1.「種を蒔く人」のたとえ
今朝与えられております御言葉は、「種を蒔く人」のたとえです。とても有名なたとえですし、教会学校の子どもたちでも一度聞けばすぐに覚えてしまう、単純でそしてとても印象深い話です。
ある人が種を蒔いた。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ある種は、石だらけで土の少ない所に落ち、芽は出したけれど根がないので枯れてしまった。ある種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ほかの種は、良い土地に落ち、百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ。たったこれだけの話です。この話を、何も知らない人が聞けば、「普通の種蒔きの話だろう。だから一体どうしたと言うんだ。」そう聞き返してしまいそうな話です。
ちなみに、この種蒔きの情景は、ミレーの「種蒔く人」という有名な絵がありますが、それを思い出していただくと良いと思います。種の入った籠を脇に抱えて、種を一握りつかんで、それを蒔いていくのです。私共の種蒔きのイメージとは随分違います。私共がイメージする種蒔きは、畑を耕して畝を造り、そこに穴を開けて、その穴に種を入れていくというものでしょう。とても丁寧です。それに比べると、何とも大雑把と言いますか、いい加減と言いますか、そんな印象を受けるかもしれません。
しかし、これがイエス様の時代の種の蒔き方でした。文字通り蒔いていくわけですから、中には風に乗って、畑の外に出て行ってしまう種もあったことでしょう。道端、石だらけの所、茨の地と、畑の外の三つの土地をイエス様は挙げました。これも、ユダヤにおいて畑の周りに普通に見られるものでした。ですから、このイエス様の話を聞いた人々は、単に種を蒔く情景を語っているだけだと思い、これが何を意味するのかさっぱり分からなかったと思います。イエス様はどうしてこんな話し方をされたのか。この点については、次の主の日に考えてみたいと思っています。
2.種は御言葉
幸いなことに、18節以下の所で、イエス様御自身がこのたとえ話の説明をしてくださっています。これが無かったら、何をたとえているのか、私共もよく分からなかったと思います。大切なのは、この種が「御国の言葉」「御言葉」であるということです。ということは、このたとえ話は神の国のこと、イエス様の救いの言葉を聞く、或いは伝えられる、そこにおいて何が起きるのかが告げられているということになります。
ちなみに、マタイによる福音書の小見出しを見ていきますと、この「種を蒔く人」のたとえの後、「毒麦」のたとえ、「からし種」と「パン種」のたとえ、「天の国」のたとえ、天の国のことを学んだ学者、とたとえ話がずっと続いています。マタイによる福音書は、山上の説教のように、同じようなことを話されたイエス様の言葉をひとまとめにして記すという仕方で編集されています。この13章は、イエス様が「天の国」をたとえで語られた話をまとめている所です。この「種を蒔く人」のたとえには、これが天の国のたとえであるとは書かれておりませんけれど、マタイによる福音書の編集の特徴を考えるならば、そのように理解して良いだろうと思います。ちなみに、「天の国」というのはマタイによる福音書の言い方で、ルカによる福音書では「神の国」と言っています。これは全く同じことを指している言葉です。天の国・神の国は、神様の御心が完全に行われる世界のこと、完全に神様の御支配の下にある世界です。つまり、このたとえは、天の国・神の国・神様の御支配は、御言葉が語られ伝えられることによって、その御言葉が大きな実りをつけることによって、成っていくのだと言っているわけです。
3.「種蒔く人のたとえ」か、「種蒔きのたとえ」か
今回このたとえ話の説教の備えをしておりまして、新しく気付かされたことがあります。それは、このたとえが「種を蒔く人」のたとえであったということです。18節に、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。」とあります。小見出しも「種を蒔く人のたとえ」となっています。しかし、私はこの記事を「種蒔き」のたとえだと思っておりました。あれ?おや??と思ったのです。私の覚え違いかと思いました。それで口語訳を引いてみますと、口語訳では「種蒔き」のたとえとなっておりました。覚え間違いではなかったのです。幾つかの英語の訳を見てみますと、どれも「種蒔く人」になっていました。ギリシャ語の原文ではどっちとも訳せる言葉です。ですから、どちらでもいいのですけれど、私は改めて、このたとえ話の中心は、種がどんな土地に落ちてどうなったのかという所にだけあるのではない。そうではなくて、そのような色々な土地に種を蒔く、この種を蒔く人そのものにも注目しなければいけないのだということを思わされたわけです。ということで、このたとえ話の二つのポイント、種蒔く人、そして色々な土地に蒔かれた種について考えていきます。
4.「種蒔く人」を巡って
第一に、種蒔く人についてですが、イエス様がこのたとえを語られた時、道端、石地、茨の地の順に語っていくわけです。どれも実がならない。これを聞いた人は、「ああ、種がもったいない。」そんな思いで聞いたのではないかと思うのです。そして四番目にやっと、良い土地に落ちた種が百倍、六十倍、三十倍の実を結んだという所に来る。聞いていた人はほっとしたと言うか、「良かった良かった。」と思ったでしょう。当時の麦の収穫は、十倍になれば良い方であったと言われておりますから、百倍、六十倍、三十倍というのは、あり得ないほどの大収穫であったということです。
ここで種を蒔く人のことを考えますと、「ちょっと雑じゃないか。」「もっと丁寧に蒔きなさいよ。」そんな風に言いたくもなります。しかし、この種が御言葉であるということになりますと、種を蒔く人は神様或いはイエス様ということになりましょう。そうすると、この種を蒔く人に対する印象は全く違ってきます。ここで言われている色々な土地は私共を指しているわけですから、神様・イエス様は良い土地にだけ、つまり素直に受け入れる人にだけ御言葉を与えるのではないのだということになりましょう。実らなくても、どんな人にでも、けちけちしないで、どんどん御言葉を与えていくということではないか。
更に、この種を蒔く人は教会、伝道者とも読めるでしょう。そうすると、「御言葉を聞く人がどういう人であろうと、どんどん御言葉を蒔いていけば、良い土地にも蒔かれて、その時にはとんでもないほどの豊かな実りを与えられるのだ。その約束を信じて、御言葉を伝えていきなさい。神の国は、そのような営み抜きには来ないのだ。」そんな風にイエス様はお語りになったのではないか。そう思えてまいりました。
初めは、雑というか大雑把というか、もっと大切に種を蒔けばいいのにと思っていた私でしたが、御言葉はどんなに蒔いても減らないのです。無駄な所に蒔いたのではないかなどと気にしていてはダメなのだ。どんどん蒔くのだ。だって、私共にはその土地が良い土地なのか、道端なのか、石地なのか、茨の地なのか、全く分からないのだから。とにかく蒔いていくしかない。
そして、良い土地に当たれば、考えられないほどのとんでもなく多くの実りを与えられる。これは約束です。実りを信じて御言葉を蒔いていけば良いのだ、とイエス様はお語りになったのではないかと思うのです。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126編5節)の御言葉を思い起こしました。
5.「蒔かれた地」を巡って
さて、第二に、色々な土地に蒔かれた種ですけれど、道端というのは、御言葉を聞いてもすぐに忘れてしまう、心に残らない、そういう人です。石だらけの地とは、御言葉を聞いて、いいなと思って受け入れるけれど、艱難や迫害が起きると、すぐにつまずいてしまう人です。茨の中とは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑によって、実りに至らない人です。そして、良い土地に蒔かれた種だけが、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶというのです。この四つのうち、自分はどれに当たるかと考えますと、大抵の人は石だらけの地か、茨の地だと思うのではないかと思います。信仰の歩みをしていく中で、迫害に遭っても自分は大丈夫だと言い切れる人などいないでしょう。また、生活のための思い煩いとは無縁だ、生活の心配なんて放っておいて信仰に生きるのだと言える人もほとんどいないでしょう。しかし、今朝もここに集っているのですから、「道端」ではない。そうは言っても「良い地」とまでは言えない。そんな風に考えるのではないかと思います。
しかし、イエス様は、「あなたは道端」「あなたは石地」「あなたは茨の地」「あなたは良い土地」そんな風に私共をランク付けしておられるのだろうか。そんなはずがないと思うのです。もっと言えば、元々「良い土地」の人なんて一人もいないのではないでしょうか。ペトロだって、イエス様が捕らえられた時に三度知らないと言ってしまったではないですか。使徒たちだって、元々生まれつき良い土地であったわけではないのです。とすれば、一体誰が元々うまれつき良い土地だなどと言えるでしょうか。
そもそも、道端と石地と茨の地という実ることがない三つの土地と、百倍、六十倍、三十倍の実りをつける良い土地の違いは何なのでしょうか。それは耕されているかどうか、手入れをされているかどうか、その違いだけです。道端だって、耕されて柔らかになれば、良い土地になります。石地だって、石を取り除かれ耕されれば、良い土地になる。茨の地だってそうです。茨を抜いて、深く掘り起こして耕されれば、良い土地になるのです。イエス様はここで、私共を道端や石地や茨の地のように御言葉が実りそうにない土地かもしれないけれど、でも、やがてあなたは良い土地になるのだ。良い土地になってとても考えられないほどの実りを結ぶ者となるのだ。あなたはそのような者としてわたしが召し出した。そう言われているのだと思うのです。
私共は、自分が道端、石地、茨の地としか言えないような者であることを知っています。信仰においてまことに不徹底です。愛がありません。謙遜でもなく、御言葉に徹底的に従っている日々を送っているなんてとても言えません。しかし、そのような私共だって、ここまで変えられてきたのではないでしょうか。皆さん、自分が最初に御言葉に触れた時のことを思い起こしてください。御言葉を聞いてすぐに受け入れた人、悟った人がいるでしょうか。聖書を読んでも、何を言っているのかさっぱり分からない。礼拝に出ても、ちんぷんかんぷん。ところが、何故かある時、「この言葉は本当のことだ。」そう悟った。もちろん、その後も様々な誘惑に引きずられることもあったでしょう。しかし、今朝私共はここにいる。そして、御言葉を受けている。これが、私共が良い土地になるように召されている確かなしるしなのです。
6.「良い土地」にされる
良い土地とそれ以外の土地の違いは、耕されているかどうかだけだと申しました。それは言い換えますと、砕かれているかどうかだということになりましょう。耕されるということは、硬い土の塊が砕かれ砕かれて、細かな粒状にまでされるということです。神の言葉を受け入れない、これに従おうとしない、それは詰まる所、私共の中にある頑なさなのです。自分の考え方、生き方、経験、楽しみ、誇り、そういったものが神の言葉を受け入れない。神様を第一にすることが出来ないのです。私共に与えられる御言葉、御国の言葉とは、それを砕く言葉です。この御言葉については色々な言い方が出来るでしょうけれど、その中心、その鍵となるのは「イエスは主なり」ということだろうと思います。私共は造られた者、神様が私共を造られた。私共は罪人、イエス様がその一切の裁きを十字架の上で受けてくださった。自分のことばかり考えないで互いに愛し合いなさい等々、様々な御言葉です。主の日の度毎に、ここに集う度毎に私共に告げられるこの様々な御言葉によって、神様は私共の頑なな心を砕いてくださるのです。私共は自分で自分を砕くことは出来ません。鋭い刃を持った神の言葉が私共を砕くのです。それ程までに私共の心は頑なであり、自分で良い土地になることなど出来ないのです。砕かれることはつらいことです。しかし、砕かれるということ抜きに、私共が変えられていくことはありません。この砕かれ、変えられていくこと、それが「悔い改め」ということです。そして、その与えられた御言葉は、やがて百倍、六十倍、三十倍といった驚くべき実りを私共にもたらすのです。
7.百倍、六十倍、三十倍の実り
では、この百倍、六十倍、三十倍の実りとは何を意味するのでしょうか。神の国は神様の御支配ということですから、神様の御支配が現れることが実りということになりましょう。神様の御支配、神の国の到来が、そのことによって明らかになるような実りとは何なのか。ある人は、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」といった徳目のリストを挙げます。確かに、これらも聖霊なる神様のお働きの中で与えられる御言葉の実りであるには違いありません。またある人は、キリストを信じる人が増し加えられることがこの実りだと言います。真実に御言葉を受け入れた者が一人与えられると、その人が用いられ、伝道が進展し、多くのキリスト者が与えらていく。それもあると思います。
しかし、御言葉は、「御国の言葉」と言われているように、神の国の言葉です。神の国の有り様を指す言葉です。とするならば、この実りとは、神の国の恵み、神の国の祝福に与るということではなかろうかと思うのです。それは全き罪の赦しであり、キリストに似た者に変えられることであり、永遠の命に生きる者になるということであります。それはまさに、百倍、六十倍、三十倍といった、普通では考えられないようなほどの祝福に満ちたものでありましょう。そしてこの実りそれこそが、「イエスは主なり」との信仰を与えられた私共に、必ず与えられると約束されている驚くべき実りそのものなのではないでしょうか。私共は、その実りを結ぶ者として召し出されている。何とありがたいことでしょう。私共は、誰もが考えることが出来ないほどの祝福に満ちた救い、完全な救いに与る者として召されているのです。だから大丈夫です。安心して、御言葉に従う者として歩んでまいりましょう。
[2018年11月4日]