1.祈りに顕れたイエス様の姿
今朝私共に与えられました御言葉は、「大祭司の祈り」と呼ばれているイエス様の祈りの冒頭の部分です。ヨハネによる福音書においては、14章から16章まで、最後の晩餐におけるイエス様の長い説教が記されており、それを締めくくるように、17章においてイエス様の祈りが記されています。福音書の中でイエス様が祈られた場面はたくさんありますけれど、イエス様の祈りの言葉が記されている箇所はそれほど多くありません。その中でこのヨハネによる福音書17章は、聖書が記す他のイエス様の祈りと比べて、圧倒的に長い祈りが記されています。ですから、ここを読みますと、イエス様がどのような祈りをしておられたのかが分かります。
祈りの言葉には、その人が何をどのように信じているのか、何を願い求めているのか、何を大切にしているのかといった、その人の信仰のすべてが表れ出てしまうものです。祈りというものは、その人が神様の御前に立った時の姿、神様に御前に立った時の有り様そのものでありますから、当然と言えば当然のことです。ですから、このイエス様の祈りの言葉を見ていきますと、ここにはイエス様というお方がどのように神様の御前に立ち、何を求め、何を信じておられたか、そういうことが分かってくる。そう言っていいだろうと思います。
2.父よ
ここで私共が注目しなければならないことは、まず第一に、イエス様は神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈りを始められたということです。天と地のすべてを造られ、すべてを支配しておられる神様に向かって、「父よ」と呼びかけた。イエス様は、神様に向かって「父よ」と呼びかけることの出来るお方、つまり神の御子であったということです。少なくともイエス様は、そのような者として御自身を理解されていたということです。他の誰かがイエス様のことを「この方は神の御子だ。」と言ったということではなくて、イエス様御自身がそのように御自分を理解しておられたということです。イエス様は、神様と「父と子」という関係を持っておられるお方であり、神様との永遠の愛の交わりの中におられた方だということです。このことは、決定的に重大なことです。
私共は、祈りといえば「天におられる父なる神様」とか「御在天の父なる神様」と言って、神様に対して「父」と呼ぶことが当たり前のように思っているところがあります。しかし、これは少しも当たり前のことではありません。天地を造られた唯独りの神様に向かって「父よ」と呼びかけることの出来るのは、神の御子以外におられないからです。にもかかわらず、私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのは、イエス様が、神様と御自身との関係、神様との「父と子」という愛の交わりの中に私共を招いてくださったからです。この交わりを私共に与えるために、イエス様は天から降り、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださいました。そして、私共と神様との間にある、罪という、私共の側からは決して越えることの出来ない壁を取り除いてくださいました。だから今、私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのです。私共が救われた、私共が新しい者とされた、その確かな「しるし」がここにあります。私が救われているその確かな「しるし」は、私が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る、出来ている、ここにはっきりと表れているのです。
こう言っても良い。私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのは、神の独り子であるイエス様の霊、聖霊が私共の中に宿ってくださっているからです。イエス様によって聖霊が与えられ、私共に信仰が与えられたからです。信仰というものは、私共の心の内側から湧いてくるようなものではありません。聖霊の御業です。私共が祈るのも、私共の内側から祈りが湧き上がってくるのではありません。そうではなくて、イエス様の霊である聖霊なる神様が私共の内に宿り、私共を導き、私共に祈りを備えてくださるからです。だから、「父よ」と天地を造られた神様に向かって呼ぶことが出来る。キリストの霊である聖霊なる神様が私共に祈りを与えてくださった確かな「しるし」が、「父よ」という一言にあるのです。
3.神の栄光
次に、イエス様は「時が来ました。」と告げられました。この「時」とは、神様の定め給う時です。それは、具体的には、十字架にお架かりになる時です。イエス様がこの祈りを捧げられたのは、十字架にお架かりになる前の日の夜、つまり木曜日の夜のことです。イエス様はこの時、はっきりと御自身が十字架にお架かりになることを見ておられました。そのような状況の中で、「時が来ました。」と神様に祈られた。それは、イエス様が、御自身が十字架にお架かりになることこそ神様の御心が現れることであると受け止めておられたからです。神様の御心が現れる。出来事となる。これこそ、神様の栄光が現れるということなのです。ここでイエス様は「栄光」という言葉を五回も使っておられます。1節「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」4節「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」5節「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」こんな短い箇所にこんなに繰り返し「栄光」という言葉が使われているということは、この「栄光」という言葉がとても重要であるということを意味しています。そもそも、「栄光」とは、神様がそこにおられる、あるいは神様の御心がそこにある、そのことがはっきりと示されることによって現れるものです。神様の御臨在のしるし、神様の御意志のしるし、それが栄光です。神様がおられる所には栄光が現れるのです。
「栄光」という言葉はとても大切な言葉なのですけれど、少し分かりにくいところがあります。私共は栄光と言いますと、今、サッカーのワールドカップが行われていて、このワールドカップで優勝した選手たちが国に帰れば、英雄のように扱われるでしょう。これなどは分かりやすい栄光です。地上の栄光です。しかし、聖書が語る栄光はそのようなものではありません。聖書が告げる栄光は、神様だけが持っておられるものです。それは永遠の輝きであり、他には比べようもない輝きをもって、すべての者の上に臨まれます。神様の栄光は、すべての者の唇にほめたたえられるものです。私共は、神の国に迎えられる時、その栄光をはっきりと仰ぐことになります。天使たちもこの神様の栄光をほめたたえています。
4.十字架の栄光:神の栄光
イエス様は、神様の御心を語り、様々な奇跡を為し、神様の栄光を現し続けてこられました。イエス様は、クリスマスに地上に降って来られる前、天において父なる神様との永遠の愛の交わりの中にあって、神様と同じ栄光を持っておられました。そして今、十字架にお架かりになることによって、その栄光を現そうとされているわけです。十字架は、人間の目から見れば、どこに栄光があるのかということでしょう。犯罪者として十字架刑で殺される、それのどこに栄光があるのか。残酷で悲惨なだけではないか。栄光どころか、その正反対の恥と辱め以外の何ものでもないではないか、ということでしょう。確かに人の目にはそう見えるでしょう。しかし、イエス様はそのようには受け止めておられませんでした。何故なら、十字架こそ父なる神様の御心そのものだったからです。イエス様は、この十字架にお架かりになるために天から降って来られたからです。神の独り子が十字架に架けられる。そのことによって、神様に敵対し反逆していたすべての罪人の罪が贖われ、御子を信じる者に、神様を「父よ」と呼ぶ愛の交わりが神様との間に打ち立てられる。このことこそ、神様が天と地を造られた時以来の、神様の御心そのものだったからです。この十字架によって、神様の御心そのものが、神様の愛が、神様の真実が現れる。まさに神の栄光が現れるのです。神様の御心と一つになって、神様の栄光を現す。それこそが神の独り子であるイエス様の最大の使命でした。
私共は、このイエス様の祈りの言葉によって、イエス様の十字架が神様の御心そのものであるということをはっきりと知らされるのです。あの恥辱にまみれた悲惨な十字架こそ、永遠から永遠まで輝き続ける、神の栄光が現れるところなのです。私共は、地上の栄光ではなく天の栄光を、人間の栄光ではなく神の栄光を知らなければなりません。地上の栄光、人間の栄光は、夏の夜の花火のように、どんなに美しく輝いても一瞬のうちに消えていってしまうものです。しかし、神の栄光、天上の栄光は永遠に輝き続けます。
イエス様の救いに与った者は、この神の栄光に与る者、天の栄光を指し示す者として召されているのです。良いですか皆さん。地上の栄光ではなくて天の栄光、人間の栄光ではなく神の栄光です。ここに、私共が第一に祈り、第一に願うべきものがあります。私共が第一に求め、祈る時、私共はイエス様と一つにされるのです。永遠の神の独り子であるイエス様と一つにされ、天の神様に向かって「父よ」と呼ぶ交わりに与るのです。永遠に一つであられる父なる神様と独り子イエス様との間にある愛、この交わりに私共も与るのです。これこそが私共に与えられている、驚くべき恵み、祝福なのです。
5.永遠の命:神様を知り、イエス様を知ること
最後にもう一つだけ見ます。2節に「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」とあります。イエス様は、神様の栄光を現す十字架にお架かりになることによって、私共に永遠の命を与えてくださいました。そして、3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。永遠の命とは何か。イエス様はここで「永遠の命の定義」というべきものを示してくださいました。この3節の言葉は、実に驚くべき言葉ではないでしょうか。
私共は、永遠の命と言うと、何となく、永遠に続く命といったイメージを持つでしょう。確かに文字通りの意味はそういうことになります。そのような理解は間違いではありません。しかし、私共は必ず死ぬわけです。この肉体の命は必ず終わりを迎えます。しかし、イエス様は永遠の命を与えると言われました。ということは、この肉体の死では終わらない命があるということでしょう。
私共は今朝、このことをはっきりと心に刻まなければなりません。永遠の命とは、「唯一の神とイエス・キリストを知ること」なのです。この「知る」というのは、神様はどんな方か知っている、イエス様が何を語られ何を為されたのか知っている、そんな意味ではありません。そんなことならサタンだって知っています。ここで「知る」と言われているのは、創世記4章1節で「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、」と記されている「知る」です。この創世記4章1節の「知った」は、肉体関係を持ったという意味でしょう。つまり、「知る」というのは、肉体関係を持つような、その人と一つになるような、深い交わりをもって知るということです。顔を知っている、名前を知っている。そんな知り方ではなくて、この人無しでは生きていけない、そういう深い、全存在を懸けた知り方です。それは愛と言っても良い。自分の全存在を懸けて信頼し、愛し、この方と共に生きていくという交わり、関係を持つことです。
私共は、唯一の神とイエス・キリストとそのような関係を持つ者として召し出された。そして、そのような関係を持つ者として生きている。この神様・イエス様との交わりは、肉体の死をもって終わるようなものではないということです。そのことをはっきり示すために、イエス様は十字架にお架かりになって三日目に死人の中から復活されたのです。死によって滅ぼされないお方、死を打ち破られたお方、それがイエス様です。そして、天地を造り、永遠から永遠まで生き給う父なる神様。この神様・イエス様との交わりは、私共の肉体の死によっても滅びることはありません。この父なる神様と御子イエス様との間の永遠の愛の交わり。私共はこれに与る者とされた。私共は、既にこの神様・イエス様を知っている。既にこの方との愛の交わりの中に生きている。ということは、私共は既に永遠の命の中に生きているということなのです。
肉体の死は、実に圧倒的な力で私共を襲ってきます。これに立ち向かうことなど誰にも出来ないでしょう。しかし、神様は違う。イエス様は違う。神様はイエス様を復活させられました。その方を私共は「父よ」と呼んでいる。死人の中から復活させられたイエス様と一つになって、神様に向かって「父よ」と呼んでいる。それは、父なる神様とイエス様との永遠の交わりの中に、私共も与っているということです。神様とイエス様は永遠に生き給うお方であり、その交わりに与ることによって、私共もまた永遠に生きる者とされるということです。だから、もう私共は永遠の命の中に生き始めているのです。
6.大祭司の祈り
一番最初に、このヨハネによる福音書17章は「大祭司の祈り」と呼ばれていると申し上げました。エルサレム神殿の一番奥にある至聖所には契約の箱が置かれており、「神の足台」と考えられていた、この地上における最も聖なる所でした。至聖所には年に一度だけ、大祭司だけが入ることが許されていました。大祭司はその至聖所で、民の罪の赦しを神様に願い求めたのです。イエス様は御自分の体を犠牲として捧げ、私共すべての者の罪の執り成しをなされました。ですから、イエス様こそまことの大祭司なのです。
まことの大祭司であるイエス様が、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになって、父なる神様に向かって一切の罪の赦しの執り成しをしてくださいました。ですから、私共は誰憚ることなく、神様に向かって「父よ」と呼び、天地を造られたただ独りの神様との親しい交わりに生きることが許されている。ここに永遠の命があります。
まことに弱く愚かで自分勝手な私共でありますけれど、神様の子とされている。何と光栄なことでしょう。だから、私共は神様・イエス様をほめたたえないではいられないのです。ここに神の栄光が現れています。神様をほめたたえているこの礼拝こそ、神の国の先取り、天の国の写し絵とでも言うべきものです。今、まなざしを高く天に向け、共々に御名をほめたたえたいと思います。
[2018年6月24日]