1.はじめに
私共の主人は、天と地のすべての造り主であるただ独りの神様の御子、主イエス・キリストです。私共はキリストのものです。私共の上にどのような災いが起きようとも、悪しき力が私共を覆っているかのように思えたとしても、それは最早、私共を支配することは出来ません。全能の神様の御手が私共をとらえ、守り、支え、導いてくださいます。病も死も苦難も、私共を支配することは出来ません。それらは既に、御子イエス・キリストの十字架と復活によって敗北しているからです。ですから、私共は、闇の力に支配されている者としてではなく、御子イエス・キリストのものとして、光の中を、光に向かって、喜びと感謝と希望をもって生きるのです。その希望の道をはっきり心に刻むために、まなざしをしっかり天に向けるために、私共はこのように主の日の度毎にここに集い、神様を礼拝しているのです。
2.私共への救いの宣言
今朝与えられております御言葉は、こう宣言しています。13~14節「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」これは宣言です。こうだったら良いのにとか、こういうことかもしれないとか、そういうことではありません。神様の救いの御業によって、既に私共に与えられている、救いの現実の宣言です。私共は既に、このような現実に生きる者とされています。闇の力、それは私共を神様から引き離し、敵対させ、私共を自分の支配の下に置こうとする一切の力です。この力は私共に様々なあり方で働きかけます。私共の持っている様々な欲が用いられることがあるでしょう。「親の因果が子に報い」というような、呪いの連鎖という考え方が用いられることもあるでしょう。自分の病や苦しみ、愛する者や家族の病気や苦しみが用いられることもあるでしょう。また、この世での様々な成功、社会的な名声などさえ用いられます。そして、その最大のものは死です。しかし、イエス様は私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになり、三日目に復活されました。死さえも最早、私共を支配することは出来ません。イエス様は、私共を脅かす一切の闇の力を滅ぼしてくださり、私共を闇の支配から救い出し、御自身の支配の中を生きる者としてくださいました。神の支配、すなわち神の国に生きる者としてくださいました。私共は既に神の国に生き始めている。それが私共に与えられている現実です。
確かに、私共は様々な罪を犯してきました。今も、心の中で、或いは口や行いで、神様の御心に反することをしてしまう私共です。しかし、その一切の罪を贖うために御子イエス・キリストは十字架にお架かりになったのです。イエス・キリストの尊い血潮という代価が支払われて、私共は罪の赦しを与えられました。神様は正しいお方ですから、御子イエス・キリストが自らの死をもって既に支払われた罪の代価に加えて、既に償われた私共の罪を、更に償うことをお求めにはなりません。そんなことをしたら、二重に代価を求めることになってしまうでしょう。罪の代価の二重取り。神様はそんなことはなさいません。そして、御自身の最愛の独り子、ただ独りの御子の十字架の死によって贖われない罪など、この世界には存在しません。神様はその尊い犠牲をもって、私共との間に和解を、平和を与えてくださいました。20節に「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と記されているとおりです。私共は罪赦された者として、神様との間に和解を与えられた者として生きる。それは、この救いを与えてくださった神様を愛し、信頼し、この方に従って生きるということです。この救いの恵みの現実の中に生き切るということです。ここに私共に与えられた新しい命があります。この新しい命に生きるようにと召し出されたのが私共なのです。
良いですか皆さん。どんな闇の力も最早、私共を支配することは決してありません。私共をそそのかし、私共が今も闇の力に支配されていると囁く者が近づくなら、私共ははっきり「サタンよ、退け。」そう一喝したら良いのです。私共の主人はイエス様です。御自身が十字架の上で死んでまで、私共の身代わりとなってくださるほどに、私共を愛してくださるお方、この方が私共のただ独りの主人です。富も地位も名声も国家もいかなる思想も、私共の主人ではありませんし、主人になることは出来ません。
3.キリスト賛歌
それでは、私共の主人である御子イエス・キリストとはどのようなお方なのでしょうか。それが15節以下に記されております。15節から18節まで、或いは20節まで、ここはパウロがこの手紙を書いた時代に礼拝の中で歌われていた賛歌、キリスト賛歌と考えられております。この箇所は確かに歌なのですけれど、極めて教理的なこと、神学的な事柄について記されています。このことはとても大切な点だと思います。私共はキリストの教理、キリスト教神学というものは、後の時代の人が議論して作り上げたものだと思っているかもしれません。しかし、そうではないのです。確かに、三位一体などという言葉は聖書の中にはありません。しかし、その内容は、キリスト教が始まった時からあったのです。三位一体論の中心は、イエス様がまことの神であるという点なのですけれど、これを認めない人々と、イエス様がまことの神であるという人々との論争があったことは歴史的事実です。これに決着がついたのが325年に開かれたニカイア公会議です。この時、アタナシウスという神学者が、イエス様はまことの神であると強く主張したのですけれど、彼の決定的な論拠の一つは、自分たちは主の日の礼拝においてイエス様を拝んでいる、もし神様でないものを拝んでいるならばそれは偶像礼拝ではないか、だからイエス様は神なのだということでした。つまり、三位一体というキリスト教の根本教理は、イエス様を神様として拝んでいる礼拝、それが先にあって定められたということなのです。イエス様を神様として信じて拝むという私共の信仰の根本は、神学者たちが議論してそのように決めてそうなったということではないのです。キリストの教会がその初めから、主の日の礼拝においてそのように信じ、礼拝していたのです。
ここで記されていることも同じです。私共を一切の闇の力から解き放ち、神様と和解させてくださったイエス様とはどのようなお方なのか。それは、宗教的な天才であるパウロが一生懸命考えた末にたどり着いた結論がこういうものでした、というようなことではないのです。既に礼拝の中でこのように歌われている、このように信じられている、その事実が先にあったのです。このように信じ、生きているキリスト者の群れ、キリストの教会があったのです。それをパウロが記しているわけです。そして、ここを論拠に、キリストについて整った形で論じ、キリスト論と呼ばれるものが出来ていったということです。教理として定められる前に信仰があり、そのように信じるキリストの教会があったのです。この信仰を私共は二千年の間、受け継いでいるのです。もっと言えば、二千年前にこのキリスト賛歌を与えてくださった聖霊なる神様は、二千年の間働きかけ続けてくださり、代々の聖徒たちにそのように信じる信仰を与え続けてくださったのであり、そして今も働いてくださり、同じ信仰を私共に与え続けてくださっているということです。私共の信仰は、この聖霊なる神様によって与えらているものなのです。
4.神の姿である先在のキリスト
順に見てまいりましょう。15節「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」とあります。御子イエス・キリストは「見えない神の姿である」と言います。神様を見た者はいません。罪人である人間が絶対的に聖なるお方である神を見れば、それは滅びるしかないからです。しかし、この見えない神、天地を造られたただ独りの神の御姿を、人間イエスが現された。もちろん、それは手が二本あって、足が二本あって、目が二つあって、という意味での姿ではありません。御子イエス・キリストというお方は、神様の憐れみ、真実、愛を、具体的な言葉と行いとをもって明らかにされた方だということです。イエス様の言葉や為された業を見れば、神様がどのようなお方なのかが分かる、そういうお方だということです。
そして、御子は「すべてのものが造られる前に生まれた」と言います。この「生まれた」というのは、処女マリアから生まれた時のことを言っているのではありません。クリスマスの出来事は、神の御子であるキリストが人間イエスとして生まれた時、天におられた御子キリストがイエス様として地上の降って来られた時です。でも、ここで言っているのはそうではなくて、御子キリストが神様から生まれた時のことです。ここで御子は「生まれた」と言われていて、「造られた」とは言われていません。これはとても大切なことです。造られたのなら、御子も被造物となり、神ではなくなるからです。キリストの教会は、その初めから御子キリストを神として拝んでいました。だから、「生まれた」という言葉を使い、決して「造られた」という言葉は用いないのです。そして、御子が生まれたのはすべてのものが造られる前のことだというのです。天と地のすべてに先立って、御子キリストは神より生まれたお方なのです。神だからです。
5.すべてを創造された御子
そして、16節「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」とあります。この言葉ほど、御子キリストによって万物が創造されたということを明確に告げている所はありません。私共は、天地創造と言えば創世記の第一章を思い出します。そこに御子という言葉は出てきません。しかし、神様が「光あれ。」と言われると光があった、と記されています。聖書の一番最初のページの記事です。御子キリストはこの天地創造の業に関わられたということです。ある人は、ヨハネによる福音書の冒頭にあるように、御子は神の言葉である。従って、神様が言葉をもってこの世界を造られた時のあの神様の言葉こそが御子キリストなのだ、と言います。
御子は、天にあるものと地にあるもの、見えるものと見えないもの、すべてを造られました。「見えるものも見えないものも」というのは、私共がこの目で見える物質世界と、私共には見えない天使とか悪魔とか諸々の霊、或いはこの世界を成立させている秩序や法則といったものを指しています。「王座も主権も、支配も権威も」というのは、元々はそれぞれ天使の名前を意味していたと考えられています。しかし、この世の王座、主権、支配、権威を意味していると考えても良いでしょう。このことによって、聖書は御子キリストの前に立ちはだかることが出来る王も力も権威も存在しないということを告げているのです。
そして、万物は御子において、御子によって、御子のために造られたと聖書は告げます。これは、すべてのものは御子キリストの御支配の中で、御子の御心の中で、御子の御業の中で、造られたということです。御子に無関係に存在しているものなど何一つ無いということです。この世界も、天使も諸々の霊も、そして私共も、御子によって造られた。しかも、御子のために造られたのです。それは、この世界のすべては御子の御業にお仕えするため、御子の御心を行うために造られたということです。どのような力も、この御子に逆らうことなど出来ません。私共は、この御子キリストのものとされているのです。一体どんな力が私共に手を出すことが出来るというのでしょう。
17節「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」とあります。御子は、父なる神と共にこの世界のすべてを造られただけではなくて、この世界を支え、導き、支配しておられるのです。私共の命もまた、この方の御手の中で支えられ、守られ、導かれているのです。だったらどうしてこんなことが起きるのか、こんな目に遭わなければならないのか、そう言いたくなるようなことは確かにあるでしょう。そして悪魔は囁くのです。「御子の守りと支えと導きなんてありはしない。全部自分で努力して、自分の力で手に入れたものではないか。神様なんて頼るな。自分を頼れ。神の愛なんて絵空事だ。」この囁きに多くの者がやられてしまいました。この悪魔の囁きは、なかなか力があります。これによれば、何か成功すれば自分は大した者だとも思えますし、何よりこの世界の多くの人がその様に考え生きています。このように考えるのが現実的に思える。しかし、そこで人は自分の欲の虜になってしまっていること、闇の力に引きずられてしまっていることに気付きません。私共はこの悪魔の囁きに気をつけなければなりません。
6.悪魔の囁きを退けるために
では私共はどうすればいいのでしょうか。この囁きは耳を塞いでも聞こえてきます。心に囁いてくるからです。そして、これが聞こえなくなるということはありません。悪魔は私共が考えるよりもずっとずっとしつこいのです。では、どうすればこの悪魔の囁きを私共は退け続けることが出来るのでしょうか。それは、御子が私のために何をしてくださったのかを思い起こすことです。御子は私のために十字架にお架かりになってくださった。このことを思い起こすのです。まことの神の独り子であるお方が私のために、私に代わって十字架に架かり、そのことによって私は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者とされているということ、それを思い起こすことです。どんな闇の力も、私共の唇から「父よ」という神様への呼びかけを、神様との交わりを、奪うことは出来ません。そして、私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶ限り、神様との和解を与えられて神の子とされた私共は、神のもの、キリストのものとされ続けます。神様のもの、キリストのものとされている私共に、悪魔は指一本触れることは出来ません。これは確かなことです。
そして、もう一つ。この主の日の礼拝に集い続けることです。18節「また、御子はその体である教会の頭です。」とあります。キリストの教会は、御子キリストを頭とする体、共同体です。ここに連なることによって、私共はキリストの命と一つにされ、キリストの心を自分の心とし、キリストの御業に仕えることを何よりも喜ぶ者とされます。この交わりの中で、私共はキリストをほめたたえる歌を自分の歌として歌うことが出来るのです。私共は一人で悪魔と戦うのではありません。一人で戦えば負けてしまうでしょう。私共は愚かで弱く、サタンは賢くて強いからです。しかし、御子は悪魔よりも桁違いに賢く、桁違いに強いのです。天と地のすべてを造り、支え、更に死さえも滅ぼされたお方だからです。
18節b「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」とあります。御子は天地創造の時、すべてのものを父なる神様と共に造られました。そして、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになって、三日目に復活されました。これが第二の創造の時です。イエス様はこの復活によって、私共がやがて与る復活の命の最初の方となられました。死者の中から最初に生まれた方になられたということは、その後に続く者がいるということです。それが私共です。これが私共に与えられている約束です。私共の命はこの地上の死によって終わることはありません。サタンは囁きます。「人間、死んだらお終いだ。」私共は応えます。「いや、終わりではない。イエス様は復活された。私共は、天地の始まりから終わりまですべてを造り、支配される御子イエス・キリストのものだから、やがて時が来れば、その復活の命に与るのだ。これが神様から与えられている約束だ。サタンよ、退け。お前の口車に乗りはしない。」
神の御子イエス・キリストの御支配は、昨日も今日もそして永遠に変わることはありません。初代教会に生きた聖徒たちと共に、代々の聖徒たちと共に、神の子羊である御子イエス・キリストをほめたたえましょう。
[2019年2月17日]