日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「イエス様の兄弟姉妹」
詩編 133編1~3節
マタイによる福音書 12章46~50節

小堀 康彦牧師

1.大切な家族
 日本人に「大切なものは何ですか。」と聞いたアンケートをインターネットで検索しますと、様々なアンケート結果を目にすることが出来ます。しかし、どのアンケート結果においても、第一位は断然トップで「家族」でした。第二位と第三位はずっと下がってほとんど同じ、「自分の命・自分の健康」それと「愛情」となっておりました。ここ何年間かのアンケート結果を調べてみましたが、結果はほぼ同じでした。これをそのまま受け取りますと、平均的日本人の意識としては、自分の命や健康よりも家族が大切ということになるのでしょう。家族のためならば、自分は苦労してもかまわないというのが当然だという意識なのかもしれません。確かに、家族は大切です。皆さんもそうでしょうし、私もそうです。しかし、そうであるが故に、家族関係がうまくいきませんと、大変つらいことになりますし、大変なストレスを抱えることになります。では、家族とは一体何なのか。今朝与えられております御言葉は、そのことを私共に教えてくれています。
 普通、私共が家族と言いますと、親子とか兄弟とか、血の繋がりを考えるだろうと思います。これは、いわば自然に与えられた家族です。しかし、この血の繋がりということを家族の大原則のように考えてしまいますと、結婚や夫婦というものがよく分からなくなってしまいます。現代では、結婚は本人同士の関係であって、家に嫁ぐという感覚は薄れているかと思いますけれど、家に嫁ぐということになりますと、お嫁さんだけが外から来た人、その家で血の繋がりの無い人ということになります。このあたりに嫁と姑の関係の難しさがあるのではないかと思います。これは本当に難しい問題でして、同居していなければ大したことはないかもしれませんが、同居となると何の問題も無いというわけにはいかない。今までうまくやっていたのに嫁が来てからどうもギクシャクする、そんな風に思うことがあるかもしれません。しかし、本当にそうなのか。そもそも家族というものは、単純にみんな仲良くやっていけるものなのでしょうか。仲良くうまくやっていくのが当たり前なのでしょうか。

2.聖書の家族観
 聖書は、家族というものをそんな風には見ていないのではないかと思います。聖書のリアリズムと申しますか、聖書は、血の繋がった家族は仲良くするものだ、仲良く出来るものだとは見ていないのです。もっとはっきり言えば、家族の関係の中にも罪がある。罪と全く無縁な麗しい家族なんてものは無い。聖書はそこまではっきり見ているのではないかと思います。
 幾つも例を挙げることが出来ます。すぐに思い起こすのは、アダムとイブ、そしてその二人の息子カインとアベルです。人類最初の家族、両親と二人の息子。ここで何が起きたかと言えば、兄カインが弟アベルを殺すという、とんでもない出来事です。また、アブラハムの子イサクには、双子の息子たちが与えられます。エサウとヤコブです。この二人の関係も、イサクの財産と祝福をめぐって対立してしまう。ヤコブがエサウをだましたのだから、ヤコブが悪いとも言えるかもしれませんが、兄エサウはヤコブを殺すと言い出し、ヤコブは嫁探しという名目で家を出るわけです。何十年も経ってから和解しますけれど、単純に二人は仲が良かったなんて言えません。そして、そのヤコブの12人の息子にしても、年寄り子のヨセフのことを父ヤコブがえこひいきしてあまりに可愛がるものですから、10人の兄たちがヨセフをエジプトに売ってしまうという、とんでもないことが起きる。もちろん、これも後にヨセフがエジプトの宰相になって、飢饉で飢え死にしそうになったヤコブとその家族、ヨセフの兄弟たちを助けて、彼らはエジプトに住むということになるのですけれど、しかし兄弟は皆仲が良かったなんてとても言えません。旧約聖書における最も偉大な王であるダビデの家族なんて、もっと大変です。ダビデは息子アブサロムによってエルサレムを追われます。また、ダビデの子ソロモンとアドニアはダビデの跡目争いをします。家族の中で戦っている。とても麗しい家族なんて言えない。
 では、聖書は、家族なんてどうでもいい、と言っているかというと、そんなことはありません。十戒の第五の戒は、「父と母を敬え。」です。これは、家族は神様の御前において形作られていかなければならない、と神様はお考えになっているということではないかと思うのです。私共は、家族はそのままで家族なんであって、それでいいんだ、それで麗しいものなのだ、そう思っているかもしれませんけれど、神様はそうは見ておられない。家族もまた、罪というものと無縁ではあり得ないのであって、それ故神様の御言葉に従って、御前において麗しいものになっていかなければならない。家族は、神様によって本当の家族になっていかなければならない。そう私共に教えているのです。それは、「家族である」という所から、「家族になる」という歩みへと神様は私共を導こうとしておられるということなのでしょう。

3.イエス様の母と兄弟たちが来る
 さて、与えられている御言葉を見てみましょう。46~48節「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』」とあります。イエス様が群衆に話しておられた。多分、イエス様は家の中にいて、イエス様の話を聞きに来た人たちがその家に入りきらないほど集まっていたのだろうと思います。そんな大きな家ではなかったでしょうから、二、三十人が集まれば一杯になってしまったと思います。いつものように、イエス様は人々に教えを語っておられた。するとそこに、イエス様の母であるマリアとイエス様の兄弟(多分弟たちでしょう)が、イエス様に話したいことがあると言ってやって来ました。
 何を話したかったのか、マタイによる福音書は記しません。しかし、マルコによる福音書において同じことを記している所の直前の3章21節には「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。」とあります。多分、イエス様が奇跡を為し、神の国の福音を語っている様子を彼らは伝え聞いたのでしょう。そして、当時の人々から尊敬されていたファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス様のことを「悪霊の頭であるベルゼブルの力によってこんなことをしている。」と言っているのを聞いて、「これは大変なことになった。身内から世間を騒がせるような者を出してしまった。このまま放っておくわけにはいかない、取り押さえて家に連れて帰ろう。それが家族として自分たちがしなければならないことだ。」そう思ったのでしょう。それは、家族として当然果たさなければならない責任だと思っていたのでしょう。それは、イエス様のことを思ってということもあったでしょうし、世間に対して申し訳ないということもあったのではないかと思います。しかしそれは、神様の救いの御業を妨げることだったのです。マリアにしても、イエス様の兄弟たちにしても、悪気は無かった。イエス様のことを思ってのことだった。でも、それは神様の御心に適ったことではなかったのです。

4.O・Sさんの証し
 東京神学大学で旧約の教授をされているO・S先生が、こんな証しを今月号の福音主義教会連合の機関誌に記しています。「38年前、大学を卒業して神学校に進む決意を両親に告げた時、忠実な教会員として教会を支えていた母が猛烈に反対しました。『お前もうちの教会の牧師のような惨めな生活をしなければならないなんて、絶対に許しません。』半狂乱になって献身を阻止しようとする母の言葉がグサリと心に突き刺ささりました。…私は母に反論しませんでした。いや、出来ませんでした。泣きたくなる思いでした。この両親の猛反対を振り切って、私は神学校に進みました。もう二度と家の敷居は跨ぐまいと決意して。それが私の献身でした。まだ20代半ばでした。」
 なかなか強烈な証しです。この証しは『献身の勧め』という文章の中での証しですから、「それでも」と献身を勧めるものです。こう続きます。「今でも、地方の教会の牧師の生活は大変です。しかし、どれほどの困難があっても、たとえ実りはわずかであっても、命懸けで小さな教会の群れを養い、いつも喜び、生き生きとして福音を伝える伝道者が必要なのです。今もそうです。これからもそうです。…母の猛烈な反対にひるまず、『そうだよ、お母さん。そういう牧師になるんだ。』と、私と同じ決意をもって献身する人が出ることを心から願います。」
 O・S先生のお母さんは、確かに息子が献身するときには猛烈に反対しました。しかしその後、彼が伝道者として神学者として歩む姿を喜び、誇りにしていたことでしょう。そのお母さんがこの8月に91歳で天に召されたことも記されていました。
 O・S先生のお母さんの猛烈な反対は息子のためを思ってでした。しかし、それは御心に適うことではなかった。この時のイエス様の母マリアも弟たちもそうだったのでしょう。家族は大切です。しかし、「家族を守るため」ということが、最も大切なこと、私共が生きる上での大原則となってしまうのなら、それは違うと聖書は教えています。もっと大切なことがあるということです。

5.イエス様の言葉を聞く時の自分の位置
 イエス様は、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と言われました。求道者の方とこの箇所を読みますと、例外なく「イエス様は冷たい。お母さんのマリアが可哀想だ。」という感想を言われます。皆さんはどうでしょうか。この聖書の箇所、このイエス様の言葉は、私共がどこに立って聖書の言葉、イエス様の言葉を聞くかによって、全く違った言葉に聞こえる、そういう典型的な所だと思います。
 どうして「イエス様は冷たい。マリアさんが可哀想。」と思うのか。それは、自分の立ち位置を母マリアと同じ所に置いているからでしょう。自分が息子にこんなことを言われたら、たまらない。悲しくて仕方が無いだろう。そのように思うのでしょう。確かに、マリアの立場に立てば、そういうことになるのでしょう。しかし、私共の立ち位置はマリアと同じ所で良いのでしょうか。
 マリアはこの時、イエス様が話をしていた所の「外に立っていた」と聖書は記します。つまり、イエス様の言葉を神の言葉として聞く立場に身を置いてはいなかった。この時、マリアはイエス様を「我が子」として見ています。勿論、これは間違いではありません。確かに、イエス様はマリアが腹を痛めた子なのです。しかし、それはイエス様を自然な家族の一員として見ているということでもあります。しかし、イエス様はこの「自然な家族」というものに対して、「否」を告げている。自然なままではダメなのだ。新しくならなければ、神様によって新しくならなければ、神様の御心に適ったものにはならない。そう告げておられるのです。
 イエス様はこう告げます。49節「そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。』」私共の立つ所、私共がイエス様の言葉を聞く所は、この弟子たちの中です。この弟子たちの中に身を置いて、このイエス様の言葉を聞く。そうすると、イエス様の言葉は少しも冷たくない。それどころか、この私を母と言ってくれた。この私を兄弟と言ってくれた。何とありがたいことか。そう思うのではないでしょうか。
 私共は、イエス様というお方を「外に立って」見ていては分からないのです。、イエス様の言葉を「外に立って」聞いていたのでは分からないのです。イエス様が語りかける者の中に身を置かなければ、イエス様の言葉を自分に語りかける言葉として聞かなければ、分からないのです。今朝、イエス様は私共に向かって「わたしの母」「わたしの兄弟」「わたしの姉妹」そう告げてくださっているのです。なんとありがたいことでしょうか。

6.天の御心を行う者
 更に、イエス様は50節で、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と告げておられます。「天の父の御心を行う人」とは、どういう人なのでしょうか。愛の業に励む者、奉仕する者、伝道する者、色々思いつくでしょう。しかし、ヨハネによる福音書6章28~29節で、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」とイエス様は問われて、こうお答えになりました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」「神がお遣わしになった者」とはイエス様のことでしょう。とすれば、「神の業」とは、「イエス様を信じること」であり、「天の父の御心を行う人」とは、実に「イエス様を信じる人」のことということになるでしょう。この時、イエス様の話を聞いていた人たち、イエス様を神の子と信じてその言葉に耳を傾けていた者たち、それが天の父の御心を行う人なのであり、イエス様の兄弟、姉妹、また母であるということなのです。

7.新しい家族
 私共は、イエス様の母、姉妹、兄弟とされています。イエス様はそのような者として私共を見てくださっている。ここで私共は、自然な家族というものが新しくされていく道を知らされます。それは、イエス様の兄弟姉妹となることによって形作られる、新しい家族です。血による家族ではなくて、霊によって結ばれる家族です。互いにイエス様の兄弟姉妹となることによって形作られる新しい関係、新しい家族です。
 そこで第一とされるのは、家族の情ではありません。家族の情など要らないというのではありません。それは神様に与えられた良きものです。しかし、それがすべてではありませんし、それが第一のものとされてはならないのです。そうではなくて、イエス様を愛し、イエス様を信じ、イエス様にお仕えすること。それが第一とされる家族です。そこに新しい愛の交わりの基礎が与えられ、新しい家族が生まれる。この家族は、「家族である」という所に立つのではなくて、信仰によって「家族になっていく」「まことの家族になっていく」というものです。私共はそのような歩みへと導かれているのです。
 もちろん、皆がキリスト者になれば何の問題も起きないということではありません。しかし、家族が互いに祈り合うことが出来ます。遠くに離れていても、同じ神様に向かって祈り、同じ御言葉に聞き、同じ御国に向かっての歩みを為していくことが出来る。それは小さなことではありません。私共は、このような祝福がどれほど大きいか、よく分かっていないところがあるのではないかと思います。それは、神の国の先取りです。神の国において完成される神の家族の先取りなのであって、そこに既に神の国が来ているということなのです。それは、何と祝福された家族でありましょう。
 しかし、私共の多くは、まだ家族全員がキリスト者になっていないという現実があります。それはダメな家族なのか。そんなことはありません。神様が与えてくださった家族です。大切な大切な家族です。しかし、その家族はもっと素晴らしい家族になっていけるということです。もっと互いに愛し合い、支え合い、仕え合う家族になっていけるということです。そして、そのような交わりを学ぶ場として、神の家族としての教会が私共には与えられているということです。ここに身を置くことによって、私共は本当の家族の姿を与えられていくということです。この交わりの中に身を置くことが大切です。外に立っていては分からないのです。

8.マリアとイエス様の兄弟たちのその後
 ところで、マリアとイエス様の兄弟たちは、ずっと外に立ったままだったのでしょうか。そうではありません。私共は、マリアを「マリア様」と言って崇めることはしませんけれど、マリアが初代教会以来、イエス様の母として大切にされてきたことは確かなことです。ヨハネによる福音書19章には、十字架に架けられた時、イエス様がマリアに「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と言い、愛する弟子に「見なさい。あなたの母です。」と言って、マリアはこの弟子に引き取られたと記されています。また、新約聖書のヤコブの手紙は、イエス様の弟であるヤコブが記したと言われています。主の兄弟ヤコブは、エルサレム教会おいてとても大切な働きをしました。マリアもイエス様の弟もイエス様を信じる者として、外に立っている者ではなくて、霊においてもイエス様の母、兄弟となりました。私共も諦めてはいけません。神様は私共の祈りに必ず応えてくださって、血による家族を霊による家族へと導き、新しく造り変えてくださいます。

[2018年10月14日]