1.はじめに
毎月最後の主の日は旧約から御言葉を受けています。今日も出エジプト記から順に御言葉を受けていきます。前回は、出エジプト記33章でした。
その前の32章において、イスラエルの民は、モーセがシナイ山からなかなか下りて来ないので、自分たちで金の子牛の像を造り、これを神とすることにしました。まことの神様から十戒をもらって契約を結んでから、まだ40日しか経っていないのにです。神様はこのことを知り、当然怒ります。モーセは直ちに山から下り、人々が子牛の像を囲んで踊っているのを見ると、神様からいただいたばかりの契約の石の板二枚を投げつけ、砕いてしまいました。そしてモーセは、レビの子らに三千人もの人々を殺させました。
その後、モーセはイスラエルの民を赦していただけるよう、神様に執り成しをします。それが33章でした。
モーセは、二枚の石の板を持って、再びシナイ山に登っていきます。改めて神様に契約を刻んでいただくためです。これが34章です。ここにイスラエルは、神様の赦しに与り、再び神の民として出直すことになりました。
2.神の民の出直しの歴史
神の民は、神様に赦され、神様の恵みを受けて出直すということを知っています。それは神の民に埋め込まれたDNAのように、すべての神の民に受け継がれています。神の民は、一回の失敗や過ちですべてが終わってしまうとは思いません。甘いと言われようとも、自分たちの歩みというものは、悔い改めて出直すことが出来ると信じています。何故なら、神様御自身がそれを私共に求めておられるからです。そして、神の民の歴史がその神様の御心をはっきりと示しているからです。
その具体的な例はいくらでも挙げることが出来ます。例えば、士師記において、「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。」(士師記2章11節ほか)と繰り返し記されます。何度も何度も繰り返し記されます。しかし、その度に、「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。」(士師記3章9節ほか)のです。この救助者が士師です。オトニエル、エフド、デボラとバラク、ギデオン、トラ、エフタ、サムソンといった士師が起こされ、イスラエルの民はこの士師と共に出直しました。何度も何度も出直したのです。
また、ダビデは、ウリヤの妻バトシェバとの間に罪を犯しました。預言者ナタンにそのことを指摘されたダビデは、「わたしは主に罪を犯した。」(サムエル記下12章13節)と悔いると、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。」と告げるのです。神様はダビデを神の民の王の位から退けはしなかったのです。やり直させるのです。出直しをさせるのです。
新約のペトロだってそうです。三回イエス様を知らないと言ってしまい、裏切ったにもかかわらず、再び弟子として召し出し、復活の証人として立て、使徒ペトロとして遣わすのです。
パウロだってそうです。キリスト者を迫害していたパウロを、異邦人伝道の使徒として召し出したのです。
あるいは、パウロやバルナバと一緒に伝道に行ったマルコは、その途中で帰ってしまいます。もう伝道者としては使い物にならないとパウロは思ったのでしょう。次の伝道旅行にはマルコを連れて行かないことにしました。しかし、バルナバはマルコを連れて行くのです。それでパウロとバルナバは別々に伝道することになりました。しかし、そのマルコがマルコによる福音書を書くことになるのです。
神の民の歴史は、神様の憐れみによるやり直しの歴史なのです。
3.主の憐れみの故に
皆、一度や二度、いや三度や四度の失敗はするのです。五度も六度も道から外れてしまうことだってあるのです。しかし、再び神様の御許に立ち帰るならば、神様は赦してくださり、再出発の道を備えてくださいます。神様はそういうお方なのです。
6~7節「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。』」とあります。このように自ら宣言されるとおりのお方です。実に神様は、御自身のことを「憐れみ深く恵みに富む神」と言われます。そういうお方であるが故に、私共のために、私共に代わって十字架にお架けになるために、愛する独り子を私共にお与えくださったのです。更に、「忍耐強く、慈しみとまことに満ち」ていると言うのです。忍耐強いお方であり、慈しみとまことに満ちたお方ですから、何度も何度も裏切ってしまうイスラエルでも決して見捨てないのです。イスラエルだけではありません。私共も、何度も何度も立ち帰り、赦していただいている。
神様がそのようなお方だから、御子イエス様も、ペトロに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と問われた時、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と教えられたのです(マタイによる福音書18章21~22節)。この7の70倍というのは、7の70倍である490回赦したら、491回目には赦さなくても良いという意味ではありません。聖書では、7という数字は完全数と呼ばれます。それの70倍というのですから、何回でも、どこまでも、最後まで、完全に、赦しなさいということです。イエス様は、その様に弟子たちに教えておきながら御自分はそのようになさらないということは考えられないでしょう。イエス様はそうしてくださいますし、イエス様がこのように言われたのは、父なる神様がそのようなお方だからなのです。
もちろん、神様は罰すべき者を罰せずにはおかれません。「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」なのです。しかし、一方で、「幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と言われるのです。罰するのは三代、四代。赦すのは幾千代。明らかに赦す方に力点があります。それが私共の神様なのです。ですから、十戒をいただいて神様と契約を結んだ時も、わずか40日後に決して赦されないような金の子牛の像を神とするという罪を犯したのに、それでもなお神の民イスラエルは出直すことが出来たのです。神の民はその最初から出直す民だったし、私共の神様は憐れみをもって出直しさせてくださるお方なのです。私共は、神様が赦してくださる限り、何度でも何度でも出直すのです。それが神の民です。
4.今日、御声を聞くなら
ヘブライ人への手紙3章15節に、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」とあります。神の声を聞いたなら、そこで自分の過ちをはっきり示されたなら、心をかたくなにすることなく、赦しを求め、神様に立ち帰らなければなりません。私共は、神様の声、神様の促しに対しては、素直でなければなりません。そうでないと、出直すことが出来なくなってしまうからです。
この時、神様がモーセに対して御名を宣言されると、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して言ったのです。9節「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」モーセは、イスラエルの民の赦しを求めることを躊躇しません。ストレートです。神様が自ら「憐れみ深く恵みに富む神」と言われたなら、すかさず「わたしたちの罪と過ちを赦してください。」と神様に赦しを求めます。神様もこのタイミングで言われたら、赦すしかありません。御自分のことを「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」と言った直後ですから、赦さないなんて言えません。実にモーセは賢いです。何よりも、御声を聞いたなら心を頑なにしないのです。赦しを求めるのです。このモーセの執り成しは、イエス様の執り成しを指し示しています。イエス様もまた、天において、父なる神様の右において、私共のために今も執り成してくださっています。だから、私共は神様に赦され、出直し、やり直すことが出来るのです。
私が毎月2回教誨師として刑務所に行くのは、この神様の憐れみによる出直し、やり直しを信じるからです。イエス様の執り成しによる出直し、やり直しがあることを信じるからです。私が相手にするのは、前科6犯とか8犯という、どう見ても更生するのは無理だろうと思える人ばかりです。20歳を過ぎてから塀の外にいる日より、塀の中にいる日の方が長いような人たちも少なくありません。でも、その人が「変わりたい。」と言うのです。私は「神様に変えていただきましょう。」と応えるしかありません。神様が変えてくださることを私は信じるからです。
私共が過ちを犯すのは、個人の単位でばかりではありません。教会という単位において過ちを犯すこともあります。十字軍などはどう見ても間違いでしょう。だったら、それを認めて、神様に赦しを求めて、新しくやり直したら良いのです。神の民は、キリストの教会は、過ちを犯さない。そんなことは全くありません。教会も罪を犯し、道を誤るのです。しかし、それで終わりではありません。やり直せるのです。何度も、何度もです。
5.神様の驚くべき御業を見る
神様は言われます。10節「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである。」これがやり直しをすることを許された神の民に対して為された神様の約束です。この「驚くべき業」「全地のいかなる民もいまだかつてなされたことのない業」「恐るべきもの」が何なのか。多分、神様がイスラエルの民の前から多くの民を退けることを意味しているのでしょう。しかし、それだけではないと思います。イスラエルの民が変えられる、大きく変えられる、そう受け取っても間違いではなかろうと思います。刑務所に入ろうと、或いは病院に入ろうと、出直すことが出来る。やり直すことが出来る。それが私共神の民に与えられている、希望に満ちた神様の約束なのです。
今、日本の教会は高齢化が進み、厳しい状態にあります。教区や教団の会議に行きますと、いつもその話です。確かに献金も少なくなり、援助を受ける教会も増えています。これからどうなるのか、どうすれば良いのか、色々話し合われます。しかし、神の民であり、キリストの体である教会がお金で建ったことは無く、お金が無くて潰れたこともありません。教会はただ信仰によって建つのです。ただ、神様の御業によって立つのです。お金によって立つのではありません。神の民の出発の時からそうでしたし、今もそうです。私共は神の民なのですから、神様のなさる驚くべき御業を見る者として召し出され、立てられているのです。私共が頑張って、何とかして教会を維持しましょうということではないのではないかと思うのです。神様から私共に求められていることは、今日、神様の御声を聞いたなら心を頑なにしないこと、悔い改めて神様の御言葉を信じること、神様の為される御業にのみ期待して歩むことです。神様はどのような驚く御業を私共のために為してくださるのか、その事を信じて期待することです。
6.契約を刻んだ石さえも
モーセは、石に再び契約を刻んでもらうためにシナイ山に登りました。最初の石の板を砕いてしまったからです。神様が石に刻んだ契約。神様が神の民と結んだ契約を石に刻んだのは、この契約は未来永劫変わらないということを示すためでしょう。石に刻まれた文字は消えることがないからです。ところが、その契約の石さえも作り直してくださるというのです。これが神様の御心です。短気ですぐに諦めてしまう、もうダメだと思ってしまう私共に対して、神様は十戒を刻んだ石を新しくしてまでも、ここに生き直せと神の民を招かれるのです。
その神様が与えてくださった、御子イエス・キリストの十字架。これによって与えられる罪の赦しの契約。これは、何度も何度でもやり直し、出直しするように私共を促すのです。私共は、神の子・神の僕として歩むようにと、先週の主の日の礼拝から一週の歩みへと送り出されました。しかし、祈ること少なく、神様の栄光ではなくて自分の栄光を求め、愛の労苦に仕えること少ない私共でありました。それでも尚、主の日にここに集い、共に「わたしの子、わたしの僕として生きよ。新しく生きよ。」そう神様に促される私共です。確かに、喉元過ぎれば熱さを忘れるような私共です。同じような過ちを何度も繰り返してしまう私共です。しかし、それでもやり直したいのです。出直したいのです。神様はそのような私共を憐れみ、聖霊を注ぎ、新しい歩みを始めるための力と勇気を与えてくださいます。この聖霊のお導きの中で、健やかに、勇気を持ってやり直し、出直しして、この一週も御国に向かっての歩みを為してまいりたいと思うのです。
[2019年2月24日]