1.はじめに
神様は私共を選んでくださり、その全能の御腕をもって私共を守り、支え、導いてくださっています。それは、具体的に私共の人生に関わり、生きて働き、御業を為してくださるということです。イエス様は聖書の中におられるのではなく、聖書に記されている力と権威をもって、今も私共と共におられます。そして、私共を御自身の救いの御業に用いようとしておられます。そのために私共は召し出され、神の子・神の僕とされました。聖書はそのことを私共に告げています。
今朝与えられております御言葉は、五千人の人々が五つのパンと二匹の魚で養われ、皆が満腹したという出来事です。説教の題にもしましたが、これは昔から「五千人の給食」と呼ばれてきました。イエス様の為された奇跡としては、十字架と復活の出来事を除けば、唯一、四つの福音書すべてに記されているものです。そのことだけでも、この出来事が弟子たちにとって、キリストの教会にとって、どれほど大きな出来事だったかが分かるかと思います。
代々の聖徒たちは、この出来事を思い起こす度に、自分たちの思いを超えた神様の御業を思い、それに信頼し、いよいよ神様の御業にお仕えする者とされて来ました。「ああ、もうダメだ。」と思うようなことがあっても、主が働いてくださる、主が御業を為してくださる、そのことを信じ、立ち上がって来ました。そして事実、神様は御業を為してくださいました。だから、今もキリストの教会は立ち続けている。キリスト者が生まれ続けているのです。この今も生きて働き給う神様を信頼して生きる、ただ神様を、神様だけを信頼して生きる、それが私共に求められていることです。
2.人里離れたところに退くイエス様
順に見てまいりましょう。13節「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。」とマタイによる福音書は記します。「これを聞くと」というのは、先週見ました、この直前に記されていることです。領主ヘロデの誕生日の宴において、娘の踊りの褒美としてヘロデによって洗礼者ヨハネの首がはねられた。その知らせを持って、ヨハネの弟子たちがイエス様の所に来た。報告に来たのです。「その報告を聞いて」ということです。イエス様は、洗礼者ヨハネが自分に先立つ者、道備えをする者であることを知っておられました。洗礼者ヨハネが自分と深い絆で結ばれていること、共に神様の救いの御心の中で遣わされた者であることを知っておられました。ですから、イエス様はこの知らせを聞いて、御自身の十字架が近づいていることを悟られたに違いありません。また、ヨハネの弟子たちと共に、ヘロデの非道に怒りを覚えられたことでしょう。しかしこの時、イエス様は何よりも祈ろうとされました。「ひとり人里離れた所に退かれた」とは、祈るために静かな所に行かれたということです。ヨハネの死を知らされて、ヘロデの手から逃れるために退かれたというのではありません。イエス様は逃げたのではなくて、祈ろうとされたのです。
自分にとって大切な者の死を知らされたら、私共はどうするでしょうか。驚く。叫ぶ。うろたえる。泣く。喪失感の中で何も出来なくなる。様々な反応をするでしょう。この時、イエス様の心の中で何が起きたのか、私には分かりません。ただはっきりしているのは、イエス様はこの時祈ろうとされたということです。「祈り」とは、神様にお願いするだけではありません。神様との交わりです。神様との語らいです。では、イエス様は何を神様と語らおうとされたのか。イエス様は、ヨハネの悲惨な死を神様の御業として受け止め、確認するための祈りの時を求められたということではないでしょうか。そして、御自分のこれからの歩みについても、「これで良いのですね。」「十字架なのですね。」と確認するということでもあったでしょう。イエス様が大切な者の死に際して、何よりも祈ろうとされた。このことは覚えておきたいと思います。私共にとっても、それは同じことなのではないかと思います。
3.「後にしてくれ」とは言われないイエス様
ところが、群衆はそれを許しませんでした。イエス様がガリラヤ湖に舟を出して、祈るために人里離れた所に行こうとされたのに、群衆はイエス様の後を陸伝いに追ったのです。群衆は、イエス様が今から何をしようとしておられるのか知りません。群衆もそれぞれに問題を抱えていた。家族の中に病人がいたり、経済的に困窮していたり、どう生きていけば良いのか分からなかったりと、様々な課題を抱えながら、イエス様なら何とかしてくれる、道を開いてくれる、そう願い、期待して、イエス様の後を追って来たのです。それに対して、私共ならどう思うでしょう。もう少し待ってくれ、後にしてくれ、そう思うのではないでしょうか。しかし、イエス様はそうではありませんでした。14節「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」とあります。イエス様はこの大勢の群衆を見て、深く憐れまれたのです。深く憐れむ。それは自分のはらわたが痛むように、人々の思いを自分のこととして受け止めた。そして、病人をいやされたのです。イエス様とはそういうお方なのです。「今はダメ。もう少し待ってくれ。」などとは言われないのです。ですから、私共はいつでもどんな時でも、イエス様を頼ったら良いのです。イエス様に願い求めたら良いのです。
しかし、ここで私共もイエス様と同じように、人が私に助けを求めるならば「どんな時でも自分の都合は後回しにしなければいけない。その人の求めに応えなければいけない。」そんな風に考えてはいけません。何故なら、私共はイエス様ではないからです。私共は、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、休むことが必要だからです。イエス様のように、いつでもどんな時でもすべての人の課題を引き受けることなど出来ません。伝道者もそうです。休みは必要です。でも、イエス様はそうではありません。いつでも、どこででも、イエス様に私共は窮状を訴え、願い、祈ったら良いのです。
4.「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われるイエス様
さて、夕暮れになりました。弟子たちはイエス様にこう言います。15節「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」まことに真っ当な意見です。この時の群衆の人数は、21節に「女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。」とあり、群衆の中には女性も子供もいたと考えると、全体で一万五千人から二万人、或いはそれ以上だったかもしれません。その人々が人里離れた所で夜を迎えたらどうなるのか。食べ物もないし、早く解散させなければ、家路につくことも出来なくなってしまう。そう弟子たちは心配したのです。
しかし、イエス様はここで弟子たちに、とんでもないことを言われるのです。16節「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」これを聞いた弟子たちは、何を言っているんだ、と思ったでしょう。どこにそんな食べ物があるのか、と理不尽な事を言うイエス様に腹を立てたのではないかと思います。弟子たちは言いました。17節「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」この言葉には、イエス様に対する非難の思いが込められていたと思います。五つのパンと二匹の魚。これは、弟子たちが食べるにも十分ではない量です。弟子たちにしてみれば、イエス様が人里離れた所に行かれる、しかしまたすぐに戻って来て夕食となるだろう、そんなつもりで出て来たのだと思います。だから、自分たちの分の夕食だって持って来ていない。それなのにイエス様は、人里離れた所で群衆を相手に次々といやしの業を為され、こんな時間になってしまった。もう帰らなければ、自分たちの夕食だってまともに取れない。「ここには五つのパンと二匹の魚しかないのですよ。何をどうしろと言うのですか。こんな人里離れた所で、こんなにたくさんの人たちに、どうやって食べ物を調達しろと言うのですか。」弟子たちは、イエス様の理不尽な命令に腹を立てたのではないでしょうか。
よく考えてみると、このイエス様の御命令は、人里離れた所だから無理だというようなことではなかったと思います。二万人の夕食です。一人あたりパン一個としても、二万個のパンを用意することになる。そんなことは、今の富山の街中であっても無理です。スーパーやコンビニを回って集めても、どれだけの数を用意することが出来るでしょう。既に夕暮れになっているのです。時間がない。金もない。人手もない。どうすることも出来ません。
5.私共が出来ない所から始まる神様の御業
どうすることも出来ない。実現不可能。イエス様のこの御命令は、弟子たちにそのことをはっきり示したのだと思います。イエス様の御命令は、「あなたがたには出来ない。しかし、やりなさい。」というものでした。もしこれがイエス様の御命令でなかったのなら、「こんなことは無理。」でおしまいです。「あなたにはついて行けません。」でおしまいです。しかし、この「とても出来はしない」という所から、神様の御業が始まるのです。私共が出来ると思っている所でやることは、自分の業でしかありません。これだけ頑張った、そしてこうなった、という世界です。しかし、イエス様はこの時、弟子たちを神様の御業の世界、神様の御支配、神の国へと招かれたのです。神の国はイエス様と共に既に来ているからです。
イエス様は弟子たちに告げます。「それをここに持って来なさい。」そして、群衆には草の上に座るようにお命じになりました。男だけで五千人、全体で二万人くらいの人々が草の上に座り、イエス様に注目します。イエス様は「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え」ました。「賛美の祈り」と訳されている言葉は、「祝福した」という言葉です。イエス様は、この五つのパンと二匹の魚を与えてくださった神様に感謝し、この五つのパンと二匹の魚で養ってくださる神様をほめたたえたのです。この時、イエス様はきっと小さな声でもごもご言われたのではなくて、朗々とした声で、イエス様の所作に注目し、イエス様の声に耳をそばだてていた人々に見えるように、聞こえるように神様に感謝し、神様を誉め讃えたのだと思います。
ここで、五つのパンと二匹の魚は、その本当の姿を現すことになります。それまでは、これらは弟子たちが自分たちの力で用意した食べ物に過ぎませんでした。しかし、このイエス様の祝福によって、神様が私共を養ってくださるための食べ物になったのです。私共は、自分の時間も命も財産も仕事も食べ物も、自分のものだと思っています。そう思っている限り、私共は何も分かっていないのです。それらはすべて神様のもの、神様が与えてくださって私共を養い、生かしてくださっているものです。そのことが分かる時、すべてが変わります。私共は神の国に生き始めるのです。
6.尽きることのないパン
イエス様はそのパンを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはそれを群衆に配りました。そして、すべての人に配ることが出来たのです。群衆はみな満腹になりました。残ったパン屑を集めると、十二の籠いっぱいになりました。
私は長い間、この出来事が本当に分かりませんでした。イエス様の他の奇跡、目の見えない人の目が開かれたとか、中風の人が起き上がったとか、手の萎えた人がいやされたとか、重い皮膚病にかかった人がいやされたというのは、こういう感じかなと想像することが出来ます。しかしこの奇跡については、一体何が起きたのか、想像することも出来ませんでした。それは質量保存の法則に反しているからです。元の五つのパンよりパン屑の方が多くなる。分けても分けてもなくならない。そんなバカなことがあるはずがない。そう思っていたからです。そうです。これは起きるはずのない出来事なのです。でも起きた。それは、イエス様がこの世界を造られた神の御子である証しであり、質量保存の法則を超えた方だからです。ここに神の国が来ている、そのことを証しする出来事だったからです。
今は単純にこう思っています。弟子たちが配っても配っても、パンはなくならなかった。それは、このパンが神様の養い、神様の憐れみ、そのものだったからです。あの出エジプトの時のマナのように、神様の養いはなくなりません。私共はこの神の養いの中に生かされているのです。
7.弟子たちも参与した奇跡
この奇跡のもう一つの特徴は、この奇跡には弟子たちも参与したということです。他の奇跡では、弟子たちはイエス様が為されることを見ていただけです。しかし、この時はパンを配るという役割を果たしました。実際に、配っても配ってもなくならないパンを自分の手で触って、自分の手で配ったのです。見ていただけではなくて、自分もそこに参加した。彼らは自分たちの手で配ったパンの感触をもずっと覚えていたのではないでしょうか。配っても配っても無くならないパン。配りながら、弟子たちは驚き、喜び、狂喜乱舞したのではないでしょうか。だから、この出来事は強烈な印象をもって弟子たちの心に残り、すべての福音書に記されることになったのでしょう。更に、この奇跡に与った人は二万人ほどもいました。これほど多くの証人がいた奇跡は、これだけです。だから、この奇跡は皆が知っていたのです。
そして、この奇跡は弟子たちに、自分たちの無力さを教えると共に、それでも神様の御業にお仕えすることが出来ることを教えたに違いありません。私共は、自分の力、能力、財力、体力、知力、何をとってもイエス様の御命令を達成することなどとても出来ないと思ってしまう。しかし、それを為すのは自分の力ではない。神様の力だ。神様が生きて働いて事を起こしてくださる。自分たちはその御業にお仕えすれば良い。そのことを学んだのです。
イエス様の弟子は、いつの時代でも弱く小さな群れなのです。しかし、教会の力、キリスト者の力は、そこにはありません。私共の力は、天地を造られた神様にあります。神様が事を起こされる。私共はその御業の道具として、この時の弟子たちがただパンを配っただけだったように、神様の憐れみ、神様の愛を配っていくだけなのです。神様の憐れみ、神様の愛は、配っても配ってもなくなることはありません。私共はただ配るだけ。配るものは神様が与えてくださいます。
私共が自分の持っている力や能力に頼る限り、私共はいつも「これしかありません。とても出来ません。」と言うしかないでしょう。そもそも、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28章19節)という御命令は、私共が自分の力に頼って考えるならば、それは無理に決まっているのです。この命令を受けたのは11名の弟子たちです。11名で全世界に出て行って、洗礼を施し、人々を弟子とする。そんなことは、無理に決まっています。しかし、少しも無理ではなかった。もちろん、いつでも順風満帆だったわけではありません。しかし、教会は立ち続け、キリスト者は生まれ続けてきた。今もそうです。
8.私共も献げましょう
イエス様は、五つのパンと二匹の魚を「ここに持って来なさい。」と言われます。「五つのパンと二匹の魚で何が出来るというのか。」弟子たちはそう思ったことでしょう。しかし、持って来ました。すると、イエス様はそれを取り、神様に祈り、神様の憐れみの業の道具としてくださいました。弟子たちは大いなる神様の御業を見、それに参加し用いられました。この神様の憐れみと愛を示し、神様が生きて働いておられることを証しするために、キリスト者は召し出され、キリストの教会は立っているのです。
私共は今、東和歌山教会の土地取得・会堂建築のための献金に協力したいと思っています。私共はここ10年ほどの間に、能登の震災で被災した七尾教会、輪島教会、羽咋教会、富来伝道所の再建のために協力しました。小松教会の会堂建築にも協力しました。現在はみな立派に会堂を建て替えて、主の御業にお仕えしています。本当に嬉しいことです。それぞれの教会は、神様が事を起こしてくださることを信じて、一歩を踏み出したのです。東和歌山教会もそうです。自分の力だけでは出来ない。しかし、神様はやりなさいと言われる。その御命令に従って一歩を踏み出しました。今、東和歌山教会は、毎週届く全国からの献金を前にして、主に感謝の祈りをささげていることでしょう。私共はこれに協力することによって、共に主の御業にお仕えすることが出来る。これはありがたいチャンスだと私は思います。私の持っているもの、差し出せるものは、わずかかもしれません。しかし、神様はそれを大きく用いてくださいます。それぞれの地に立っている教会が、ただ独りの主を拝み、共に主の御業にお仕えしている。そのことを改めて心に刻む、恵みの業です。どうか共にこの主の業に参加して、共に御名をほめたたえたいと思います。
[2019年2月10日]