1.汚れるとは
イエス様はこう告げられました。11節「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」この言葉を聞いて、ファリサイ派の人々は「つまづいた」と聖書は告げます。「つまづいた」というのは、「何てことを言うのか。このイエスという男はとんでもない奴だ。」そう思って腹を立てたということです。何故この言葉がそんなにファリサイ派の人々の怒りを買うことになったのか。それは先週見ましたように、彼らは、「汚れ」というものは自分の外にある、だからそれに触れたり、それを食べたりしなければ自分たちは清いと考えていたからです。自分たちは神様が与えた律法を完全に守っている。だから清い。神様の御心に適っている。一方、律法を守っていない者は汚れた者、神様の御心に適わず、神様から離れており、決して救われない者だと考えていました。
汚れているのは律法を守らない人。当然、それは異邦人を含んでいますし、当時いわゆる罪人と考えられていた人々、徴税人、犯罪者、売春婦といった人も彼らから見れば汚れた人々でした。ですから、ファリサイ派の人たちはそういう人たちとは決して食事をしませんでした。もし食事を共にすれば、彼らの汚れが移る、自分たちも汚れると思っていたからです。これが彼らの正しさでした。ここには明らかに高慢の罪が現れていますが、彼らは決してそのようには自分たちを考えてはいませんでした。
また、汚れた食べ物もありました。これはレビ記11章に記されていますけれど、食べてよい動物は、「ひづめが分かれ、しかも反すうするもの」と決められておりました。ですから、牛は食べて良いのですが、豚はダメということになります。魚は、「ひれやうろこのないものは汚れている」となっていますので、ウナギやドジョウはダメです。爬虫類もダメです。それらはリストになっていて、食物規定として定められておりました。この汚れたものを食べますと、自分も汚れてしまう。だから食べないのです。
食事の前に手を洗うというのも、この汚れから身を守るための大切な儀式であり、決しておろそかにしてはならない生活形態となっていたのです。ところが、イエス様の弟子たちは手を洗わないで食事をする。これを見たファリサイ派の人々がそれを指摘した。そこで、イエス様とファリサイ派の人々との間で議論になった。その時イエス様が告げられたのが、冒頭で申し上げました「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」という言葉だったのです。
これは、生活の隅々まで律法を守ることによって汚れから身を守り、神様の御心に適った者となって救いに与ろうとするファリサイ派の人々と律法学者たちに対する全否定でした。それで、この言葉に彼らはつまづいた。こいつは話にならんと腹を立てたということなのです。
2.食物規定
イエス様の言葉は、ファリサイ派の立場に立てば、腹を立てるのが当然と言えるものでした。何故なら、このイエス様の言葉は、外にある汚れから身を守ることによって自らを清く保ち、救いに与るというあり方、考え方そのものに対して、「違う」と言っているからなのです。
このファリサイ派の人々のような汚れについての考え方は、いつの時代でも、どこの文化においても見られるものです。何らかの宗教的儀礼を定めて、それに従うことによって清い者となる。救いに与る。そういう発想です。それはしばしば、宗教的な意味を持つ習慣、生活様式といったものにもなっていきます。日本にもたくさんあります。最近はうるさく言いませんけれど、しめ縄とか、葬式の後の精進料理とか清め塩とか、色々あります。食物規定もどの宗教にもあるものだと思います。ユダヤ教やイスラム教は、今もこの規定をかなり厳格に守っています。キリスト教には食物規定はありません。その根本には、このイエス様の言葉、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」があるのです。
しかし、歴史的に言いますと、キリスト教も最初からそうだったわけではありません。最初のキリスト者の多くはユダヤ人でした。十二使徒は全員ユダヤ人です。彼らは生まれたときから長い間、食物規定に従って生活しておりましたので、それを無しにするということには相当抵抗があったはずです。これは、例えが悪いかもしれませんが、私たちが蛇や昆虫を食べられなかったり、関西の人に納豆は栄養があって美味しいよと言っても手を付けないのを考えれば想像出来ると思います。しかし、異邦人キリスト者はユダヤ教の食物規定を最初から知りませんから、平気で何でも食べる。そして、キリスト教会の中に異邦人キリスト者が増えていきますと、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間で、食べ物を巡っての対立が起きます。同じ教会の中で一緒に食事が出来ないという状況が生まれてしまいました。これは由々しき事態です。そこで、エルサレムにおいて会議が行われて、食物についての定めが出来る。このことが使徒言行録15章に記されています。現在私共が何も気にせずに食べたり飲んだりすることが出来るのは、このお陰です。
3.罪の心から出る汚れ
さて、イエス様が問題にされたのは、外から来る汚れではなくて、私共の内にある罪です。18~20節a「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」とイエス様は言われました。汚れたものは食べない。汚れが口から入らないように食事の前には手を洗う。そんなことをいくらしても、私共の心の中は清くなることはない。その証拠に、心から色々な悪いものが出て来るではないか。その心から出るものが、私共を神様の御心に適わない者、つまり汚れた者にしてしまうのだ。そうイエス様は言われました。そして、その罪の心、神様の御心と離れている心、それをちゃんと見ないで、手を洗っているから自分は清い、汚れたものを食べていないから自分は清いと言うのは誤魔化しだ。嘘だ。間違いだ。そうイエス様は言われたのです。自分の心をちゃんと見よ。自分の日々の歩みが本当に神様の御心に適っているか、ちゃんと見よ。そう言われたのです。
これは、ファリサイ派や律法学者に代表される当時のユダヤ教の人々の根本的な宗教意識に対しての否でした。自分はちゃんと宗教的儀礼を守っている。罪を犯した時には神殿で犠牲もささげている。だから、自分は神様の御心に適っている者だ。そう考えるのがユダヤ教です。しかし、イエス様は心を問題にされたのです。「自分は正しい」と考えるその心を問題にされたのです。人は、自分は正しいと考えたい。しかし、それは神様の御前に立って、そう言い切れるのか。人は、外に表れた行為しか見えません。だから、人はそれしか問題にしない。問題に出来ない。しかし神様は、私共以上に私共の心の奥底までも御存知です。あなたは神様の前に立って、自分は正しいと言えるのか、本当に言えるのかとイエス様は迫っているのです。
神様は十戒を与えて、私共に求めることがどういうことなのかをお示しになりました。十戒の後半は、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな、です。イエス様が19節で言われていることは、これに対応しています。イエス様はここで、十戒違反だとは言っておられませんけれど、ここに挙げられているのは確かに十戒の後半に対しての違反です。そして、この神様の御心に反するこのような行為はどこから来るのか。それは心からではないか。心が神様の前に清められていないからではないか。神様の御心に適っていないからではないか。そう言われたのです。
イエス様は、汚れはあなたがたの外にあるのではなくて、あなたがたの中から、罪の心から出る、そう告げられました。イエス様は、宗教的儀式、儀礼を守ることによって清い者であろうとしたファリサイ派の人々に対して、自らの心にある罪を認め、罪人として神様の前に立て。そうしない限り、あなたの心は清められることはないと言われた。このイエス様の指摘をファリサイ派の人々は分かったでしょうか。彼らは分かりました。完全に分かりました。だから、つまづいたのです。自分たちが大切にしている、自分の正しさの根拠を完全に否定されたということが分かった。しかしこの時、「ファリサイ派の人々は、イエス様の告げられることがよく分かった。だから悔い改めた。」とはなりませんでした。ファリサイ派の人々が特別なのではありません。残念なことですけれど、それほどまでに「自分は正しい」とする思いが人間には強いのです。
4.ファリサイ派の人々への厳しい言葉
イエス様は、そのようにつまづいたファリサイ派の人々に対して、13~14節で「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」と告げられました。ファリサイ派の人々を「目が見えない人」だと言うのです。それは、自分の罪が見えない人ということでしょうし、神様の御心が見えない人、救いへの道が見えない人ということです。目の見えない人が目の見えない人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちる。それと同じだと言われる。この「穴」とは、滅びの穴ということでしょう。大変厳しい言い方です。そんな風にイエス様に言われてしまうファリサイ派の人々が可哀想ではないかと思われる方もおられるかもしれません。
しかし、イエス様は何もファリサイ派の人々が滅んでしまえばいいと思っておられたのではないのです。イエス様は13節で「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。」と言われましたが、この「天の父がお植えにならなかった木」というのを、「ファリサイ派の人々」と取るか、聖書に記されていない律法、即ち「昔の人の言い伝え」と取るか、です。私は、「ファリサイ派の人々」とは取らない方がいいと思います。イエス様はここで、救いというものは神様が与えるものであって、自分の手でつかむものではないと言われているのです。「昔の人の言い伝え」というものは、神様がお植えになった木ではないから、やがて抜かれる。「昔の人の言い伝え」は結局の所、自分の手で、自分の力で救いを手に入れようとすることにつながるからです。しかし、救いは神様が与えるもの。神様が選んだ者が救いに与る。神様がお植えになった木だけが残る。そう言われた。ファリサイ派の人々が今のままならば、滅びの穴に落ちてしまうのを誰も止められません。しかし、これですべてが決まってしまうのではありません。道はあります。ないはずがありません。
5.永遠の招き
イエス様は誰よりも人間の罪を知っておられました。神の御子として、神様が私共の心の奥底まで、私共以上に私共の心を御存知であるように、イエス様もまた、私共の罪をよく御存知でした。ファリサイ派の人々が律法を守らない人や異邦人を汚れた者として見下していることも、それが高慢の罪であることも知っておられました。だからといって、「お前たちは自らの罪を知らないから、それ故悔い改めのことがないから、もう滅びるしかない。」、そう言い放って終わり。イエス様はそんなお方ではありません。そんなお方であるならば、どうして私共が救われましょう。
ここで私共は、このようにファリサイ派の人々の罪も私共の罪もよくよく知っておられたイエス様が、十字架にお架かりになった方であるということを忘れてはなりません。イエス様の御言葉はすべて、私共罪人のためにその身代わりとなって十字架にお架かりになったお方の言葉なのです。私共の心に罪があり、そこから十戒を破る悪い言葉、悪い行いが出て来る。そのことを知っておられるが故に、その罪を神様に赦していただくために、十字架にお架かりになってくださった方です。ですから、イエス様による罪の指摘は、「そのことを知って悔い改めよ。わたしの十字架による贖いを信じて、安んじて自らの罪を認め、赦しを求めよ。そうすれば、あなたは新しくなる。神の子となる。神の僕として神様との親しい交わりの中に生きる者となる。」そう招いておられる言葉なのです。
この時、ファリサイ派の人々は、残念ながらこのイエス様の招きを拒んでしまいました。しかし、この招きは永遠の招きです。罪人が何度拒んでも、それでも招き続けます。この招きが無効になることはありません。何度拒んでも、最後に受け入れるならば救われます。
6.イエス様の招きに応えて
私共は正しい者になりたいと思います。神様の御前に正しい者として歩んでいきたいと願います。しかし、この口は本当に困ったものです。聖書はこう告げます。ヤコブの手紙3章5~6節「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」、8~10節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」とあります。この聖書の言葉を、自分とは関係ないと言える人がいるでしょうか。私共が起こす問題の多くは、この口によってもたらされます。日本でも「口は災いの元」と言われているとおりです。あんな言い方をしなければよかった。もっとこう言えばよかった。そんな反省をしたのも一度や二度ではないでしょう。そんなつもりで言ったのではないのだけれど、と言っても後の祭りということも少なくない。
これが私共の現実です。その現実の中で、私共はイエス様の招きを聞くのです。イエス様の招きに対して、私共は「私は思いにおいて、言葉において、行いにおいて、罪を犯しました。赦してください。あなたの子、あなたの僕として生かしてください。」そう祈るしかありません。神様はイエス様の十字架の故に、この祈りを退けることは決してなさいません。必ず聖霊を送ってくださり、私共の心を変えていってくださいます。それが完成されるのは神の国においてです。しかし、そこに至るまで、神様は私共を変え続けてくださいます。私共はそれを信じて良いのです。
私共が洗礼を受けた、聖餐に与っている、それはこの宗教儀礼によって私共が清められたということではありません。自らの罪を知り、それを悔い改める者として生きる者となったということです。神様の御前に立つ者となった。この神様の救いの約束の中に生きる者となったということです。たとえ罪を犯しても、その度にまた御心に適う者として新しく歩み出す者となったということです。何度でも何度でもです。私共は主の日の礼拝のたびごとに、そこに立つのです。
今朝も神様は、私共の一切の罪を知った上で、それを赦してくださるお方として、私共を招いてくださっています。この招きに応えて、罪赦された者として新しくここから歩み出していきたいと心から願うのであります。
[2019年3月17日]