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ペンテコステ記念礼拝説教

「聖霊を受けて」
ヨエル書 3章1~5節
使徒言行録 2章32~42節

小堀 康彦牧師

1.ペンテコステ
 今朝私共は、ペンテコステの出来事を記念する礼拝を捧げています。イエス様は十字架の上で死んで、三日目によみがえり、そして四十日の間弟子たちに復活の姿を現されて、天に昇られました。そして十日の後、つまりイースターから五十日後、弟子たちに聖霊が降った。それがペンテコステの出来事です。ペンテコステという言葉は、使徒言行録2章1節に「五旬祭の日が来て」とありますが、この「五旬祭」と訳されている、五十日目という意味の言葉です。ですから、ペンテコステという言葉そのものに、聖霊が降るという意味はありません。この五旬祭というのは、旧約では「七週祭」と呼ばれ、小麦の収穫の祝いの意味を持つ、過越祭、仮庵祭と並ぶ三大祭りの一つでした。三大祭りには、成年男子は神殿に詣でることになっていた(申命記16章16節)ので、この日は多くの人々がエルサレムに巡礼に訪れていました。この当時ユダヤ人たちは世界中に自分たちの町を作っておりましたので、その町々からも来ておりました。ですから、世界中のユダヤ人たちがエルサレムにやって来ていたのです。
 このエルサレムに集まって来た多くの人々に向かって、イエス様の弟子たちは、その人の国の言葉でイエス様の救いの御業を語った。それが、イエス様の弟子たちに聖霊が降ったことによって起きた出来事でした。ペトロを始めとするイエス様の弟子たち、多分ここで弟子たちというのは1章15節にありますように「百二十人ほど」いたと思いますが、その彼らが当時考えられておりました全世界、全地域の言葉で語り出した。2章9節以下にその地域のリストが挙げられております。大変広大な地域です。「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞い」たのです。不思議なことです。私は、「聖霊が降れば、英語やドイツ語の勉強をしないでも済むのに。」と学生の時に思ったものです。しかし、残念なことに、その後聖霊が降っても、外国の言葉を勉強しないでも話せるようになるということは起きていないようです。その意味では、ペンテコステの出来事はクリスマスやイースターの出来事と同じように、一回限りのことです。しかし、全く同じ出来事ではありませんけれど、あのペンテコステの日に起きた出来事は今も継続中なのです。何故なら、聖霊は今もイエス様の弟子たちの上に降り続けているからです。こう言っても良い。あのペンテコステの日に起きた出来事は、その後に聖霊なる神様によって引き起こされる出来事の原型だということです。
 では、ペンテコステの日に起きた出来事は、今も続くどのような御業の原型となっているのでしょうか。

2.聖霊の御業① 自分の国の言葉で福音を聞く
 第一に、多くの国の人々が、自分の国の言葉でイエス様の福音を聞くということです。今日も世界中の言葉で主の日の礼拝が守られています。その言語の数は幾つくらいだと思いますか。聖書が翻訳されている言語が2551言語ですので、それと同じくらいの言葉で今朝も礼拝が守られているのではないかと思います。2500を超える言語でイエス様の福音が告げられ、聞かれている。これは本当に驚くべきことです。
 主要な言語だけではこんなに沢山の数にはなりません。100万人以下の人たちしか話していない言語、いわゆる少数民族と言われる人々の言語にも聖書は翻訳され続けており、その言語で今日も礼拝が守られている。実にペンテコステの出来事は、二千年前のあの日の出来事よりも遥かに大きな規模で今も継続中ということです。

3.聖霊の御業② 悔い改めが起きる
 第二に、イエス様の救いの御業が、自分が分かる言葉で語られて、本当にそうだと聞き取られ、聞いた人の中で悔い改めが起きるということです。イエス様の救いの御業が語られても、それが本当に自分の救いのためであると聞き取られなければなりません。これは、聖霊なる神様によって起こされる奇跡と言うべき出来事です。伝道者が、説教者が一生懸命語っても、ちっとも伝わらない。そういうことだってあります。いや、その方が普通のことなのです。「イエス様があなたのために、あなたに代わって十字架にお架かりになった。だから、あなたの罪は赦された。悔い改めて、神様の御前に生きる者となりなさい。」と、どれだけ語られても、ちっとも自分のこととは思えない。それが普通なのでしょう。二千年も前に地球の裏側で死んだ一人の人がどうして今の私と関わるのか、ちっとも分からない。それが普通でしょう。ところが、「ああ、本当に私のために、神の御子であるイエス様が、私に代わって十字架の苦しみを受けてくださった。私は何という罪人か。」そのことが分かり、神様に赦しを求める。そして、「イエス様が復活されたのだから、私も永遠の命に生きる者とされている。」と信じ、その希望の中を生きる者となる。そのように、福音が福音として聞き取られ、悔い改め、神様の御前に新しく生きる者が誕生する。それは奇跡以外の何ものでもなく、そこには聖霊なる神様の確かな働きがあるのです。
 ペトロがこのペンテコステにおいて行った説教が、キリスト教会最初の説教です。ここでペトロが語ったことは、「イエスこそメシアです。あなたがたはこの方を十字架に架けて殺しましたが、神様はイエスを復活させられました。わたしたちはその証人なのです。」ということでした。これを聞いた人々の中には、イエス様が十字架の上で殺される時、「十字架につけよ。」と叫んだ人もいたかもしれません。ほんの五十日ほど前のことです。まだ生々しい記憶があったでしょう。あの時自分が「十字架につけよ」と叫んで十字架の上で殺されたイエスが本当に神の御子ならば、本当に復活したのならば、自分は完全に神様に敵対してしまったことになる。どうすれば救われるのか。この時ペトロの説教を聞いた人の中に、「わたしたちはどうしたらよいのですか。」(37節)と問う者たちがいたのです。「大いに心を打たれ」と訳されている言葉は、「心を刺され」「心をえぐられ」と訳せる言葉です。イエス様が本当にメシアならば自分は何ということをしてしまったのかと、心がえぐられるように痛んだというのです。そして、「わたしたちはどうしたらよいのですか。」どうすれば救われるのですか。そうペトロに問うたというのです。ペトロは明確に応えます。38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」実に、ここでペトロが語ったことが、キリストの教会において語られ続けていることであり、聖霊なる神様のお働きの中で為され続けていることなのです。

4.聖霊の御業③ 洗礼を受ける者が起こされる
 第三に、イエス様の救いの御業を聞いて、多くの人が洗礼を受けるということです。41節には「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」と記されております。これは大変な数です。正直、驚きます。しかし、聖霊なる神様によって現在起こされている出来事は、これを遙かに超えた出来事なのです。宗教統計では、現在世界中に22億人のキリスト者がいるとされています。この22億人という数字は、毎日10万人の人が洗礼を受け、その人たちが65年間キリスト者であった場合の数字です。毎日10万人が洗礼を受けている。これが現在聖霊なる神様によって起きている救いの御業なのです。
 今朝私共は、一人の受洗者と一人の信仰告白者が与えられております。この若い二人がキリスト者として新しく神様の御前に歩む者とされる。そこには聖霊なる神様のお働きが確かにあります。聖霊は見えませんけれど、実にそのお働きによって、聖霊なる神様は生きて働いて、確かに私共の上に臨んでいることを明らかにされます。その最も明らかなしるしが洗礼であり、信仰告白という出来事なのです。
 お二人とも、お父さんの方から数えても、お母さんの方から数えても、キリスト者三代目となります。お父さんもお母さんも、おじいさんもおばあさんも、みんなキリスト者。それは確かに恵まれた環境と言えます。しかし、だから洗礼・信仰告白へと至ったということではないでしょう。ペトロは38節で、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言ってすぐ39節で、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」と言います。つまり、この約束は「主が招いてくださる者」ならだれにでも与えられているものなのです。悔い改めてイエス・キリストの名による洗礼を受け、罪を赦していただくという出来事は、主に招かれることによって起きることなのです。今朝洗礼を受け、信仰告白するお二人は、自分が主に招かれた者であるということを知った、受け入れたということなのでしょう。
 私が信じる。私がキリスト者として生きていく決断をする。それも大切なことです。しかし、私の決断、私の信じる気持ちというものによって、私共は救いに与るのではありません。聖霊なる神様のお働きによってです。そのような決断、信じて歩もうという志も、聖霊によって与えられるものです。私の決断、私の信じる気持ちが救いをもたらすのではない。私の中にそんな力はどこにもありません。ただ神様が私を選んでくださり、招いてくださり、救いに与らせてくださるのです。私の決断、私の気持ちなどというものは、まことに頼りないものです。全く当てになりません。しかし、神様が招いてくださったのでしたら、これほど確かなことはありません。私共の救いの確信はここに生まれます。若いお二人にはこれから色々なことがあるでしょう。神様と共に生きているのにどうしてこんな目に遭うのか、ということだって起きるでしょう。でも、このイエス様の救いの恵みにとどまり続けなさい。神様は必ず道を開いていってくださいます。

5.聖霊の御業④ キリストの教会が建つ
 第四に、聖霊なる神様が働かれる時、キリストの教会が建っていくということです。このペンテコステの日に洗礼を受けたのは三千人ほどだったと記された後に、その洗礼を受けた人々がどのような歩みをしたかが記されています。42節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」ここにあるのは、初めて生まれたキリストの教会の姿です。イエス様の救いに与った者は、聖霊なる神様の導きの中でそこに共同体を造ります。「私が救われたのだからそれで良い。私が救われたからそれで十分。それで終わり。」とはならないのです。互いに神様の御心を学び、互いに励まし、互いに支え合う。そして、共に聖餐に与って、御国に向かって、祈り合って歩んでいく。そのような共同体が建てられるのです。
 聖霊が降ることによって、この共同体が私共に与えられました。それがキリストの教会です。だから、ペンテコステは教会の誕生日と言われるのです。聖霊は救いに与る者を起こし、そして救われた者の共同体としての教会を建てていくのです。キリストの教会は、それぞれ与えられた賜物を出し合って皆で建てていくという面がありますけれど、その営みのすべてを支配し導いてくださっているのは、聖霊なる神様です。このことが忘れられてしまいますと、教会もただの人間の集まりということになってしまいます。そうすると、教会がキリストの体であることが分からなくなってしまう。自らが何者であるか分からなくなってしまった教会は、とても残念な存在になってしまうのではないかと思います。
 教会は、聖霊なる神様の導きの中で神の国を指し示す群れ、神の国の写し絵のような共同体でありますから、この世から見ればいつでも異質です。しかし、それは憧れをもって見られるべき異質さなのです。永遠の命の希望を持つ群れだからです。互いに赦し合うことを知っており、神様にそのように命じられており、それに従って生きようとしている群れだからです。崇められるべきは私ではなく、ただ神様のみであるということを知っている者の群れだからです。もし、その異質さを失ってしまったのならば、それは塩味を失った塩として、世の人々から捨てられるだけになってしまうでしょう。

6.まとめ
 今、ペンテコステの日に起きたことを見てまいりました。第一に、多くの国の言葉でイエス様の救いが語られた。第二に、それがちゃんと聞かれ、悔い改める者が起こされた。第三に、洗礼を受ける者が起こされた。第四に、キリストの教会が建った。この四つのことがペンテコステの日に起きたことです。そして、この四つのことは聖霊なる神様の救いの御業として今も継続中であるということです。私共がペンテコステを喜び祝うのは、昔こんな不思議なことがあったんだと懐かしむためではありません。そうではなくて、聖霊は私共の上に今も注がれており、聖霊なる神様の御業がこの教会において今も為されている。そのことを喜び祝うためです。この聖霊なる神様の御業は、御国が完成するまで続いていきます。私共は、この聖霊なる神様の御業の道具として用いられる者として招かれ、立てられています。そのことを心から感謝し、喜び、誇りとして、いよいよ存分に用いられることを願い求めて歩んでまいりたいと思います。

[2018年5月20日]