1.はじめに
聖書の言葉には、私共の人生の様々な出来事と重なって特別な意味を持つ御言葉となるものがあります。愛唱聖句と呼ばれるものはそういうものです。自分の人生の出来事と結びついた御言葉は、特別な御言葉となります。皆さんもそのような御言葉を持っておられると思います。
今朝与えられております御言葉は、その意味で私にとりまして特別な御言葉です。決して忘れられない御言葉です。と申しますのは、私はこの御言葉の説き明かしを聞いて、イエス様と生涯共に歩んでいきたいと思い、洗礼を受けることを決めたからです。そしてまた、私が講壇に立って初めて説教したのも、この聖書の箇所でした。神学校の夏期伝道実習で高知県の幾つかの教会を回らせていただいた時のことです。もう30年以上前になりますが、あの時の説教の最初の言葉は今でも覚えています。その後、牧師となって2000以上の説教を語ってきたわけですが、説教の出だしの所を覚えているのは、あの説教だけです。「イエス様は、いつも私共の思いを超えたあり方でその姿を現されます。」というものでした。それから何度もこの箇所で説教してきましたけれど、どうしても自分が洗礼へと導かれた時の説き明かしから離れることは出来ません。あの時に、イエス様との出会いがあり、福音理解の構造が与えられた。その福音理解の筋道は、今も少しも変わっていません。
2.夜通し舟を漕ぐ
この時、イエス様は湖の上を歩いて弟子たちの所に来られました。弟子たちは、逆風のため逆巻く波に悩まされて、舟を進めることが出来ないでいたのです。弟子たちが舟を出したのは前の日の夕方です。イエス様が弟子たちの所に来たのは「夜が明けるころ」でしたから、弟子たちは夜通し舟を漕いでいたのです。でも、向こう岸に着けない。
弟子たちが舟を出していたガリラヤ湖は、南北20km、東西10kmくらいの湖です。波の穏やかな、風の無い日だったら、1、2時間もあれば十分向こう岸に着くはずでした。ところが、この日は強い逆風と大きな波で、漕いでも漕いでも進まない。舟は陸から「何スタディオンか離れ」た所で夜通し波間に揺られておりました。1スタディオンは約185mですから、岸から2kmか3km離れた辺りで立ち往生していたということです。この舟というのは、二千年前の漁師が使う手漕ぎの舟で、一般的には3人か4人しか乗れなかったと思います。ですから、この時12人の弟子たちは何艘かに分かれて舟に乗り込んでいたと思います。弟子たちの中には、このガリラヤ湖の漁師だった者が何人もいました。ペトロにアンデレ、ヤコブにヨハネです。彼らはこのガリラヤ湖で漁師をしていたのです。ですから、舟の扱いが下手で前に進めなかったわけではありません。漁師が操ってもどうにもならないほどの逆風と波だったのです。
二千年前のことですから岸に灯りもありません。真っ暗闇の中、強い風の音が鳴り響き、波が舟を打ち続ける。弟子たちはどっち向かって漕いだら良いのかも分からなくなっていたのではないでしょうか。漁師だった故に、彼らは水の怖さをよくよく分かっていました。もうダメかもしれないと思ったかもしれません。そして、夜が明け始めます。ガリラヤ湖を囲んでいる山の姿が黒くうっすらと見え始めた頃です。何とイエス様が湖の上を歩いて近づいて来られたのです。
3.イエス様が湖上を歩いて近づく
26節「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」とあります。イエス様は弟子たちを助けに来られたのでしょう。しかし、弟子たちはそのイエス様を見て、幽霊だと思ったのです。無理もありません。強い逆風の中、逆巻く波の上を、人の形をしたものが歩いて近づいて来る。弟子たちが幽霊だと思ったのも当然です。彼らは恐怖のあまり叫び声をあげ、パニック状態になった。イエス様が湖の上を歩いて来る。これは全くの想定外です。弟子たちは自分たちに近づいて来る、人の形をしたものがイエス様だなんて思ってもいませんでした。
すると、イエス様は弟子たちに話しかけられます。27節「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」この言葉。弟子たちが恐れおののき、叫び声をあげ、パニック状態に陥っている姿と、何と対照的なことでしょう。イエス様は弟子たちの思いを遥かに超えたお方でした。そうなのです。イエス様は私共の思いを遥かに超えたお方、天と地のすべてを造られたただ独りの神様の御子です。ですから、湖上を歩いて弟子たちの所に来ることが出来たのです。
弟子たちは、強い風と逆巻く波に木の葉のように揺れる小舟で、暗闇の中で夜通し漕いでも漕いでも岸に着くことが出来ず、もうダメかもしれないという恐れを抱いている時に、水の上を歩いて近づいて来るイエス様と出会ったのです。イエス様は、「安心しなさい。」と言われる。これは「勇気を出せ」「元気を出せ」という言葉です。弟子たちは疲れ果てているのです。もうダメだと思っているのです。その弟子たちに、イエス様は「元気を出せ。」「勇気を出せ。」「しっかりしろ。」と言われた。この言葉は、その後弟子たちが復活のイエス様によって全世界に福音を伝えていく中で、何度も思い出し、何度も聞き取っていくことになります。
キリストの教会のシンボルは、今はほとんど十字架だけが使われていますけれど、初代教会から長い間、舟も用いられてきました。時代の荒波の中、逆風の中を進んで行く舟。神の国という向こう岸に向かって進んで行く舟。それがキリストの教会です。この舟に象徴されるキリストの教会は、逆境の中でいつもこのイエス様の御声を聞いてきました。「安心しなさい。元気を出しなさい。勇気を出しなさい。しっかりしなさい。恐れるな。」との御声を聞き続けてきました。この舟に乗っている弟子たち、そしてキリスト者一人一人は、人生の荒波の中でこのイエス様の御声を聞いてきました。このイエス様の御声は、今も私共に語られ続けています。
4.わたしだ=エゴー・エイミー
この時イエス様は「わたしだ。」と言われました。これは、「幽霊ではない。わたしだ。イエスだ。」という意味もあるでしょう。しかし、もっと重大な意味がこの言葉にはあります。「わたしだ。」英語では「I am.」となりますが、元のギリシャ語では「エゴー・エイミー」となります。この「エゴー・エイミー」という言葉は、出エジプト記3章14節において、モーセが神様に名前を尋ねると、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と答えられました。この「わたしはある」という神様の名前、それがギリシャ語訳では「エゴー・エイミー」となるのです。イエス様はここで、弟子たちに「エゴー・エイミー」と言うことによって、「わたしは神だ。この天地を造った者だ。あのモーセが出会った神だ。」そう宣言しているのです。だから、「恐れるな。」と続くのです。どんなに逆風が吹こうが、高波が行く手を阻もうが、まことの神であるイエス様がいてくださる。イエス様が、元気を出せ、恐れるなと言われる。だから大丈夫。キリストの教会は、このイエス様の御声と共に、二千年の間歩んで来たのです。
5.舟の上から水の上へ踏み出す
ここで、ペトロが突拍子もないことを言い出します。28節「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」私は、ペトロは本当にすごい人だと思います。イエス様が「エゴー・エイミー」、わたしは神だと言われた。だからペトロは、「イエス様は神様なんですから、その力でわたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言い出したのです。ここにあるのは、ペトロのイエス様への信頼です。そして愛です。ペトロは単純にイエス様の言葉を信頼し、そしてイエス様の所に行きたかったのだと思います。イエス様は、このペトロの申し出を退けたりされません。イエス様は「来なさい。」と言われます。ペトロはこのイエス様の言葉に従って、舟から降りて水の上を歩いて、イエス様の方へ進んだのです。
皆さん、想像してみてください。舟の上から水の上へ一歩を踏み出す。これは尋常ではありません。この一歩は、信仰による最も大いなる一歩だと思います。出来る、出来ない、そんな計算や見通しが入る余地はありません。イエス様が「来なさい。」と言われた。だから、舟から水の上へと一歩を踏み出した。それだけのことです。これが信仰というものなのでしょう。
しかし、ペトロは強い風に気がつきます。イエス様だけを見て、イエス様の言葉だけを信頼していた時は怖くなかった。しかし、強い風に気がつくと急に怖くなったのです。するとペトロは沈みかけ、おぼれかけてしまいます。これもまた、ペトロです。そして、私共の信仰の歩みの姿でもありましょう。
この時、ペトロはどうしたでしょうか。彼は元漁師ですから、泳ぐのは得意だったはずです。でも、彼は自分の泳力でこの状況を抜け出そうとはしませんでした。「主よ、助けてください。」と叫んだのです。
6.ペトロを捕まえて言われた。「信仰の薄い者よ。」
ここが大事な所です。ペトロはイエス様に助けを求めたのです。そして、そのペトロに対して31~32節「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」とあります。イエス様は、ペトロの助けを求める叫びを聞くと、「すぐに手を伸ばして捕まえ」られたのです。それから言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」この順番が決定的に大切なのです。この説き明かしで私は洗礼を受けようと決めました。イエス様がペトロに「信仰の薄い者よ。」と言われた時、イエス様は既に手を伸ばしてペトロを捕まえておられたのです。「信仰の薄い者よ。」と言われた時、ペトロは既にイエス様に捕らえられ、溺れないようにされているのです。これが私共に与えられている救いの現実、イエス様によって与えられた福音の筋道です。
私共の信仰の歩みは、いつもたどたどしいのです。イエス様を信じて歩み出したのだけれども、現実の様々な困難、問題に直面すると、もうダメだと思ってしまう。「安心しなさい。わたしだ。恐れるな。」とのイエス様の御声を聞いても、「この現実はどうにもならないではないか。」と思ったりしてしまう。そして、「私は信仰の薄い者だ。とてもイエス様に従って生きていくなんて出来ない。」そんな思いさえ湧いてくる。洗礼を受ける前、私共の多くは「自分は本当に生涯イエス様に従って生きていけるだろうか。自信がない。」と思ったのではないでしょうか。「私は何て信仰の薄い者なのか。」と思う。それが普通なのです。当たり前なのです。しかし、聖書は告げるのです。そのように自分の信仰が何と小さく、頼りないものかと思う時、安心しなさい。あなたは既にイエス様の御手に捕らえられている。イエス様の「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」との御声を聞いたのなら、喜び、喜べ。あなたはもうイエス様の救いの御手にしっかり捕らえられている。これが私共に与えられている救いの現実なのです。一生懸命、歯を食いしばって、頑張って、良い人になって、正しい人になって救われるのではありません。私共の信仰の歩みはたどたどしく、弱く、破れるのです。しかしその時、「主よ、助けてください。」とイエス様に助けを求めるなら、イエス様は必ず私共を助けてくださいます。そして、自分の信仰の薄さを嘆く者は、既にイエス様の御手にしっかり捕らえられているのです。これが私共の救いの現実であり、福音の筋道なのです。その恵みの事実、イエス様による救いの現実の中で、私共は神の国という向こう岸に向かって舟を漕ぎ続けていくのです。
7.イエス様が舟に乗せたにもかかわらず
そもそも弟子たちが舟を出したのは、22節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」とありますように、イエス様がそうさせたのです。「強いて舟に乗せ」たのです。弟子たちが自分から自発的に舟を出したのではないのです。イエス様が舟に乗せたのだから、向こう岸に行かせようとされたのだから、何事もなく無事に着けるはずだと私共は考えます。しかし、そうはいかないのです。私共の人生には、逆風が吹いたり、高い波に揉まれてもみくちゃになってしまうようなことが必ずあるのです。この時もそうでした。イエス様が舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせた。それなのに逆風に阻まれ、舟はちっとも進まない。イエス様は何もしてくれないかのように見える。しかし、この時弟子たちは、自分たちの思いを超えてイエス様が現れてくださり、風を静めてくださるという経験をしました。イエス様が自分たちと共にいてくださらないと思うような時でさえ、イエス様は自分たちの苦しみを御存知であり、自分たちの思いを遥かに超えたあり方で助けてくださることを知ったのです。
困難の中、苦難の中でしか学べない、神様の恵みの現実というものがあるのです。私共の歩みもそうなのです。困難の中で問題に直面した時に、「勇気を出せ。恐れるな。わたしがいる。」との御言葉を聞くのです。そして、本当に神様は生きて働き、私共を向こう岸へと導いてくださっているということを知るのです。この経験を重ねていくことが私共の信仰の歩みなのです。
週報にありますように、私共の敬愛するK・T姉が、一昨日、天の父なる神様の御許に召されました。御遺体が母子室に運ばれています。明日、前夜式を、明後日、葬式をここで執り行います。皆さんも突然のことで驚かれたことと思います。私も、今日はK姉に会えるものだとばかり思っておりました。K姉の死は突然のことでしたけれど、神様が向こう岸へと導かれたことであります。肉体の死は終わりではなく、それによって私共は神の国へと召されていくのです。
私共は今から聖餐に与ります。イエス様が聖霊としてここに臨み、「我が肉を食べよ。我が血を飲め。我が命に与れ。」と言われます。「わたしだ。わたしはここにいる。勇気を出せ。恐れるな。」そう告げてくださっているのです。そして、私共一人一人に御手を伸ばして捕らえてくださり、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と告げられる。この御声に応えて、イエス様だけを見上げて、信仰の一歩をそれぞれの与えられている場において踏み出していきたいと思います。
[2019年3月3日]