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総員礼拝説教

「洗礼者ヨハネの死」
レビ記 18章1~6節、16節
マタイによる福音書 14章1~12節

小堀 康彦牧師

1.洗礼者ヨハネと領主ヘロデ
 2月の第一の主の日を迎えています。毎月第一と第二の主の日は、マタイによる福音書を読み進めております。第三の主の日は主題説教、第四の主の日は旧約から御言葉を受けています。
 今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって殺された場面が記されております。洗礼者ヨハネ。彼は四つの福音書すべてにおいて、救い主であるイエス様に先立つ者、イエス様のために道備えをする者とされています。彼はヨルダン川において人々に洗礼を授けました。イエス様もまた、彼から洗礼を受けました。彼は、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタイによる福音書3章8節)と激しく悔い改めを求めました。彼のもとにはエルサレムから、ユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、多くの人々がやって来て、悔い改めの洗礼を受けました。彼の評判は大変なもので、彼こそ救い主ではないかと期待する者も少なくありませんでした。当時のユダヤのことを書いたヨセフスという人が書いた書の中にも、洗礼者ヨハネの運動が大変なうねりとなって全イスラエルを席巻していたことが記されているほどです。その洗礼者ヨハネが、領主ヘロデによって捕らえられてしまったのです。
 この領主ヘロデというのは、イエス様が生まれた時にベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしたヘロデ大王の息子です。彼が大王と呼ばれたのは、それ程までに広い領土を持ち、力を持っていたからです。現在発掘されるこの時代の大きな建造物は、ほとんど彼によって造られたものでした。このヘロデ大王には三人の息子がおりました。ヘロデ大王が死んだ時、息子アケラオはユダヤとサマリア、フィリポはガリラヤ湖の北東の地であるトラコン、そしてこのヘロデ・アンティパスはガリラヤとヨルダン川の東のペレアの領主となりました。その後、アケラオはローマ皇帝によって追放され、この時ユダヤとサマリアにはローマからポンテオ・ピラトが総督として赴任しておりました。
 ガリラヤとペレアの領主であったヘロデ・アンティパスは、兄弟フィリポの妻ヘロディアを妻にしました。ヘロデは既にナバテア王国の王女を妻に迎えておりましたが、これを離縁して、ヘロディアを妻とした。このことに対して、洗礼者ヨハネは、それは律法に許されていないことだと批判したのです。先ほどお読みいたしましたレビ記18章16節に、「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである。」とあります。この律法に反する、と洗礼者ヨハネは領主ヘロデを非難したのです。公然と批判した。
 いつの時代でも権力者を批判するということは、大変危険なことです。洗礼者ヨハネもそのことは百も承知だったと思います。しかし、ヨハネは黙っていませんでした。悔い改めを求めること。それが神様から命じられた、彼の為すべきことだったからです。彼は、神様の御前に生きる、為すべきことを為す、それしか考えていなかったでしょう。
 領主ヘロデにしてみれば、自分の結婚を公然と非難するなど、とんでもない。しかも、預言者として、神様の御心を告げる者として、民衆の絶大な人気と信頼を得ているヨハネが批判する。これを放っておけば、民衆の心は領主の権威に従うという所から離れていってしまうだろう。このままには出来ない。そう考えたのでしょう。そして、洗礼者ヨハネはヘロデによって捕らえられ、牢に入れられてしまったのです。

2.領主ヘロデがイエス様を洗礼者ヨハネの生き返りと受け止めた理由
 マタイによる福音書4章12節を見ますと「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」とあり、4章17節には「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」とあります。イエス様は、洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスによって捕らえられたと聞いて、御自分の時が来たと受け止め、宣教を開始されたのです。宣べ伝えたのも「悔い改めよ。天の国は近づいた。」です。これは洗礼者ヨハネが告げていたことを受け継いでいると言って良いと思います。ですから、領主ヘロデがイエス様に洗礼者ヨハネとの連続性を見ていたのは、その意味では正しかったわけです。
 イエス様が宣教を開始されたのはガリラヤにおいてでした。ヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主です。当然、イエス様の働きについてはヘロデの耳に入ってきます。その時、ヘロデが語った言葉が2節にあります。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」どうしてヘロデはこんなことを言ったのか。それは、彼がこういう形でヨハネを殺したからだ。そう聖書は告げているのです。領主ヘロデは洗礼者ヨハネを殺しました。しかし、生き返って自分に復讐しようとしていると思って、おびえていた。自分が犯した罪の報いにおびえていたと言っても良いと思います。それが、ヘロデがイエス様の評判を聞いて、イエス様を洗礼者ヨハネが生き返ったと思った理由です。

3.洗礼者ヨハネが殺される
 領主ヘロデは、洗礼者ヨハネを捕らえて牢に入れることは出来ましたけれど、これを殺すという決断は出来ないでおりました。人々はヨハネを預言者、或いはメシヤだと思っており、そのヨハネを殺せば民衆がどう思うか。民衆の反感を買うことは必定です。ひょっとすると、反乱が起きるかもしれない。領主ヘロデは何よりもそれを恐れていたのです。
 マルコによる福音書は、少し違った言い方をしています。マルコによる福音書6章19~20節「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」つまり、ヘロデがヨハネを殺さなかったのは、ヘロデ自身がヨハネを正しい聖なる人と認めて、その教えを聞くのを喜んでいたからだと言うのです。マルコによる福音書によれば、ヨハネを殺そうとしていたのは妻のヘロディアだったということになります。そうだったのかもしれません。確かに領主ヘロデは自分の誕生日にヨハネを殺すことになってしまったのですが、彼は初めからそんなことを考えていたわけでは全くなかったからです。
 この日の出来事を見ていきましょう。6節「ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。」とあります。領主ヘロデの誕生日の宴には、多くの人々が招かれていたことでしょう。貴族や役人、有力者、軍人等々、みな口々にヘロデに祝いの言葉を述べたことでしょう。その時、余興としてヘロディアの娘が踊りをおどったというのです。ヘロディアの娘という言い方をしていますから、これは多分、ヘロディアの先の夫との間にもうけた娘だと思います。聖書には記されておりませんが、娘はサロメという名であったと伝えられています。王の娘がこういう場で踊るなどということは、普通はあり得ません。しかし、そうであるが故に、この踊りによってその場は大いに盛り上がったのでしょう。ヘロデは喜び、それで娘に、「願うものは何でもやろう。」と誓って約束しました。それに対して、8節「すると、娘は母親に唆されて、『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください』と言った。」のです。
 この言葉に、その場は凍りついたようになったと思います。領主の誕生日を祝う楽しい宴の席で、何とも血生臭いことを申し出た。ヘロデはこの時、「何をバカなことを言うのか。」とその申し出を退けることも出来たでしょう。でも、マルコによる福音書によれば、この時ヘロデは「『お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓った」のです。そこまで言った手前、もうヘロデは後に引けなかったということなのでしょう。自分が誓って約束したことを、その場にいた者はみな聞いている。その人たちの手前、自分は約束は守るということ、或いはヨハネなど恐れてはいないということ、それを示す良い機会だと思ったのかもしれません。何よりも、自分こそが王であり、一番であり、自分を批判する者など決して赦さない。自分を祝うために集まった大勢の者たちを前に、そんな高揚した思いがヘロデの心に湧き上がってきたのでしょう。
 それは、「娘は母親に唆されて」とありますように、こんなとんでもない要求をしたのはヘロデの妻のへロディアでした。領主ヘロデは、まんまとヘロディアの策略に乗せられたということなのかもしれません。何としても洗礼者ヨハネを殺そうとするへロディアの執念深さには、尋常ではない恐ろしさを感じます。
 遂にヘロデはヨハネの首をはねるように命じ、その首を盆に載せて少女に渡したのです。

4.小さなヘロデである私共
 ヘロデは後悔したと思います。それが、イエス様の評判を聞いた時の、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。」という言葉に表れているのでしょう。
だったら、やらなければいいのに。その通りなのです。しかし、やってしまう。その場の雰囲気と言いますか、魔が差すと言いますか、後で後悔することが分かっていても、ついついやってしまう。やってしまってから、言ってしまってから、何ということをしてしまったのか、何ということを言ってしまったのかと後悔する。「後悔先に立たず」です。私共は、誰もヘロデのことを批判することは出来ないと思います。人の目を恐れて、自分を大きく見せようとして、その場の雰囲気で、言わないで良いことを言ってしまったり、してはならないことをやってしまったりする。これが私共人間の弱さなのでしょう。ヘロデは領主であり、誕生日に多くの人々が祝いに来ている。みんなが口々にヘロデを持ち上げる。その内に、自分は大したものだと思ってしまう。所謂、調子に乗ってしまったのでしょう。そして、そこで足をすくわれたのです。私共も小さなヘロデです。自戒しなければなりません。思い上がり、自惚れ、自己過信、そこに罪が口を開けて潜んでいます。

5.イエス様の復活との違い
 私はここで、イエス様の十字架の死を前にして逃げてしまった弟子たちのこと、三度イエス様を知らないと言ったペトロのことを思い起こすのです。彼らは、復活されたイエス様に出会います。しかし、その時弟子たちはすぐには喜びませんでした。喜べなかったのです。彼らはまず恐れました。どうしてか。彼らはイエス様を裏切り、そしてイエス様は十字架につけられたからです。そのイエス様が生き返って自分の前にいる。弟子たちはまず恐れた。それは、自分たちは仕返しされる、復讐される、そう思ったからではないでしょうか。しかし、イエス様は、少しも恨んでいない底抜けに明るい顔で、「おはよう」と言われた。聖書には記されておりませんが、この時の表情は、暗さなど微塵もないものであったに違いありません。そして、「わたしの手や足を見なさい。」とイエス様は手と足をお見せになった。聖書には書いてありませんけれど、この時、イエス様は手のひらを弟子たちにお見せになったに違いない。間違っても手の甲を見せたのではないと私は思います。手の甲を見せたら「恨めしや~」です。イエス様の復活はそうではありません。「わたしはあの十字架で死んだイエスだ。あなたがたが裏切って十字架につけられて死んだイエスだ。でも、生きている。死は私を滅ぼすことなど出来はしない。あなたがたの裏切りなんて、もう何でもないことだ。安心しなさい。すべては赦された。これからは新しく、わたしの復活を全世界に宣べ伝えていきなさい。」弟子たちは、復活のイエス様と出会って、新しい者とされた。新しい命に生きる者となったのです。
 残念ながら、この時領主ヘロデはイエス様の復活を知りません。だから、ヨハネが生き返って自分に復讐しに来ると恐れていたのです。領主ヘロデはこう思ったのではないでしょうか。「洗礼者ヨハネが生き返ったのがイエスだとしたら、これをも殺さなければならない。」大きな罪がさらに大きな罪へと駆り立てる。この連鎖を断ち切るのが、イエス様の復活です。イエス様による罪の赦しです。私共も小さなヘロデかもしれない。しかし私共は、イエス様の復活を知っている。イエス様の罪の赦しの福音に生きる者とされている。このイエス様の赦しに与っていることをはっきりと心に刻むために、私共は聖餐に与るのです。

6.復活の命に与る者
さて、洗礼者ヨハネは、イエス様の道備えをする者として、神様の御業に仕える者として遣わされたのに、まことに悲惨な最期を迎えました。どうしてこんな目に遭わなければならないのかと思う人がいるかもしれません。イエス様の弟子である使徒たちの多くも殉教しました。神様の御心に従ったのであれば、神様の恵みと祝福に与るはずではないのか。その通りです。確かに、神様の恵みと祝福に与るのです。このヨハネの死は、この後のイエス様の十字架の死を指し示しています。そして、このヨハネの死がイエス様の十字架の死を指し示しているとすれば、ヨハネはイエス様の復活にもあやかるはずなのです。そして、それがヨハネに与えられる神様の恵みと祝福なのです。使徒たちにしても同じです。そして、それは私共に与えられる恵みと祝福でもあるのです。私共は地上の命しか見えないし、それがすべてであるかのように思ってしまうところがあります。しかし、イエス様が復活されたということは、この地上の命がすべてではないと私共にはっきり教えてくださったということです。洗礼者ヨハネにもその命が与えられる。そして、私共にも与えられる。そう信じて良いのです。

7.この世の権力と神様の権威
 このヨハネの死は、イエス様の死と同じで、この世の権力者というものが、自分に反対する者に対して、いかにひどいことをするかということを私共にはっきり示しています。いつの時代、どの国においても同じだとは言いません。しかし、現代でもこのようなことが起きている国は少なくありません。この世の権力者が、自分が一番偉く、自分が一番正しいと思い違いをするならば、必ずこのようなことが起きます。そこで起きていることは、偶像礼拝です。この世の権力が神となっているのです。しかし、この世の権力というものは、神様の権威の下、神様の正しさの下にひざまずくことがない限り、自分の力に溺れ、自分の力に酔い、自分の思いや為すことを絶対に正しいとしてしまうものです。そして、その正しさを貫くために自らを批判する者を滅ぼしていく、そういう面を持っているものなのです。この世の権力、権力者もまた、自らの罪から自由になっていないからです。
 最近、「○○ファースト」という言葉が色々な所で言われます。私は正直なところ、この言葉にいつも違和感を覚えています。これは結局、「自分ファースト」という人の思いにおもねっているだけの言葉だからです。私共は、その罪から解き放たれ、「神様ファースト」にされた者なのです。
 私は、洗礼者ヨハネのように自分の身の危険も顧みず、どんな時にも正しいことを語り続ける自信はありません。自分がどんなに弱い者であるかを知らされています。しかし、イエス様が共におられます。イエス様は言われました。「会堂や役員、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(ルカによる福音書12章11~12節) このイエス様の御言葉を単純に信じたら良いのです。私には勇気も力も無い。しかし、イエス様が、聖霊なる神様が、共にいてくださり、道を開いてくださり、導いてくださっている。その道は永遠の命、復活の命へと至る道です。だから、安心して、神様の御前に為すべきことを為していけば良いのです。

[2019年2月3日]