ずやって来ます。しかし、それで終わりではありません。私共は死んでもなお生きるのです。
第六は、霊の剣です。これははっきり「神の言葉」だと言われています。これは日々聖書に親しみ、聖書の説き明かしを一回でも多く聞いて、御言葉を心に蓄えることです。
今、神様が備えてくださっている6つの武具について見てきましたけれど、「真理」も「義」も「福音を告げる備え」も「信仰」も「救いの希望」も、すべては神の言葉によって私共の身に付いていくものです。ですから、これらの神の武具は神の言葉である聖書の言葉に親しみ、これをしっかり心に蓄えることによって身に着けていくということになります。そのためには、自分で聖書を読むことを習慣にすることも大切ですが、何より御言葉の説き明かしに与る機会を大切にして、一回でも多くこれに与ることです。
6.根気よく祈る
さて、聖書は六つの神の武具を記した後で、18節「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と告げます。絶えず根気よく祈れと言うのです。神様との交わりである祈りがありませんと、神の武具は私共の日々の信仰の戦いには本当には役に立たないからです。この祈りは「”霊”に助けられて」、つまり聖霊に助けられて為されるものです。私共は、祈りというものを自分の業であるかのように思っている所があるかもしれませんが、そうではありません。聖霊なる神様の助け無しには私共は祈ることも出来ません。そして、悪しき霊は何よりも、私共が祈らないようにと働きかけてくるものなのです。
私共の教会の石川長老が記した『キリスト教入門』という冊子があります。その問66と答えは秀逸なものです。問いに「祈る気持ちになれないとき、どうすればいいのですか。」とあり、答に「祈れるよう聖霊の助けを求めればいいのです。」とあります。これは、一度聞いただけでは、何を言っているのか良く分からないかもしれません。「祈る気持ちになれないとき」は「祈れるよう聖霊に助けを求めよ」という。「祈れるよう聖霊の助けを求めよ」というのは、要するに祈れということでしょう。つまり、「祈れない時は祈れ」と言っている。これでは禅問答のようではないかと思う人もいるでしょう。しかし、この問答が言おうとしていることは、私共が祈る時に大切なことは、私の気持ちなどではないということなのです。私共は祈る気持ちで祈るのではなく、聖霊の助けによって祈るのです。聖霊の助けによらない祈りは、自分の気持ち、気分、自分の力によって祈ろうとするならば、私共はすぐに祈れなくなるのです。皆さん、「祈りたいという気持ち」になる時がどれほどありますか。自分や家族が苦しい時は祈りたいと思うかもしれません。しかし、自分や家族以外の「すべての聖なる者たち」、これは教会とキリスト者と言っても良いでしょうが、そういう人たちのために本気で祈り続けることなど出来はしないのでしょう。しかし、聖霊の助けによるならば私共は、いつも祈る、一日に何度も祈る、そのような祈りの生活が整えられていくのです。そして、この祈りによって結ばれた交わりこそ、悪しき霊から私共を守ります。この聖霊なる神様の助けによる祈りによって、私共は主の偉大な力によって互いに強められていくのです。
7.御言葉と祈り
御言葉と祈り。これによって私共が主に依り頼む者となる時、私共は主の偉大な力によって強くされます。私共の信仰の歩みは、主の力に依らなければ強くされることはありません。私共は弱く愚かであり、悪しき霊は強く賢いからです。しかし、主はその悪しき霊よりも強い。圧倒的に強い。だから、その力に依り頼む者は、必ず主の勝利を味わうことになります。私共の2018年度の歩みが主の勝利を味わうものとなるよう、心から願い、祈るものです。
[2018年4月29日]