1.トマス・ウィンによる伝道開始
今朝私共は伝道開始137年を記念する礼拝を守っています。週報に記してありますように、1881年(明治14年)8月13日・14日の二日間、トマス・ウィン宣教師一行が旅籠町の山吹屋という家を借りて説教会を開いたのが、私共の教会の伝道開始の時です。
トマス・ウィンは米国北長老教会の宣教師でした。彼は、1877年(明治10年)12月に横浜港に着き、2年後の1879年(明治12年)に石川県中学師範学校(第四高等学校の前身)の英語教師として金沢に来ました。彼は、着任するとすぐに伝道を開始し、1881年(明治14年)5月には金沢教会が建設されます。これが北陸に於ける最初のキリスト教会です。そして、その年の8月に七尾・高岡・富山・石動に伝道旅行を致します。この時が私共の伝道開始の時です。ですから、私共の教会の伝道開始と金沢教会の設立は同じ年ということになります。また、高岡教会と私共の教会の伝道開始の時も同じということになります。今私共は北陸連合長老会という教会の交わりを持っております。それに属する小松教会、金沢元町教会、高岡教会、そして私共の教会、これは同じ時期に金沢教会並びに米国北長老教会によって伝道を開始した教会なのです。更にだいぶ後になりますが、内灘教会も金沢教会によって伝道が始められた教会です。
2.伝道第Ⅰ期
1881年(明治14年)に初めてこの富山の地にイエス様の福音が伝えられ、その2年後には長尾巻(北陸に於ける最初の伝道者)によって富山伝道が開始されて、1884年(明治17年)、惣曲輪講義所が開設されます。私共の初代伝道者はこの長尾巻です。小松教会も金沢元町教会もこの長尾巻によって開拓伝道が為されました。
その後、林清吉、篠原銀蔵牧師、戸田忠厚牧師、中村慶治牧師と伝道者が遣わされ、1912年(明治45年)、富山伝道教会となりました。伝道開始から31年、長尾巻を含めて5人の伝道者が遣わされたことになります。私共の教会が講義所から伝道教会となるためには、1902年(明治35年)に在日プレスビテリアン宣教師社団、これは日本伝道のために米国長老教会によって作られたものですが、ここから総曲輪の100坪の土地を買い与えられて、1階に41坪の会堂、2階に8坪の牧師館が建てられます。私共はこのことを忘れてはならないと思います。米国長老教会によってこの100坪の土地が与えられなければ、私共の教会としての出発には至らなかったのです。この講義所時代の30年を伝道第Ⅰ期と見ることが出来ましょう。
3.伝道第Ⅱ期
1942年(昭和17年)、伝道教会になってちょうど30年の年に日本基督教団が創立されますと、私共の教会は日本基督教会富山伝道教会から、日本基督教団富山総曲輪教会と改称いたしました。日本基督教会時代、私共の教会は残念ながら独立教会になることは出来ず、伝道教会のままでした。伝道教会というのは、経済的に自立出来ず、中会の援助を受けながら伝道する教会です。伝道者も中会から派遣されていました。この30年間の伝道教会時代に遣わされた伝道者は、亀谷凌雲牧師、浜甚二郎牧師、馬淵康彦牧師、田口政敏牧師の4人でした。この伝道教会時代の30年を第Ⅱ期と見ることが出来るでしょう。
そして、1945年(昭和20年)8月2日未明の富山大空襲によって会堂は焼失。教会のすべての書類も焼失いたしました。それからの7年間は新庄教会や二番町教会と合同の礼拝を守り、総曲輪教会としての伝道は中断されることになります。
4.伝道第Ⅲ期
そして第Ⅲ期。1951年(昭和26年)、総曲輪の地に二番町教会のコンセットハット、これは蒲鉾型の兵舎ですが、これが移設され日本基督教団富山総曲輪教会としての再出発が為されました。これも日本基督教団からいただいたものでした。この時、教会総会で二番町教会とは合併しないことが可決されました。合併に賛成した者3名、合併しないとした者4名という、たった7名による総会でした。この時の議長は新庄教会の亀谷牧師がしてくださいました。合併はしない、富山総曲輪教会として歩むと決めても、伝道者がおりません。この時、石動教会の小林喜成牧師が兼務してくださって、午後の礼拝を守りました。まだ車での移動など出来なかった時代でしたので、小林牧師は石動教会の礼拝を終えるとすぐに列車に乗って富山に来て、午後の礼拝を守るということを約1年間してくださいました。
そして1954年(昭和29年)、専任の牧師として鷲山林蔵牧師が赴任されました。鷲山牧師は4年半、富山総曲輪教会の牧師として、ほとんど開拓伝道と言って良い歩みをしてくださいました。教会員は23名から46名になりました。鷲山牧師は日本橋教会へ転任され、その後、横浜指路教会へ行かれました。鷲山牧師は長老教会としての基礎を築かれました。この間、教区から毎年教会予算の一割にあたる額の援助を受け続けました。
その後に赴任されたのが山倉芳治牧師です。1958年(昭和33年)のことです。山倉牧師は1967年(昭和42年)に和歌山教会に転任するまで、9年間この地で伝道されました。この間に、現住陪餐会員は100名に、礼拝出席は50名になり、1960年(昭和35年)には新しい会堂を建てました。そして、教区からの援助も受けなくなりました。また、1965年(昭和40年)に金沢教会の星川長老(小中姉のお父さん)を迎えて、長老按手が行われました。この時、按手を受けた長老が、石田俊一、大野嘉四郎、石川実、釜土敏雄、林渓子、中山幸子の6名でした。ただ、この会堂を建てた時の建築会計内容は、総額320万円の内、土地売却185万円、教団援助100万円で、教会員の献金は35万円に過ぎませんでした。この土地売却というのは、講義所から伝道教会になる時に米国長老教会から与えられた100坪の土地の内、32坪を売却するというものでした。
山倉牧師の後を引き継いだのが大久保照牧師でした。大久保牧師は1967年(昭和42年)に着任され、1984年(昭和59年)に牛込払方町教会に転任するまで17年間、この地で伝道されました。この間、礼拝出席は54名から70名にまで増えました。大久保牧師は教会員の教育に力を入れ、長老教会としての内実を整えられました。そして、東部連合長老会北陸支部を発足されました。月報『こだま』もこの時から発行されています。そしてこの時、宣教100周年記念事業が計画され、百年史が発行され、会堂建築も計画されました。この会堂はその時に計画されたものです。実際に着工したのは次の藤掛順一牧師が着任されてからですが、この土地の選定等々、藤掛牧師が赴任された時には大凡決まっておりました。
そして、1984年(昭和59年)藤掛順一牧師が着任されました。藤掛牧師は2003年(平成15年)9月に横浜指路教会に転任するまで19年間、この地で伝道されました。そして、2004年(平成16年)に私が戦後5人目の牧師として着任いたしました。藤掛牧師と私はまだ現役ですので、その時代を総括するのはもう少し後のことになるでしょう。この第Ⅲ期は現在まで約70年と一番長くなっています。富山大空襲ですべてを失ったところからの再出発でしたが、まことに主の憐れみの中で歩んで来ることが出来ました。
5.決して忘れてはならない四つのこと
私は、この伝道開始記念礼拝の度毎に、決して忘れてはならないことが幾つかあると思わされるのです。
第一に、毎週の礼拝を守るために御言葉を語る伝道者が遣わされ続けたということです。第Ⅰ期講義所時代の30年間に5人、第Ⅱ期伝道教会時代の30年に4人、第Ⅲ期日本基督教団時代の70年に5人、伝道者が遣わされ続けてきました。この137年は、中断した7年間も含めて、毎週神の言葉が語られ続け、伝えられ続けた137年だったということです。ここに神様の御心は最も深く確かに現れています。その御心とは、この富山の地に住む人々を、何としても救わんとする堅い意思、憐れみの心です。神の言葉がなければ、救われる者は起こされません。そして、キリストの教会は建っていくことは出来ませんし、キリスト者はキリスト者であり続けることは出来ません。
第二に、その神の言葉は、「昨日も今日も永遠に変わることなく、イエス・キリストを指し示し続けてきた」ということです。時代は変わります。137年前と現代とでは、どこか同じ所があるだろうかというほどに変わりました。またその間、目に見える迫害を受けた時代もありました。空襲ですべてを失った時もありました。経済的に苦しい時代もありました。会堂も三つ目です。牧師も14人替わりました。しかし、この教会は、変わることなきイエス・キリストの救いの恵みを指し示し続けてきた。人も時代も変わる。しかし、主イエス・キリストは変わることなき救い主として、この教会と共に歩んでくださったし、今もそしてこれからも歩み続けてくださいます。
第三に、私共の教会は長老教会としての伝統の中を歩んできたということです。それはトマス・ウィンの伝道開始から始まり、137年間変わることはなかったのです。第Ⅰ期・第Ⅱ期は旧日本基督教会という長老派の教会でしたので、それは意識することなく長老派の教会だったのですが、第Ⅲ期の牧師たち、特に鷲山牧師、山倉牧師、大久保牧師はそのことのために大変労苦されました。そして、北陸連合長老会を形成するということに至ったわけです。実際に北陸連合長老会が結成されたのは、藤掛牧師の時でした。時代は変わる。牧師も替わる。しかし、語られる福音の筋道は少しも変わることがなかった。私もまた、長老教会の牧師という自覚の下でこの教会において14年間歩んでまいりました。
第四に、私共の教会は自分たちの力だけで歩んできたのではないということです。第Ⅰ期・第Ⅱ期の60年間は日本基督教会の浪華中会の援助の下で歩んできました。そして、第Ⅲ期も鷲山牧師の時代は教区の援助の下に立ってきたのです。経済的に自立したのは山倉牧師の時代からです。実に137年の内、自立したのはここ60年ほどのことに過ぎないということです。それは、特に会堂建築にはっきり現れております。現在のこの四つ目の会堂を建築する時になってやっと、ほぼ自力で建てることが出来ました。しかし、最初の三つの会堂は、ほとんどが援助によって建てられ、与えられたものです。私はこのことを、決して忘れてはならないことだと思っています。イスラエルの民がエジプトの地に於いて奴隷であったことを忘れることなく、寄留者(これは今の難民です)や寡婦(夫を失った婦人)や孤児に対して圧迫したり虐待したりしてはならないと神様に命じられたように、米国長老教会の献金によって土地を与えられたこと、浪華中会や教団の援助を受けて伝道し続けられたことを私共は決して忘れない。忘れてはならないのです。だから今、そのような援助を必要としている教会のために、私共は為せるだけ精一杯のものを献げていくのです。そして、出来るならば、新しい教会を一つでも生み出していく。その志を失ってはならない。そう思うのです。
6.復活のイエス様による大号令によって
何故、トマス・ウィンは137年前にこの富山の地に伝道に来たのでしょうか。理由は一つしかないと私は思っています。復活されたイエス様は、マタイによる福音書28章19~20節で「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。彼は、この復活のイエス様の言葉を、自分に告げられた言葉として聞いた。だから故郷を離れ、母国を離れ、日本に来て伝道したのでしょう。そして79歳の時、説教すべく金沢教会の一番前のいつもの席に座っていた彼は、説教前の祈りの間に天に召されました。もし私共が今、自分の教会の伝道、自分の国の伝道しか考えられないとすれば、伝道を開始したトマス・ウィンの伝道の志と何と違っていることだろうかと思うのです。それはこの復活されたイエス様の言葉をちゃんと聞いていないということなのではないでしょうか。私共はこのイエス様の言葉をきちんと聞き取り、この言葉に生きた伝道者たちと信徒たちのことを思い起こして、伝道の志を新たにされたい。そう心から願うのです。
[2018年8月5日]