1.イエス・キリストは誰か
イエス・キリストというお方は一体誰なのか。ここにキリスト教の中心があります。イエス・キリストというお方がまことの神でなかったなら、イエス様の十字架が私共の一切の罪を贖うことにはならなかったでしょう。とすれば、私共は救われないことになります。また同時に、イエス・キリストというお方がまことの人でなかったなら、私共人間の身代わりにはなれませんし、十字架の上で死ぬこともなかったでしょう。神は死ぬことはないからです。ここに、イエス・キリストというお方は「まことの神にしてまことの人である」というキリスト教信仰の中心が信じられ、告白されることになりました。「まことの神である」ということと「まことの人である」ということは、理屈で考えれば矛盾することです。しかし、イエス・キリストというお方が「まことの神にしてまことの人である」という私共の信仰の中心に、私共がイエス・キリストというお方によって救われた、あの十字架の出来事によって救われた、このことがかかっているのです。もちろん、愛も大切ですし、教会も大切です。終末も大切です。しかし、「イエス・キリストは誰か」「まことの神にしてまことの人である」、この一点を外してしまいますと、愛も教会も終末も意味がありません。何よりも私共の救いが成り立たちません。当然、キリスト教は成立しないことになります。実に、キリスト教の一番中心にあること、それが「イエス・キリストは誰か」「イエス・キリストはまことの神にしてまことの人である」ということなのです。
2.ナザレの村へ
さて、マタイによる福音書13章は、1節から50節まで7つの天の国のたとえが記されています。そこには、イエス様の到来と共に始まった天の国、神の国がその完成に向かって進んで行くということが告げられておりました。これらのたとえが語られた場所は、13章1節に「湖のほとり」という言葉がありますので、ガリラヤ湖のほとりの町、多分カファルナウムあたりだったのではないかと思われます。そしてイエス様は、少し内陸の、御自分が育った村ナザレに向かわれました。53~54節に「イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。」とあります。ここで言われている「故郷」とは、ナザレの村のことです。ベツレヘムではありません。確かにイエス様はベツレヘムでお生まれになりましたけれど、マタイによる福音書によれば、ヘロデ王の手から逃れるためにすぐにエジプトに逃げなければなりませんでした。そこから帰って来て住んだのがナザレです。ルカによる福音書によれば、マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたのがナザレでしたので、マリアとヨセフそして幼いイエス様は、エジプトから帰って、元々住んでいたナザレに戻って来たということなのでしょう。イエス様はガリラヤ湖周辺において宣教されておられましたけれど、この時、故郷のナザレの村に帰ってこられました。ナザレの村は、ガリラヤ湖から西に30kmほど行ったところにあります。
当然、ナザレの村の人々は、イエス様のことをその幼い時から知っていました。イエス様だけではありません。家族のことも知っていた。イエス様のお父さんは大工でしたので、当時の慣習として、多分、イエス様も12、3歳にもなればお父さんの手伝いをして、大工の仕事をしていたことでしょう。イエス様が救い主として公の生涯に歩み出されたのは30歳の頃ですから、既にイエス様はナザレの村では「大工のイエス」として知られていたと思います。
3.ナザレの人々のつまずき
イエス様はこの時、自分が育ったナザレの村に帰られた。もちろん、宣教するためです。そして、「会堂で教えておられた」のです。この時、イエス様が何を教えておられたのかは記されておりませんので分かりません。けれど、イエス様はきっと他の場所で教えられたのと同じことをナザレの村でも教えられたのだと考えて良いでしょう。そのイエス様の教え、宣教の基本にあるのは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」ということでした。これはイエス様が宣教を始められた時の第一声ですけれど、ここにイエス様の語られたことのすべてがあります。先週まで見てきましたように、天の国、神の国はイエス様と共に到来しました。イエス様が「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言って告げられたことは、神の国が来たのだから、この神の国に生きる者として悔い改めよ、悔い改めて神の国に生きる者となりなさいということでした。しかし、このイエス様が告げられたことを受け入れるということは、イエス様が神の子・救い主であることを信じなければ、決して受け入れることの出来ない内容でした。
イエス様の語る言葉を聞いたナザレの村の人々は「驚いた」と聖書は告げます。それは、イエス様が語られることは、ナザレの村の人々が今まで聞いたことのあるような教えではなかった。権威ある者としてお語りになったからです。そして、ナザレの人々はこう言ったのです。「この人はこのような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」ここで「このような知恵と奇跡を行う力」とありますから、イエス様は教えを語るだけではなくて、奇跡もされたのだろうと思います。
彼らはイエス様のことを知っていました。ついこの間まで、父ヨセフと共に大工の仕事をしていたではないか。母マリアは自分たちと一緒に生活しているではないか。兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダだ。姉妹もいる。多分、姉妹はナザレの村の誰かの所に嫁いでいたのでしょう。彼らは、イエス様のこともその家族のことも、よく知っていた。知っているけれど、否、知っているが故に、イエス様が神の子、救い主であることを受け入れることが出来なかったということなのです。もし、イエス様の語られることが、多くのラビたちが言っていることと同じだったのならば、そして「良い事をしましょう。悪い事はやめましょう。」という程度のものだったのならば、ナザレの人々は「イエスも立派になって帰ってきた。」と言ってイエス様を受け入れたと思います。イエス様はナザレの村に錦を飾ったことになったでしょう。しかし、イエス様がお語りになったのは、そういうことではありませんでした。権威ある者として、悔い改めを求める者として語られたのです。悔い改めを求められて喜ぶ者はいません。ですから、ナザレの人々は何を偉そうなことを言っているのか、そう思って反発したのでしょう。
ここでナザレの人々が言った言葉は、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」で始まり、「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」で終わっています。「どこから得たのだろう」という疑問。ナザレの人々はイエス様のことをずっと前から知っていますから、どこか偉いラビの所で学んだのではないということも知っている。とすれば答えは一つで、それは「神様から」ということになるのですけれど、それは受け入れられない。それを聖書は、「人々はイエスにつまずいた」と記しているのです。
4.肉の目と霊の目
イエス様につまずく。それは、イエス様をまことの神として受け入れることが出来ないということです。ナザレの人々はイエス様のことを、目に見える所においては誰よりもよく知っていた。しかしそれは、イエス様を神の子として受け入れ、神の子として信じるためには何の役にも立たなかったのです。聖書には、イエス様の身長・体重とか体格とか足の大きさとか髪の色などについて、何も記されていません。聖書はそんなことには興味がないし、そんなことを知ったところでイエス様を神の子として信じるためには何の役にも立たないからです。
ナザレの人々はイエス様を表面的には色々と知っていましたが、イエス様が誰であるのかということについては、全く何も知らなかったのです。でも、知っているつもりでいた。先週の天の国のたとえに照らしてみるならば、ナザレの人々はイエス様を知っているのですから、既に畑の中に隠されていた宝を見た、高価な真珠を見たのです。しかし、彼らはそれが宝であることが分からなかった。高価な真珠であることが分からなかった。だから、それを手に入れようと本気になることもなく、逆につまずいてしまったのです。
知っている。知っているつもり。これがイエス様を受け入れることを拒んだということなのでしょう。イエス様を「なかなか良いことを言っている人」「愛について教えてくれた人」程度で受け入れることは、ほとんど抵抗はないでしょう。しかし、それではイエス様について何も知らない、何も受け入れていないと同じなのです。イエス様を信じる、イエス様を受け入れるとは、イエス様を神の子、救い主として、まことの神にしてまことの人である方として、私の主人として、受け入れることだからです。しかしそれは、何と難しいことでしょう。それは、私の価値観、先入観、それらをすべて捨てて、イエス様を自分の主人として、イエス様がお語りになることを真実として受け入れることだからです。それは、肉の目によって見えることと、霊の目によって見えることは違うということです。イエス様が神の子・救い主であるということが分かるためには、霊の目が開かれなければならないのです。
5.イエス様の家族たち
さて、ここにはイエス様の家族の名前が記されています。しかし、父ヨセフの名は書かれていませんので、ヨセフはこれ以前に亡くなったのだろうと考えられています。母マリア。弟が四人、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。そして複数の妹。つまり、イエス様には最低でも6人の兄弟姉妹がいたことになります。イエス様の兄弟姉妹は当然、イエス様についてナザレの村の人々よりも知っていました。生まれたときからイエス様と一緒なのですから、誰よりも良くイエス様を知っていた人たちでした。では、そのイエス様の兄弟たちは、イエス様のことをどう思っていたのでしょうか。マルコによる福音書3章21節に、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」とあります。人々が言っているように、兄イエスは気が変になったのだと兄弟たちも思い、取り押さえに来た。家に連れて帰ろうとした。そういうことがあったのです。家族こそイエス様についてよく知っているはずでした。しかし、知っているからこそ、イエス様がまことの神である、神の子・救い主であるなどとはとても受け入れられなかったということでしょう。
しかし、イエス様が十字架に架かり復活された後、この家族の中から初代教会においてとても重要な存在となる者が現れます。それが、イエス様の母マリアと、弟のヤコブとユダです。母マリアは初代教会においてもイエス様の母として大切にされました。ヤコブは「主の兄弟ヤコブ」と言われ、初代のエルサレム教会において最も重んじられ、指導者として大切な働きをした人です。新約聖書の「ヤコブの手紙」の著者でもあります。また、ユダも「主の兄弟ユダ」として、同じく新約聖書の「ユダの手紙」の著者と考えられています。イエス様はここで、57節b「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」と言われましたけれど、この後、家族の中から大きな働きをする弟子が生まれたのです。母マリアもまた、キリストの教会において重んじられる者となりました。確かに、目に見える所において知っているが故に、霊におけるイエス様、神の子としてのイエス様が見えにくくなるということがあるのだと思います。しかし、それは絶対ではない。イエス様の家族の中から大きな働きをする弟子が生まれたように、きっとこのナザレの村の人々の中からもイエス様を信じる者がこの後現れたに違いない。私はそう思うのです。
6.霊の目を開かれて
見える所に目が奪われて、霊における本当の価値、本当の意味、本当の姿が見えなくなる。それはしばしば起きることです。それは、イエス様に対してナザレの村の人々がそうでしたし、イエス様の家族たちもそうでした。そして、それは私共にも起きることです。同じキリスト者に対して、そして自分自身に対して、肉の目においてしか見ることが出来ないということがしばしば起きるのです。私共は神の子とされたものです。これが、私共の霊の姿です。しかし、とてもそうは思えないようなことを、言ったりしたりしている。それは他の人に言われるまでもなく、自分自身が一番よく知っていることです。そこで、私共はしばしば自分自身に対して、「それでも神の子なのか。とてもそうは思えない。」そんな風に考えてしまうのです。それは、同じキリスト者に対してもそのように見てしまうということが起きます。しかし、私共は神の子なのです。それが霊における私共の本当の姿なのです。教会も同じです。教会においても色々なことが起きます。すると、「これでもキリストの体なのか。」という思いが湧いてくる。しかし教会は、どんなことが起きようとも、キリストの体なのです。それが霊における本当の姿だからです。そうでなかったら、教会が行う洗礼は意味のないものになってしまうでしょう。
今朝の御言葉から、私共は、目に見えることを突き抜けて、霊における存在として、イエス様とは誰なのか、自分は何者なのか、教会とは何なのか、隣り人とは何者なのか、そのことを信仰においてしっかり受け止めるようにと促されているのでしょう。そして、その最初に私共の霊の目が開かれる、信仰の眼差しが与えられるのが、イエス様に対してなのです。イエス様が「まことの神にしてまことの人」であることが分かる、ここから私共の霊の目は自分自身に対して、隣り人に対して、教会に対して、この世界に対して、その本当の姿が明らかにされていくのでしょう。
霊の目が開かれていなければ、私共はやがて死を迎えるわけですが、私共はその肉体の死をもってすべてが終わってしまうということになります。しかし、そうではないでしょう。私共は死んでも生きる。この肉体の死によっても終わらない、永遠の命が与えられている。そこに私共の救いも希望もある。このことこそ、私共の霊の目が開かれることによって信じることが出来るようにされたことなのでしょう。肉の目によって見えるところを突き抜けて、霊の目によって知らされるところの現実、霊における本当の姿、本当の意味、本当の価値、そこに私共の眼差しが向けられていかなければなりません。
7.奇跡について
最後に、奇跡について一つだけお話しします。58節「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」とあります。ここだけを読むと、人々に信仰があると奇跡がなされ、人々が不信仰だと奇跡はなされないという風に読んでしまいそうですが、そうではないでしょう。奇跡をなさるのはイエス様・神様であって、私共に信仰があろうとなかろうと、神様は奇跡をなそうとされればなさいますし、そうでなければなさいません。ただ、奇跡は神様の憐れみの御業ですから、それは神様を愛し信頼する者にとってしか意味をなさない、しっかり認識することは出来ないとは言えるでしょう。つまり、信仰が無ければ、奇跡が奇跡として受け取られず、単なる偶然や運が良かったということで終わってしまうことになるということです。しかし、神様を信じる者には、神様の憐れみの御業である奇跡は少しも珍しくありません。今ここに私がいること自体が奇跡、つまり神様の憐れみの御業そのものだからです。
イエス様をまことの神の子として受け入れる霊の目を開かれた者にとって、この世界は神様の御業に満ちています。霊に対して開かれたこのまなざしを持って、今も私共と共におられ、生きて働いてくださっているまことの神であるイエス様と共に、この一週もまた、御国に向かっての歩みを共に為してまいりたいと心から願うのであります。
[2019年1月13日]