1.イースターを迎えて
今朝私共はイエス様の御復活を記念して礼拝を守っています。昨日は、18日に天の父なる神様のもとに召されたS・S姉の葬式をここで行いました。たくさんの方が来られました。愛する者の死はまことに悲しいことでありますけれど、昨日の葬式において私共は、復活の希望に生きるということを改めて心に刻みました。先週は受難週の祈祷会や訪問聖餐も行われ、イエス様の御苦難と十字架の死が私共のためであることを覚えました。それは同時に、私共の死がイエス様の死と結ばれている、それ故に私共は死んで終わりなのではなくて復活するのだということを覚える時ともなりました。私共の死はイエス様の死と結ばれ、イエス様の復活の命へと至る。使徒パウロはこのことをローマの信徒への手紙6章5節において、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と告げました。私共は必ず死ななければなりません。しかし、それで終わりではない。イエス様が復活されたように、必ず復活することになっている。昨日葬式をしたS・S姉は、そのことを信じるが故に、昨年8月に末期の大腸ガンが発見されて以来、自らの死の備えの日々を自覚的に過ごされました。それは、死が終わりではないことを信じていたからです。まことに見事な、鮮やかな、キリスト者としての最期でありました。
今朝はこの礼拝の中で二人の方が洗礼を受けられます。洗礼を受けるとはどういうことなのか申し上げたいと思います。それは、イエス・キリストというお方と結び合わされ、一体とされるということです。一体とされるが故に、イエス様の十字架の死は私の死となり、イエス様の復活は私の復活となるのです。イエス様と一つにされるが故に、イエス様の喜びは私の喜びとなり、イエス様の悲しみは私の悲しみとなります。イエス様が願われることを私共も願うようになるのです。
先日、S・Y兄が受難週の祈祷会の奨励をしてくれました。それは祖母のS・S姉が昼に天に召された、その日の夜のことでした。昨年のペンテコステに信仰告白をされたY兄の、瑞々しい信仰の証しでした。その中でY兄はこう言いました。「自分が信仰告白をした時、みんなに『おめでとう』と言われたけれど、何がそんなにおめでたいのか、よく分からなかった。」私もそうでした。皆さんもそうだったのではないでしょうか。「ところが今は、中高生のキャンプで一緒だった子が洗礼を受けたと聞くと、本当に嬉しいと思うようになった。」と証ししておられました。そうなのです。それは、イエス様の喜びがY兄の喜びとなったということです。この変化は小さなことではありません。Y兄はそれを、「聖霊の導きだ」と言っていました。何という成長かと、私は彼の証しを聴きながら、本当に神様のなさることはすごいと思いました。洗礼を受ける、信仰告白をするということはこういうことなのだと改めて教えられました。S・S姉に聞かせてあげたかったです。
2.わきへ転がされた石
さて、今朝与えられております御言葉は、マタイによる福音書が告げるイースターの朝の出来事です。
マグダラのマリアともう一人のマリアが、日曜日の朝、イエス様の墓に行きました。イエス様は金曜日の午後三時に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られました。当時のユダヤの一日は日没から始まります。金曜日の日没からは土曜日になるということです。土曜日は安息日。何をすることも出来ません。そして、安息日が終わった日曜日の朝に、二人の女性の弟子がイエス様の墓に行ったのです。
マルコによる福音書やルカによる福音書は、彼女たちがイエス様の体に香料を塗るために行ったと記しています。イエス様は十字架の上で死なれましたが、安息日が始まるまで時間がなかったので、ただ布にくるんだだけで墓に葬られました。そのことが気にかかっていたということだったのかもしれません。せめて人並みに、当時の葬りの作法に則ってイエス様を葬りたい。彼女たちはイエス様の御遺体が葬られている墓に行きました。彼女たちは、イエス様が復活されることを信じて墓に行ったのではありません。そんなことは少しも考えていませんでした。三度もイエス様が十字架と復活の予告をしていたのにもかかわらずです。
墓に行った彼女たちは、驚くべき出来事に遭遇しました。何と大きな地震が起きて、イエス様の墓に蓋をしていた大きな石がわきへ転がり、その上に天使が座ったのです。他の福音書は、彼女たちが行くと石はわきに転がしてあったと記しています。いずれにせよ、当時のユダヤの墓は横穴でしたから、蓋をしていた石がわきへ転がされることによって、イエス様の御遺体を納めた墓の中が見えるようになったのです。
私は随分長い間、この出来事を勘違いしていました。墓の石がわきへ転がっていたのは、復活して墓を出る時に石が邪魔だから、イエス様がわきに転がされたのだ、何となくそう思っていました。しかし、そうではありません。マタイが記す2節の「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし」という言葉を見落としていたのです。復活されたイエス様にとっては、墓から出るのに石なんて少しも邪魔ではありませんでした。ヨハネによる福音書では、復活されたイエス様は、弟子たちが家の戸に鍵を掛けていたのに家の中に入って来られたことが記されています。復活されたイエス様なら、大きな石があってもスーッと出て来られたでしょう。だったら、どうして石をわきへ転がす必要があったのか。それは、この女性の弟子にせよ、他の男の弟子にせよ、弟子たちがイエス様の墓の中を見て、その中にイエス様の遺体がないことを知るためだったのです。弟子たちのために、空の墓を見せるために、石はわきへ転がされたのです。だから、天使は婦人たちに、6節「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」と言うのです。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」です。石がどけてなければ墓の中を見ることは出来ません。
3.恐れながら喜ぶ
この石の上に天使が座った。それを彼女たちは見ました。他にもこの光景を見た人がいました。イエス様の墓の番をしていた番兵です。弟子たちがイエス様の遺体を盗み出さないように見張りとして立てられていた番兵です。4節「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」とあります。地震、大きな石が転がる、そして聖なる天使が目の前にいる。こんな光景が目の前で起きれば、恐ろしさのあまり震え上がって死人のようになっても不思議ではありません。この時、この世のものとは思えない聖なる出来事が彼らの前で起きたのです。
しかし、同じ場所で、同じ出来事を見ても、その受け取り方は全く違います。番兵たちはただただ恐ろしかった。一方、婦人たちは恐ろしかっただけではありませんでした。それは、天使たちが自分たちに語りかけたからです。天使は言います。「恐れることはない。」婦人たちも恐ろしかった。それはそうです。その点では番兵と変わりません。しかし、彼女たちはその恐ろしいと思っている天使から「恐れるな。」と声を掛けられます。この天使の言葉によって、この出来事はただ恐ろしいというだけではない。この出来事は自分と無関係のことではない、自分たちと関わりのある出来事であることを知らされたのです。恐ろしいことが恐ろしいだけではなくなるには、言葉が必要です。それも、自分に語りかけてくる言葉です。天使は語ります。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
確かに、彼女たちは十字架につけられて死んだイエス様の所に来たのです。しかし、天使は「ここにはおられない。」と告げます。なぜなら、イエス様は復活されたからです。この時天使は、「かねて言われていたとおり」と言います。そうです。イエス様は三度も御自身が苦しみを受けて死ぬこと、そして復活することを語っておられました。しかし、婦人たちは、天使に告げられるまでそのことをすっかり忘れていたのです。この言葉を聞いて、「そういえば。」と思い出したことでしょう。それは、この婦人たちが特に忘れっぽかったとか、不信仰であったということではありません。復活の出来事とは、それほどまでにあり得ないこと、受け入れられないこと、信じられないことだったということです。皆さんの中で、信仰が与えられる前、教会に集い始めた頃、イエス様の御復活を信じることが出来た人がいるでしょうか。まして、自分も復活すると信じることが出来た人がいるでしょうか。牧師がいくらこのことを教えても、何を言っているのか、と思っておられたのではないでしょうか。私自身もそうでした。
天使は続けて言います。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」彼女たちは、イエス様の遺体の置いてあった墓の中を見たことでしょう。ここで、石がわきへ転がっている必要があったのです。イエス様の遺体はありませんでした。天使は婦人たちに、7節「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」と告げます。このような天使のお告げを聞いた婦人たちはどうだったかと言いますと、8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とあります。彼女たちは、「恐れながらも大いに喜び喜んだ」のです。まだ、天使に出会った恐れは消えていません。しかし、天使の告げた知らせは、彼女たちを喜ばせました。死んでしまった、もう会えない、そう思っていたイエス様が生きている。死んでいない。またイエス様に会うことが出来る。その喜びが彼女たちに湧き上がりました。天使と出会ってしまった。言葉を聞いてしまった。恐ろしい。しかし、嬉しい。恐ろしくて嬉しくて、彼女たちは混乱していたと思います。そして、彼女たちは弟子たちの所へ走ったのです。彼女たちは走った。のんびり歩いて行ったのではありません。この驚くべき、恐るべき喜びの知らせを伝えるのに、歩いてなんていられません。彼女たちは走った。
4.ガリラヤじゃないの?
すると、何と復活のイエス様が彼女たちの前に現れたのです。「あれ、ガリラヤで会うはずではなかったの。」確かに天使は、ガリラヤでお目にかかれる、そう伝えるよう婦人たちに言われました。しかし、婦人たちは、その弟子たちの所に行く途中で、復活のイエス様に出会ったのです。
私はこう考えています。第一に、イエス様の復活を伝える者は復活のイエス様に出会わなければならない。自分が復活のイエス様に会ってもいないのに、他の人にイエス様は復活されたと伝えても、それは決して相手に伝わることはないからです。イエス様は、婦人たちがちゃんと弟子たちに御自身の復活を伝えることが出来るように、現れてくださったのです。
第二に、イエス様の復活を伝えようとする時、私共は復活のイエス様と出会うことになるということです。それは、二千年に及ぶキリスト教会の歴史の中で確認されていることです。復活のイエス様を伝えてきたのがキリスト教会です。その営みの中で、キリスト者も教会も、本当にイエス様は生きて働いてくださり、自分たちと共にいてくださることを知らされ続けたのです。イエス様の救いの御業、愛の御業に仕える中で、復活のイエス様と出会ってきたのです。この復活のイエス様と出会う、中心的な場として与えられているのが、主の日の礼拝なのです。
5.おはよう
9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」とあります。復活されたイエス様は婦人たちに「おはよう」と声を掛けられた。元のギリシャ語の「カイレテ」という言葉は直訳すれば「喜べ」ですが、この言葉はいわゆる挨拶の言葉として用いられておりました。この時は朝でしたので、「おはよう」と訳したのでしょう。
私は新共同訳でこの言葉を読んだとき、軽すぎる訳だと感じて、違和感を覚えました。でも今は、これで良いのだと思っています。イエス様の御復活の出来事とはこういうことだと思うからです。地震が起きた。稲妻のように輝き、衣は雪のように白い天使が現れた。何とも仰々しい天使の登場です。それらに対して、「おはよう」と言って現れる復活のイエス様は、なんとも軽い。しかし、これが復活なのです。私共の一切の罪を担って十字架にお架かりになられたイエス様の御姿は、軽くなりようがありません。闘いの真っ最中なのですから、イエス様の十字架は軽くなりようがない。しかし、復活のイエス様は罪と死に打ち勝たれたイエス様です。もう闘いは終わった。そう、完全に勝利されたのです。その完全に勝利されたイエス様の言葉に「おはよう」は相応しい。そう思います。
こんな映画のシーンをイメージしていただければ良いのではないでしょうか。負ければ一切を失う、壮絶な闘いがあった。20分くらいその闘いのシーンが続く。そして、勝利する。闘いに勝利した勇者が家に帰って来る。彼の姿を朝日が照らします。遠くから彼の帰って来る姿を見つけた家族が走り寄る。彼は、家族に満面の笑みでこう言うのです。「おはよう。」この一言で家族はすべてを理解する。勝ったんだと。
6.イエス様を神様として拝む
婦人たちもこの時、このイエス様の「おはよう」ですべてを理解したのでしょう。ただ、イエス様は勇者ではありません。イエス様が闘っていたのは罪と死とサタンに対してでした。婦人たちは、この「おはよう」ですべてを理解し、イエス様の前にひれ伏したのです。この「ひれ伏す」と訳されている言葉は、神様を拝む時にだけ使われる言葉です。つまり、彼女たちはイエス様を神様として拝んだのです。彼女たちはイエス様と旅をし、イエス様の言葉を聞き、イエス様のなさる沢山の奇跡を間近で見ていました。彼女たちはイエス様を愛し、イエス様を尊敬し、心からイエス様を信頼していました。しかし、イエス様を神様として拝んだことはありませんでした。しかしこの時、彼女たちは復活のイエス様を初めて神様として拝んだのです。ここにキリスト教が、キリスト教会の礼拝が始まりました。
今朝も私共はこの復活されたイエス様、勝利のイエス様と出会い、この方を我が主、我が神として拝むのです。
只今より洗礼と聖餐が執り行われます。ここに復活の主イエス・キリストが聖霊として臨まれ、私共に語りかけ、私共を復活によって勝ち取られた勝利に与らせてくださいます。私共は、既にこのイエス様の勝利に与る者とされています。このイエス様の勝利に与る者として、私の中に新しい私が立ち上がっていきます。それは、どんなことがあっても、愛する者の死さえも、このイエス様の復活の勝利に飲み込まれていることを知らされた私です。どんな闇の力も曇らせることの出来ない、底抜けに明るい大らかな私です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)とイエス様は言われました。私共はこの勝利の主と共に歩んでいくのです。
[2019年4月21日]