1.聖霊と悪霊
今朝与えられております御言葉には、聖霊と悪霊という言葉が出てきます。聖霊は、父・子・聖霊の三位一体の神様です。天と地を造られた唯独りの神である父なる神様の霊です。一方、悪霊は、神様に敵対する霊、私共を神様から引き離そうとする霊です。今日の所には、悪霊の頭ベルゼブルという言い方も出てきますので、悪霊はたくさんいると考えて良いでしょう。私共がこのように礼拝を捧げているのは、聖霊なる神様の導き、御支配の下にあってのことです。聖霊は、私共に信仰を与え、イエス様を愛し、信頼し、従っていく歩みへと導いてくださいます。私共が祈ったり、愛の業に励んだり、神様の御心に適う歩みのすべては、聖霊なる神様の御業です。一方、悪霊は、私共の中にある罪に働きかけて、神様なんて関係ない、自分の思いや欲のままに歩めと私共に仕向けます。しかも、多くの場合、悪霊はまことに賢いので、私共にそれと気付かせません。ですから私共は、知らず知らずのうちに悪霊の手に落ちてしまい、落ちたことにも気付かないということになります。
例えば、私共は目に見える何かを手に入れることが幸いだと思い込んでいるところがあるかと思います。それはお金であったり、恋人であったり、社会的地位であったり、学歴であったり、何でも良いのですけれど、それを手に入れれば幸いになると思うから、それを何とかして手に入れようと必死になっている。そういう所がないでしょうか。また、自分のことはいいとしても、せめて自分の子どもにはそういうものを与えたいと、ほとんどの親は思っているのではないでしょうか。みんながそう思い、社会がそのようなことを常識、当たり前のこととしているため、多くの人はそれに疑問を感じません。しかし、そのような状況こそが、私共がそして社会全体が知らず知らずのうちに悪霊の手に落ちてしまっている、その証拠なのです。
聖霊は、ただ神様を愛し、信頼し、従っていく歩みの中にこそ私共の本当の幸いがあることを教えます。しかし悪霊は、そんなところに幸いはない、目に見えるあれこれを手に入れろ、そうすれば幸いになるとそそのかすのです。悪霊は、個人個人に働きかけるだけではありません。この社会全体を神様から引き離します。そして、常識という名の、神様に敵対する考え方を私共に植え付けていきます。そこに悪霊の働きがあることに、私共はほとんど気付きません。悪霊は個人にだけ働くのではありません。国に、組織に、団体に、文化に、時代思想にも働きかけています。
2.聖霊のお働きの中に生きる
また、私共が聖霊の導きの中で歩み始めた途端に、つまり神様に従って歩もうとした途端に、実に様々な妨害が立ちはだかります。一番分かりやすいのは、私共が主の日の礼拝を守って歩もうとする時、そう出来ないようにする力が働く。それぞれ置かれている場によって理由は違うでしょうけれど、主の日の礼拝に集うことが困難になる状況が生まれる。それに対して私共はどう対応すれば良いのでしょうか。結論を申し上げれば、それは祈ることです。「主の日の礼拝に集うことが出来るようにしてください。」と神様に祈ることです。聖霊なる神様のお働きによって道が開かれるように祈り求めることです。私共はこの様な場合、しばしば祈ることを忘れます。何とか自分で対応しようとします。何とか対応して主の日の礼拝を守ろうとすることは良いのですけれど、これが上手く行かないと、「仕方がない。」ということになる。実は、これもまた、悪霊の策略にはまってしまうことになります。この悪霊の策略の手から逃れるためには、何よりも聖霊なる神様に働いていただくことです。聖霊なる神様は、天地を造られた唯独りの神様でありますから、絶大な力を持ち、この方の前では悪霊など全く無力です。悪霊は、私共に対しては力もあり、知恵もあり、私共はこれに対抗することはほとんど出来ません。しかし、神様は違います。聖霊なる神様は、私共に力と勇気と希望と愛と信仰を与え、私共の罪に働きかけてくるどんな悪霊の試みをも退けてくださいます。私共は、この聖霊なる神様に守られて、御国に向かっての歩みを為していくのです。ですから、祈って聖霊なる神様の守りと導きを願い続けること。これこそが、私共が悪霊の手から逃れる最も確かな手立てなのです。
神様は私共の見通しの外におられます。私共の見通しなどというものは、神様の前では全く意味がありません。私共の明日は神様の御手の中にあるのであって、私共の見通しのとおりになることなどないのです。皆さんは10年前に、現在の自分の姿を見通せたでしょうか。10歳、年をとるのだから、それなりに体の変化があることは予想出来たでしょうけれど、それ以外、例えば自分が置かれている状況など、誰も予測することなど出来なかったでしょう。しかし、今朝も私共はこうして主の日の礼拝に集っている。これは当たり前のことではありません。これは、実に私共が聖霊なる神様の守りの御手の中に生かされている確かなしるしです。
3.悪霊の働きか、聖霊の働きか
さて、今朝与えられた御言葉は、悪霊に取りつかれて、目が見えず、口の利けない人をイエス様がいやされた。悪霊を追い出して、目が見えるように、口が利けるようにされたという出来事から始まっています。これは、神の御子であるイエス様の業ですから、医学的にどのようなことが起きたのかと詮索することは意味がありません。ただ、悪霊というものが、神様に造られた人間の本来の姿を失わせるものであり、イエス様はその悪霊を追い出して本来の人間の姿、自由に見、自由に話すことが出来る、そういう者にしてくださったということです。悪霊の働きの中で、私共はものが見えなくなり、自由に話すことが出来なくなるのです。もちろん、人を傷付けるようなことを言わないということと、自由に話せないということは全く別のことです。自由に見、自由に語ることが出来る、言論の自由というものがあるかどうか。それは、その社会なり集団なりが悪霊の支配の中にあるかどうかの、一つの基準になると言っても良いだろうと思います。
このイエス様の御業に対して、二つの反応があったと聖書は記しています。一つは23節、群衆が「この人はダビデの子ではないだろうか。」と言ったこと。もう一つは24節、ファリサイ派の人々が「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と言ったことです。群衆はイエス様を「ダビデの子」と言い、ファリサイ派の人々はイエス様を「悪霊の頭ベルゼブル」と言うのです。正反対のことですね。ちなみに、ベルゼブルというのは、幾つかの説がありますけれど、元々は「バアル・ゼブブ」という異教の神々のことで、これを「蝿の主」という意味のベルゼブルと呼んだと言われています。「ベルゼブル」と早口で10回言いますと、蝿が飛んでいる音に聞こえてきます。ベルゼブルは悪霊の頭というのですから、たくさんの悪霊の子分を従えているというイメージでしょうか。一方、ダビデの子というのは、救い主、メシアの別の言い方です。イエス様の一つの奇跡に対して、正反対の反応が起きた。奇跡が起きれば人は信じるようになる。そう簡単にはいかないのです。イエス様を神の子・救い主として信じるということは、そんな単純なことではないのです。
この場合、群衆が正しく、ファリサイ派の人々は間違っている、そういうことになるのですけれど、ここでファリサイ派の人々が言っていることも一理あると私は思います。日本にも多くの宗教がありますけれど、ほとんどの宗教が奇跡というものを売りにしています。その多くはトリックだと思いますけれど、私共はそれに対して本当に弱いのです。手品師にミスター・マリックという人がいます。「超魔術」と言って大変な人気だったのですが、彼の元には「教祖になってください。」という依頼が来たと言っていました。ばかばかしい話ですけれど、私共は目の前で不思議なことをされれば、超能力だ、神の力だ、とすぐ信じてしまう。しかし悪霊は、そのような私共の心の動きをも利用します。ですから、ファリサイ派の人々が言うことにも一理あるのです。
私共は、この奇跡だけで、イエス様を神の子、救い主であると信じるのではありません。そうではなくて、イエス様が語られたこと、為された数々の奇跡、そして何よりも、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださって、私共の罪の裁きを御自身でお受けになり、私共を一切の罪から、そして悪霊の支配から解き放ってくださった、その全体、イエス様の言葉と業と存在のすべてによって「イエス様は神の子、救い主です。」と信じているのです。私共が、天地を造られた神様に向かって、「父よ」と呼ぶことが出来るようになった。神の子・神の僕として、新しい命に生きる者となった。その一連の神様の救いに与った「しるし」の故に、私共はイエス様を我が主・我が神、救い主、キリストと信じ、告白しているのです。
4.聖霊が与えてくださる信仰によって救われる
イエス様は28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と告げられました。神の国、それは神の支配という意味です。イエス様は御自身が来られたことによって、悪霊の支配ではなくて、神様の御支配の時が来た。もう、あなたがたは悪霊の支配の下から解放されるのだ。そう宣言してくださった。私共は、このように宣言されるイエス様を信じ、受け入れました。ですから、既に神の国に生き始めています。悪霊が誘ってくる様々な誘惑に対して戦い、イエス様、神様だけを信頼し、この方の御手の中に生きる者とされています。ありがたいことです。
しかし、ファリサイ派の人々はこれを受け入れることが出来なかった。何故なら、自分たちが築き上げた正しいユダヤ教、正しい聖書解釈、正しい救いの筋道、それがイエス様を救い主と認めるならばすべて崩れてしまうからです。だから、12章14節において、ファリサイ派の人々は「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」のです。自分たちが殺そうと相談している者を、救い主と認めることなど決して出来ない。それが、この時のファリサイ派の人々の立場であり考えでした。
それでは、彼らには救いの道は残されていないのでしょうか。31~32節「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」ここで、イエス様ははっきりと、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」と言ってくださっています。どんな罪を犯しても赦されるのです。更に、「人の子(イエス様のことです)に言い逆らう者は赦される」と言ってくださっています。ファリサイ派の人々は、ここで明らかにイエス様に言い逆らっています。しかし、赦される。つまり、救われる。ファリサイ派の人々も赦されるのです。救われるのです。そうでなかったのなら、どうして私共が救われるでしょう。私共は、ファリサイ派の人々なんて問題にならないほどに、イエス様なんて知らない、神様なんて関係ない、自分の人生は自分のもの、神様に従うなんて考えたこともない、そういう者でした。それは、キリスト者の家に生まれようと、そうでなかろうと、同じことでした。しかし、今は一切の罪を赦され、救われた。何故か。ただイエス様を我が主・我が神と信じ受け入れたからです。
そして、そのことこそ、聖霊の御業でした。ここでイエス様は「”霊”に対する冒涜は赦されない」「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と告げておられます。聖霊は私共に、イエス様を我が主・我が神、救い主と信じる信仰を与えてくださいます。この聖霊の御業を拒否すれば、信仰は与えられず、私共は救いへの道を自ら閉ざすことになってしまうのです。ファリサイ派の人々にも救いの道は開かれています。しかし、イエス様を「悪霊の頭ベルゼブル」と言っている限り、その救いの道を自ら閉ざしてしまうのです。残念なことですが、イエス様を「悪霊の頭」と言っているファリサイ派の人々こそ、実は悪霊の策略に引っかかり、神様の御心から離れ、自らの救いの道を閉ざしてしまっていたのです。
5.神様の御前に生きる
悪霊は、私共の内にある罪に働きかけます。その罪とは、神様よりも自分のほうが正しいと思うことです。神様ではなく自分が一番。自分の立場、自分の利益、自分の自尊心を傷付ける者は、相手が誰であっても、たとえ神様でも、容赦はしない。まさに、自分が神になってしまっている。もちろん、そんな意識はありません。自分ほど神様に忠実な者はいないと思っていたのがファリサイ派の人々です。
私共はイエス様の救いに与り、神の国、神の支配の中に生き始めました。それは、完全に正しい方、全く聖なる方の前に生きるようになったということです。しかも、赦された者として生きるようになったということです。ということは、最早、私共は自分が完全に正しいなどとは考えない、自分が聖なる者などとは思いもしない、そういう者にされたということです。
そして、それは神様の御前においてだけではなくて、私共と隣り人との交わりにおいても現れてまいります。私共は、自分が絶対に正しいなどとは考えない者になったのです。絶対に正しいのは神様だけです。私共は欠けがあり、過ちを犯すのです。自分が気付かないところで、神様の御心に適わないことを思ったり、言ったり、行ったりしている。隣り人に対してもです。だから、私共は罪の赦しをいつも祈るのです。そして、その祈りにおいて、聖霊なる神様は働いてくださり、私共を導いてくださいます。自分を一番とする罪から解き放ち、神の子・神の僕として生きる道へと導いてくださるのです。
悪霊は、いつでも私共に働きかけてきます。この誘惑から全く自由になった人などおりません。こう言っても良い。聖霊が働かれるところは、悪霊もまた働くところでもあるのです。私共は、この悪霊の誘惑と戦っていかなければなりません。しかし、この戦いは孤独な戦いではありません。イエス様が共にいてくださり、私共と共に、私共に代わって、戦ってくださるからです。聖霊なる神様が私共の思いや願いを超えて働いてくださり、救いの完成へと導き続けくださいます。私共はこのことを信じて良いのです。私共は、既に神の国に生き始めているのです。
そしてまた、私共の戦いは兄弟姉妹との共闘でもあります。私のために祈ってくれる信仰の友がおり、私共もまた祈るべき友を持っている。それは本当に幸いなことです。私共が自分以外の人のために祈る、執り成しの祈りを祈り続ける限り、聖霊なる神様は私共の信仰を守ってくださいます。この聖霊なる神様の守りの中で、健やかに、この一週も神の国へ向かって確かな歩みを為してまいりたいと思います。
[2018年8月19日]