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礼拝説教

「盗むな」
出エジプト記 20章15節
フィリピの信徒への手紙 4章10~14節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 「神の民にとって最も大切なものは何でしょうか。」この問いは、神の民を最も特徴付けるものは何か、と言い換えても良いでしょう。そう問われて私共は、「信仰・希望・愛」といった言葉がすぐに思い浮かぶでしょう。信仰・希望・愛、これは本当に大切です。確かに、これらは神の民である私共にとって無くてはならないものですし、これらを与えられることによって私共は、神の民という新しい存在になりました。しかし、今日はこの「信仰・希望・愛」と深く結び付いており、しかも私共が神の民であることの確かな証しとなるような、神の民を決定的に特徴付けるもの、「自由」について御言葉を受けたいと思っています。

2.十戒の第八の戒め
 今日は5月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。順に十戒から御言葉を受けておりますが、前回は第七の戒「姦淫してはならない。」でした。今日は第八の戒「盗んではならない。」です。説教題を「盗むな」としたのですけれど、これで良かったのかなと少し思っています。と言いますのは、「盗むな」と言われれば、私共は他人の物を盗むなということを意味していると思うでしょう。しかし、この第八の戒は、他人の物を盗むなということを言っているのではありません。他人の物を盗むなというのは第十の戒の「隣人の家を欲してはならない」で言われていることで、この第八の戒で言われておりますことは、物ではなくて人を盗むなということなのです。つまり、誘拐とか人身売買とか、人そのものを盗むなということなのです。第八の戒めと第十の戒めは、同じようなことを言っていると思われていた方も多いのではないかと思いますが、このような違いがあるのです。
 そもそも十戒は、その前文である「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である。」という、神様の宣言から始まっています。神様はモーセを立てて、イスラエルをエジプトの奴隷の状態から導き出して、解放してくださいました。その神様が、「あなたはこの救いに与った者としてこう生きるのだ。」とお命じになったものです。ある旧約の学者は、「この十戒は、イスラエルを救ってくださった神様が、神の民に向かって『あなたは○○しない』という形で記しているものだ。新共同訳では、第六の戒『殺してはならない。』、第七の戒『姦淫してはならない。』、第八の戒『盗んではならない。』、第九の戒『隣人に関して偽証してはならない。』、第十の戒『隣人の家を欲してはならない。』という所で、『あなたは』という言葉が訳出されていない。しかし、これでは十戒の心が分からない。」と言います。私共が礼拝の中で唱和する十戒には「あなたは」という言葉が付いています。どうして、「あなたは」が抜けていると十戒の心が分からなくなってしまうのか。それは神様から「あなた」と呼ばれる者、神様に愛され神様の救いに与った者が、神様から「わたしの救いに与ったあなたはどう生きるのか。こう生きるしかないではないか。」と告げられているものだからなのです。神様の救いに与った者を、神様が御自分の前に立たせて、「あなたは、どうする。」と自主的に、自発的に応答することを求めておられる。それが十戒というものだからです。
 翻訳のことでもう一つ言いますと、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するなという訳も、これだと○○してはならないという禁止の命令が告げられていると受け止めてしまいます。しかし、これは英語だと第六の戒めの「殺してはならない」の場合、You shall not kill.となります。Do not kill.ではないのです。つまり「殺してはならない」ではなくて「あなたは殺さない」と訳せる言い方なのです。これは今回の第八の戒で言うならば、「奴隷の家からわたしによって自由にされたあなたは、人を盗んで自分の奴隷とするようなことはしない。」ということです。つまり、この第八の戒は、第六の戒である「殺すな」ということが、相手の命を重んじ生かすという、人との関係を告げているように、そして第七の戒である「姦淫するな」というのが、結婚、また男と女という、人との関係におけるあり方を示しているように、この第八の戒も、人を盗んで自分の奴隷としたり、人を物のように扱って売り飛ばしたりすような、自由を奪うような、人との関係であってはならない、あなたがたはそんな関係を作っていったりはしないということを告げているのです。

3.自由な民として
 この第八の戒によって私共に与えられる新しい神の民の姿とは、自由な民です。互いの自由を保証する民ということです。第六の戒からの流れで言えば、「殺すな」は命を守る、「姦淫するな」は結婚・家庭を守る、「盗むな」は自由を守る、「偽証するな」は名誉を守る、「隣人の家を欲してはならない」は財産を守るということになるでしょう。実に、十戒の後半は、「他人の権利を守る」、「互いに相手の権利を認めて、これを犯さない」、そういう人との関係、そのような共同体を形作るようにとの神様の御心が示されているのです。
 では、何故神様は「盗むな」と告げて、神の民が互いに自由を保証し、また相手の自由を奪うような関係を作ってはいけないと思われたのでしょうか。第一にそれは、神様御自身が自由な方だからです。神様は、完全な自由の中でイスラエルを御自分の民として選び、愛してくださいました。そして、その愛に基づいて、イスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出してくださいました。この神様の自由な愛に応える者として神様の御前に立つ神の民は、誰に縛られること無く、自由に神様を愛し、隣人を愛するのです。自由な愛に生きる者として、神様は神の民を選び、これを導いておられる。自由な愛の交わりこそが、愛である神様に選ばれた民にふさわしい姿、神の国を指し示す民にふさわしい姿だからです。第二に、神の似姿を失った人間が、自由である神様の似姿を回復していく者として召し出されたのが神の民だからです。神様の救いに与るまで、私共は全く自由というものを知りませんでしたし、自由ではありませんでした。しかし、神様に愛され、選び出され、神の民とされ、自由というものを知った。
 神の民は本当に自由なのです。それは、単に私が自由であるというだけではありません。自分の隣人、自分が関わる人に対しても自由を保証する、その人の自由を重んじる、決して自由を奪わない、そういう共同体を形作る者として私共は召されている。逆に言いますと、神様の救いに与り、神様の御前に立って生きるということでなければ、私共は自由でもないし、相手の自由も認めない、そういう関係を作ってしまうということです。自然に生きていれば、神様との交わりの中に生きていなければ、私共はいつの間にか支配する者と支配される者という関係になってしまう。そういう関係しか私共は知らなかったということです。

4.不自由な関係:支配者と被支配者
 それは、国と国との関係においても起きます。植民地というようなあり方がそうです。或いは、奴隷制度、人身売買もそうです。そのような、他の人間の自由を奪って自分が得をしようとするあり方そのものが、神様によって救われた者のあり方ではない、神様の御心に適わないということです。
 それは、会社や学校や家庭の中でも起きます。日常的に起きています。いじめ、虐待、DVやパワハラ、セクハラといったものはこれの典型です。今テレビで毎日ニュースになっている、日大のアメリカンフットボール部の生徒に対するコーチや監督のあり方もこれでしょう。生徒を自分の支配下に置いて、自由を奪い、犯罪的な反則をさせてまで日本一強いチームを作る。それは違う。カルトと呼ばれる宗教の内部で行われているマインドコントロールもこれに当たります。過労死の問題だってそうです。命を奪うほどの労働を課すことなど、許されるはずがない。
 しかし私共は、放っておけば力の強い者が力の弱い者を支配する、そういう人間関係を作ってしまう。知らず知らずのうちにそうなってしまう。パワハラやセクハラやDVといったものは、そのほとんどは自分で意識しないうちにしているのでしょう。無意識のうちに、自分の支配の中に人を置こうとする。これは、私共の罪の具体的な現れです。恋人、夫婦、親子においてさえも、そのような関係を作ってしまう。男尊女卑、モラハラといったものです。それに対して神様は、この第八の戒「あなたは盗んではならない。」と告げることによって、人を支配しようとするのではなくて、あなたは自由だし、相手も自由だ、その自由な関係の中で愛の交わりを形作るように、と私共を召しておられるということなのです。

5.隣人に仕える自由に生きる
 どうでしょう。この第八の戒「あなたは盗んではならない。」という戒は、ただ他人の物を盗まなければいいというようなことではなくて、人と人との関係における私共の根本的なありようを示しているということがお分かりになったかと思います。それは実に、神様に救われ、神の子・神の僕として神様の御前に立たされるところにおいて示される、私共のありようなのです。
 ハイデルベルク信仰問答の問111には、この第八の戒において「神は何をあなたに命じておられるのですか。」とあり、答えは「わたしが、自分になしうる限り、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。」とあります。自分が自由であり、相手も自由である。この関係において相手の自由を尊重するとは、あなたは自由なのだから勝手に好きなように生きなさい、あなたがどうなろうとわたしの知ったことではない、あなたが自分で決めたのだから自己責任です、というようなことではないのです。そうではなくて、自分が出来る範囲で、自分が人にしてもらいたいと思うことを行う、困窮の中にある人を助けることなのだというのです。これは、私共に与えられている自由がどのようなものであるかをはっきり示しています。私共に与えられている自由、神様に救われ、神の子・神の僕として与えられた自由は、隣人を愛し、隣人に仕えるために用いられる自由だということです。相手を支配しなければいいという所にとどまるのではなくて、相手に仕える。支配するのではなく、仕える。そのために用いられる自由、そのために与えられている自由だということです。ここにまで至らなければ、自由は愛と結ばれることはないのです。

6.キリストに倣いて
 人に仕えるための自由など、少しも自由ではないではないか。そう思われるでしょうか。私共はここで、十戒を完全に行われた方を見なければなりません。十戒を完全に行うことが出来た方。それは主イエス・キリストしかおられません。イエス様こそ、神様の御前において、神様の御心を完全に行った方でした。つまり、十戒はイエス様の御姿を指し示しているのです。ですから、喜んで十戒に従って生きるということは、喜んでイエス様に従って生きる、イエス様の後について行く、イエス様に倣って生きることになるのです。とするならば、この「盗むな」という第八の戒は、ハイデルベルク信仰問答が教えるように、自分がしてもらいたいことを隣人に対して行い、困窮の中にいる人を助けるという所にまで至るということも納得出来るのではないでしょうか。
 使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙4章11節で「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」と言います。それは、自分に与えられている境遇を、神様が与えてくださったものとして受け止めたからでしょう。私はこのことが、「私は自由、あなたも自由」という関係を形作っていくためにはとても大切なのではないかと思うのです。確かに、不足を言い出せばキリがないのかもしれない。しかし、神様は必要なものを与えてくださり、私を守り、支えてくださっている、ありがたいことだ。この神様への感謝がなければ、私共は自由になれないのではないかと思うのです。あれが足りない。何でこうなんだ。あの人はいいな。この人だって自分よりずっといい。そんなことばかりで心が埋まっていたら、少しも自由ではないでしょう。それは心が神様に向いていないからです。神様に心が向かわなければ、神様に与えられている自由の喜びもなくなってしまうでしょう。パウロは、神様に救われた、神様に愛されている、神様と共に生きている、そのことによって、どんな境遇の中に生きようとも、そんなことに左右されない自由を手に入れた。そして、その自由を主の御業のために用いたのです。

7.神の国の秩序
 私は自由、あなたも自由。その自由を、人に仕えるために互いに用いる。これは、実にすがすがしい関係、美しい共同体の姿でありましょう。このすがすがしさ、この美しさは、神の国のすがすがしさ、神の国の美しさです。確かに、私共が生きている現実はそのような社会になっていない。しかし、私共はそのような社会が来ることを信じて良いし、既にそのような交わりに生き始めています。それがキリストの教会です。教会という所は自由な奉仕によって成り立っています。ここに支配者はいません。リーダーはいます。しかし、このリーダーは誰よりも仕える人です。人の上に立って、威張って、偉そうに人に命令するような人は一人もいません。不思議と言えば不思議な所です。それは、教会が神の国の写し絵のような所、神の国を指し示す共同体だからです。もちろん、教会は神の国ではありません。ですから、「えーっ!?」と言いたくなるようなことも起きるでしょう。しかし、たとえそうであっても、神の国はここに既に始まっています。そして、イエス様が再び来られる時、この神の国は完成します。その時が必ず来ます。私共はその救いの完成の恵みをこの世界に示す者として、そしてその日を待ち望む者として、その日を目指して歩み続ける民なのです。

[2018年5月27日]