1.アドベントを迎えて
今日からアドベントに入りました。昨日は、まだアドベントに入っていなかったのですが、刑務所のクリスマス会、北陸学院大学同窓会富山支部のクリスマス会、富山三教会の中高生クリスマス会、と三つのクリスマス会がありました。朝昼晩とクリスマスの礼拝を守り、祝会が行われたのです。今週は、水曜日にアドベント祈祷会、金曜日にノアの会のクリスマス会、そして土曜日に市民クリスマスがあります。また今、一階では子どもたちがクリスマス・ツリーの飾り付けをしていますし、礼拝後に教会学校のクリスマス劇の練習も行われます。まさにクリスマス一色といった日々です。
今年のアドベント、私共は、ルカによる福音書の記事から御言葉を受けて歩んでまいりたいと思っております。
2.ヨハネの誕生の予告から始まる
さて、今朝与えられておりますのは、ルカによる福音書の冒頭の所です。ルカによる福音書は、イエス様の誕生の話から始まるのではなくて、ヨハネの誕生から始まります。小見出しを見ていきますと、洗礼者ヨハネの誕生の予告、イエス様の誕生の予告、洗礼者ヨハネの誕生、そしてイエス様の誕生という具合に書き進められていきます。今日の所は、洗礼者ヨハネの誕生の予告の場面です。
どうしてルカによる福音書は、イエス様の誕生の話からではなく、洗礼者ヨハネの誕生の予告から始まっているのでしょうか。そこには、福音書記者ルカの明確な意図があったと思います。それは、イエス様の誕生というものは、偶然たまたま起きたような出来事ではなくて、アブラハム以来、もっと言えば、天地が創造された時からの神様の御計画の中で起きた出来事であった、そのことを示そうとしているのだと思います。旧約聖書の一番最後にありますマラキ書の最後には、「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(3章23節)という預言があります。この預言の成就として、洗礼者ヨハネが誕生する。つまり、洗礼者ヨハネは、救い主の来られる前に現れると預言されていたエリヤなのだ。そして、その後に来られたイエス様こそ救い主なのだ。そうルカは言いたかったのです。
こう言っても良いでしょう。救い主イエス様の誕生、またイエス様による十字架・復活・昇天の救いの出来事は、旧約からつながっている神様の救いの御業だ。旧約の歴史は、このイエス様の救いの出来事へとつながっている。神様の救いの御業は、神様の永遠の御計画の中で、このイエス様の救いの出来事を目指していた。そして遂に、旧約の預言者たちが預言していたことが成就した。それらのことをはっきりと示すために、福音記者ルカは、洗礼者ヨハネの誕生からイエス様の誕生へと話を進めていくことが必要だと考えたのでありましょう。
3.神様の永遠の救いの御計画
ここで思わされますことは、神様の永遠の救いの御計画ということです。ヨハネを先に遣わし、そしてまことの救い主であるイエス様を遣わされる。これは神様の御業、永遠の御計画によって為される救いの御業です。では、この神様の御業、永遠の御計画の中で為される神様の救いの御業というものは、洗礼者ヨハネやイエス様の上にだけ現れているものなのでしょうか。神様はこの天と地のすべてを造り、すべてを支配されているお方なのですから、この神様の永遠の救いの御計画とそれに基づく救いの御業は、当然私共の上にも臨んでいるはずです。ヨハネの誕生のために、神様は祭司ザカリアとその妻エリサベトを用いられました。つまり、ザカリアとエリサベトもまた、神様の永遠の救いの御計画の中で生かされ、用いられたのです。
私共もそうなのです。私共は自分で教会に来ると決めて、イエス様の救いへと導かれたと考えがちですけれど、その背後には神様の永遠の救いの御計画があったということです。更に言えば、そのような私共を誕生させるために、私共には父や母が備えられておりました。父や母がいなければ、祖父や祖母がいなければ、私共は存在していない。とすれば、父や母、祖父や祖母、それらの人々はキリスト者ではなかったかもしれませんけれど、神様の永遠の救いの御計画の中で生かされ、用いられていった者なのだ。そのように考えて良いと思います。私共は、この洗礼者ヨハネの誕生という出来事から、永遠の神様の御計画というものに思いを至らせる。何とも壮大な神様の救いの御業、救いの歴史というパノラマの前に立つのです。そして、その御計画の中に私共自身もいる。また私共の父や母、祖父や祖母までも、みんな位置付けられている。
アドベントは、旧約の民が救い主の誕生を待ち望んだことを思い起こすと共に、再び主が来たり給うを待ち望む時です。ここで私共は、全宇宙の歴史を包み込む壮大な神様の御計画というものに思いを至らせるのです。
4.聞き入れられた二つの願い
さて、洗礼者ヨハネの父ザカリアですが、彼は祭司でした。母エリサベトも「アロン家の娘」とありますから、祭司の娘でした。二人は「神の前に正しい人」でした。しかし、二人には子どもがおりませんでした。二千年前のユダヤにおいては「子どもは神の祝福の現れ」と考えられておりましたので、その子どもがいないことは「恥」とされていました。また、子どもが出来ないのは母性である妻のせいであるとされ、離婚の正当な理由にもなりました。ひどい話ですけれど、日本でも少し前までその風潮があったわけですし、今もそのような感覚は残っているかもしれません。ザカリアとエリサベトは、「二人とも既に年をとっていた」と7節にあります。具体的な年齢は記されておりませんけれど、50代か60代と考えて良いのではないかと思います。
子どもがなかなか与えられない女性の無念さは、アブラハムの妻サラ、ヤコブの妻ラケル、サムエルの母ハンナなどにも見られるものです。しかし、神様は彼女たちをかえりみてくださって、子を与え、その子を大いなる者として用いてくださいました。エリサベトも「子がいない」という無念さと共に生きていたかもしれませんけれど、神様はその思いを受け止めてくださっていたのです。二人は既に年をとっておりましたので、子が与えられることを願い求めて祈ることさえ、なくなっていたと思います。若い時には、二人ともに、子が与えられるように祈ったに違いありません。しかし、もうそのような祈りをしたことさえ、忘れてしまっていたかもしれません。けれど、神様は忘れない。
天使が祭司ザカリアに現れて言った最初の言葉は、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。」でした。この「あなたの願い」とは、二つ考えられます。一つは、「子が与えられるように」というザカリアとエリサベトが若い時に祈り続けた願いです。もう一つの理解は、彼は祭司ですから、「イスラエルの救い」を彼は祈っていたということです。私は、この二つの内のどちらかだけと受け取る必要はないと思います。それは、洗礼者ヨハネが生まれることにより、この二つの願いは共に叶えられることになったからです。「子が与えられるように」という若い日の祈りを神様はお忘れにならなかった。そしてまた、神様はアブラハム以来の祝福の約束も忘れず、祭司たちが神殿でささげる祈りを聞き届けられた。神様は忘れないのです。ちなみに、ザカリアという名前は、「ヤーウェは覚えている」という意味です。私共の今ささげている祈りも、昔々祈った祈りも、神様はしっかり受け止めてくださり、覚えてくださっている。私共はそのことを信じて良いのです。私共の祈りが空しくなることはありません。
5.天使との出会い
祭司ザカリアが、エルサレムに上って神殿で香をたく奉仕をしていた時のことです。ザカリアはユダヤに住んでいたと思いますけれど、神殿の奉仕の時は、一週間単身赴任をしてエルサレムに上っていたようです。当時の祭司は24の組に分かれておりまして、彼はアビヤ組に属していました。この24の組の者たちが一週間ずつ、年に二回エルサレム神殿において奉仕することになっていました。この一つの組には何百人という祭司が所属していたので、神殿に入って香をたくという奉仕は、祭司ザカリアにとっては一生に一度当たるかどうかという晴れ舞台でありました。
この時、天使ガブリエルがザカリアの前に現れたのです。12節「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」とありますが、これは当然だと思います。まだ天使に会ったことはありませんが、目の前に天使が現れれば、私もやっぱりザカリアと同じように恐れると思います。この恐れは、「未知との遭遇」という恐れ以上に、聖なる方との出会いによってもたらされる畏れであったと思います。そのザカリアに天使は、13~14節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」と告げました。先ほど、「あなたの願い」というのは二つあると申しました。一つは「子が与えられるように」、もう一つは「イスラエルに救いが与えられるように」という願いです。それは、ここで天使が「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。」と告げたことから第一の願いであることが分かりますし、「多くの人もその誕生を喜ぶ。」と告げたことから、ヨハネの誕生は単にザカリア・エリサベト夫妻に子が生まれるという以上のこと、イスラエルの救い、新しい救いの時の始まりという意味があったことが分かるわけです。これは、15~17節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」とあることからも明らかです。
6.信じないザカリアに対して
しかし、ザカリアはこの天使の言葉を信じない、受け入れないのです。18節「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」これはかつて、アブラハムが百歳、妻サラ九十歳で子が与えられると神様に告げられた時、創世記17章17節「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」という反応をしたのと同じです。18章でサラが笑ったことばかり言われることが多いのですが、17章でアブラハムも笑っているのです。アブラハムもサラもザカリアも不信仰ということなのでしょうか。不信仰と言えば不信仰です。だって高齢となった自分たちに子が生まれるはずがない。それは当たり前のこと、常識です。そうなのです。私共は、神様を自分の常識の中に閉じ込めようとするのです。これが不信仰というものです。しかし、神様は私共の常識の中になんておられません。
彼は祭司でした。神様に仕えるために生きている者でした。それでも自分の常識を超えた神様の言葉を信じられない、受け入れられない。私共の不信仰はそれほどまでに根深いということです。これは、アブラハムやサラやザカリアが特別に不信仰だったというわけではないでしょう。私共とて同じことです。皆さんの中で、イエス様の復活の話を聞いた時、何とありがたいことかと信じて受け入れた人が居たでしょうか。最初に聞いたときは、「そんなバカな話があるものか。」と思って信じなかったでしょう。それと同じです。
しかし神様は、神様の御業を信じることが出来ない、受け入れることが出来ない者を、「お前は不信仰だからダメだ。救われない。」そう言って見放されるのではなくて、この不信仰な者を説得されるのです。信じない者から信じる者へと変えてくださるのです。もし、「お前は信じないからダメだ。」ということであるならば、神様はザカリヤもエリサベトも用いないで、別の人から洗礼者ヨハネを生まれさせたでしょう。しかし、神様はそうはされませんでした。それが、ザカリアが口が利けないようにされたという出来事です。19~20節「天使は答えた。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。』」とあります。この天使ガブリエルの言葉をそのまま聞くと、ザカリアは口が利けなくなるという神様の罰を受けたように読めます。確かに罰だったのかもしれません。罰という意味もあったでしょう。しかし、本当の意味は、神様の意図は、ザカリアを信じない者から信じる者へと変えるための御業であったということなのだと思います。
7.信じる者へ
神様は、信じない者を信じる者へと変えるために、私共の思いを超えた出来事をもって私共の上に臨んでくださいます。信じない者が信じる者に変えられるのです。ザカリアは祭司でした。ですから、彼は神様を信じていなかったとは言えないでしょう。でも、彼は、神様が実際に自分の常識を超えた御業をされる、しかも自分の人生に直接介入するというあり方で働かれる、それを受け入れることが出来なかったのです。しかし、神様を信じるということは、「今生きて働き給う神様を信じる」ということです。「神様は私の人生に介入される」ということを信じ、受け入れることです。そして、この神様の御業に自分が用いられていくことなのです。何故なら、神様は私共が頭の中で造り上げた偶像なんかではないからです。
昨日の富山三教会の中高生クリスマス会で、私共の教会は出し物として歌を歌いました。その歌は、ペンテコステに信仰告白をした高校生が、中部教区の春の中高生バイブルキャンプで歌った曲でした。彼は歌の紹介をしてから、自分がそのキャンプで、信じない者から信じる者へと変えられた驚きと喜びの出来事を思い出すようにして、「みんなもこのバイブルキャンプに行って欲しい。」と語りました。また、カホンという打楽器を叩いた高校生も、ペンテコステで洗礼を受けた子ですが、このカホンに春のバイブルキャンプで出会ったことを話していました。それを聞きながら、この子たちも生きて働き給う神様に触れていただいた。そして、それを喜んでいる。嬉しいことだと思いました。
ザカリアは口が利けなくなりました。それは不便なことだったでしょう。初めは、「何てことだ。」と思ったかもしれません。しかし、実際に妻エリサベトが子を宿すに及んで、彼は、子が生まれるまでの10ヶ月間、口が利けない時を過ごしながら、本当に神様は生きて働いておられる、神様は自分たち夫婦をそしてイスラエルを忘れてはおられなかった、その神の愛を日々心に刻んでいったことでしょう。
エリサベトはヨハネをお腹に宿して、こう言いました。25節「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」生ける神様への、はじけるような喜びと感謝の言葉です。ザカリアもまた、ヨハネが生まれて口が利けるようになると、まず神様を賛美しました。生ける神様の御業に与った者、信じない者から信じる者に変えられた者は、神様をほめたたえ、賛美する者へと変えられるのです。
私共もこのアドベントの時、主をほめたたえつつ、主を賛美しつつ、歩んでまいりたい。そう心から願うのです。
[2018年12月2日]