1.受洗者に向けて
今朝一人の姉妹が洗礼を受け、神の子・神の僕としての新しい歩みを始めます。キリスト者になるためには、洗礼を受けなければなりません。それは、そのようにしなさいとイエス様御自身が弟子たちにお命じになったからですけれど、洗礼を受ける前と後では一体何が変わるのでしょうか。
洗礼を受けると何が違ってくるのか。色々ありますけれど、神様と共に生きるということ、神様の恵みと憐れみの中に生かされているということを、いよいよはっきり知るようになります。当たり前と思っていたことも神様の恵みの中でのことであったと、改めて受け取り直すということもある。この両親のもとで生を受けたこと、この人と結婚したこと、この子が与えられたこと、この仕事に就いていること、その一つ一つが神様の憐れみの中のことであると受け取ることが出来る。そして、そこには当然、感謝の思いが湧いてくるでありましょう。キリスト者として生きるということは、神様の憐れみの中で生かされていることへの感謝と共に生きる者になるということです。
しかし、いつも感謝ばかりしていられないということもあるかもしれません。人生色々なことが起きますから、その嵐の中で、神様の恵みも憐れみも分からなくなってしまう、洗礼を受けたということがどういうことなのか分からなくなってしまう、そういうこともあるでしょう。そのような私共のために、神様は聖餐を備えてくださいました。洗礼を受けた者に、その恵みの事実を何度も何度も思い起こさせるためです。
洗礼は、誰しも一度しか受けることが出来ません。しかし、聖餐には毎月与ります。この繰り返される聖餐によって、私共はイエス様と一つに合わせられた者であることを繰り返し心に刻みつつ、御国に向かって歩んでいくことになります。洗礼を受けるということは、聖餐に与る者になるということだと言っても良いでしょう。
聖餐が制定されたのは、いわゆる「最後の晩餐」の時でした。イエス様が十字架にお架かりになる前の日の夜、イエス様は弟子たちと過越の食事を一緒にされ、その食事の時に聖餐を制定されました。この聖餐に与る度に、キリストの教会は、イエス様が十字架にお架かりになり私共の一切の罪の贖いとなってくださったこと、復活されて今も私共と共にいてくださること、そして、イエス様がお語りになったこと、為されたことを思い起こしてきました。また、御国においてイエス様とお会いすることをも心に刻んできたのです。
2.イエス様によるいやしの御業
今朝与えられております御言葉は、イエス様が為された二つの奇跡が記されております。一つは29~31節にあります、大勢の病人をいやされたという出来事、もう一つは32~39節にあります、男だけで四千人の人たちを七つのパンと少しの小さい魚で養われたという出来事です。
いやしの出来事は、マタイによる福音書においては何度も何度も記されてきたことで、ここで初めて記されたことではありません。小見出しを見ていただくと良いのですが、9章1節からの中風の人をいやした出来事、18節からの十二年間長血を患っていた女性のいやしと死んでしまった少女を生き返らせた奇跡、27節からの二人の目の見えない人をいやした奇跡、32節からの口の利けない人のいやし、そして35節には「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と記されています。この15章の29~31節には、今までのいやしの奇跡をまとめるかのように、「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人」がいやされたことが記されています。
イエス様が病人をいやされたのは一度だけではありません。何度も為されました。だから福音書に何度も記されている。また、福音書に記されているいやしの御業が、イエス様が為されたいやしのすべてではなかっただろうと思います。「その他多くの病人を…いやされた。」(30節)とあるのはそういうことでしょう。確かにイエス様は多くの人たちをいやされました。しかし、今朝与えられているこの29節以下の記述には、イエス様が多くの病人をいやされたという事実を伝えるということとは別の、明らかな意図がありました。それは、イエス様のいやしの業を記すことによって、イエス様が誰であるかを告げようとしているということです。イエス様のいやしの御業を、旧約の預言の成就として告げることによって、イエス様こそ旧約において預言されていた救い主であると告げようとしているのです。
救い主が来られる時のことを預言した代表的な箇所の一つであるイザヤ書35章3~6節bをお読みします。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」このイザヤの言葉に重ねるようにして、31節「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」とマタイは記したのです。マタイはこのイザヤ書の預言の成就として、イエス様のいやしの奇跡をここで記すことにより、イエス様こそ預言者イザヤが預言した救いをもたらすお方であると告げようとしたということなのです。
もう一つ、ここで注目すべきことは、このいやされた人たちがユダヤ人ではなかった、異邦人であったと考えられるということです。それは、31節にイエス様の御業を見て驚き、「イスラエルの神を賛美した」とあるからです。ユダヤ人だったら、単に「神を賛美した」で良いはずです。しかし、わざわざ「イスラエルの神を賛美した」と記している。これは、癒やされた人々、またそれを見ていた群衆がユダヤ人ではなかった、異邦人だったということを示していると考えられるのです。イエス様はここで、異邦人にも救いの道が開かれていることをお示しになった、そういうことではないかと思います。
3.四千人の給食
そうすると、32節からの四千人の食事もまた、異邦人に対して為された奇跡であるということになります。
多分皆さんは、この四千人の給食の出来事よりも、少し前の14章13節以下にあります五千人の給食の出来事の方が印象に残っていて、この四千人の給食の出来事は二番煎じと言いますか、また同じことが記してあるといった感じで読み飛ばしているのではないかと思います。五千人の給食の方は、「五つのパンと二匹の魚、余ったパン屑は十二籠。」そんな風に数さえも覚えているけれど、四千人の給食の方は、「パンの数は? 残ったパン屑の籠は?」と聞かれても記憶が曖昧という人が多いのではないかと思います。四千人の方は七つのパンと七つの籠です。魚については、「小さい魚が少し」と記されているだけで数は分かりません。ちなみに、ルカとヨハネには、この四千人の給食は記されておりません。マタイとマルコだけが記しています。
この五千人の給食と四千人の給食の出来事は、預言者エリヤが行った奇跡、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」(列王記上17章16節)という出来事と重なります。旧約最大の力の預言者エリヤの奇跡を、更に大きなスケールで実現したのがイエス様であるということになります。つまり、イエス様こそ救い主であるということをこの出来事もまた示しているということなのです。
更に、この四千人の給食には異邦人たちが与ったと理解するならば、二回同じような奇跡が為された意味もはっきりするのではないかと思います。五千人の給食はイスラエルの救いを、四千人の給食は異邦人の救いを示す出来事であったということです。異邦人もイエス様の救いの恵みに与ることになっている、そのことを明確に示す奇跡だったということです。残ったパン屑は、五千人の給食の場合は十二籠。これはイスラエルの十二部族を思い起こさせます。四千人の給食の場合は七つの籠です。七という数字は完全数で全体を表し、すべての人々の象徴と考えられます。また、四という数字も東西南北の全世界を示す数字です。
ちなみに、五千人の給食、四千人の給食とありますが、38節に「食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。」とありますように、五千人とか四千人というのは成人男性だけの数字ですので、実際にはその二倍か三倍の人たちがこの奇跡に与ったということです。きっとイエス様が十字架の上で死に、三日目に復活されてから、30年、40年、50年たっても、「私はあの配っても配ってもなくならないパンを食べた。」と言う人がいたでしょう。「あの時は子どもだったけれど、本当に驚いた。」と言う人がいたに違いない。それでこの奇跡はどの福音書にも記されているのだと思います。
4.群衆がかわいそうだ
さて、この四千人の給食の奇跡において、群衆に食事をさせようと言い出したのはイエス様でした。32節「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくない。途中で疲れきってしまうかもしれない。』」とあります。イエス様は「群衆がかわいそうだ」と言われた。これは直訳すれば「わたしは群衆を憐れむ」という言葉です。この群衆は三日もイエス様と一緒だったというのです。目が見えなかったり、足が不自由だったりした人たちが、三日間もイエス様と一緒にいた。それだけでも大変なことだったに違いありません。彼らは、この方なら何とかしてくれる、そう信じたのでしょう。だからイエス様についていった。ただの興味本位でイエス様についていったのではありません。彼らは、この直前にあります「ティルスとシドンの地方のカナンの女の娘の癒やし」の出来事を聞いてきたのかもしれません。彼らは命が懸かっていた。イエス様に何とかしていただかなければ生きていけない。イエス様は、この人たちのその思いを受け止め、憐れみ、いやされたのです。そして、彼らに食事をさせてあげたいと思われた。空腹のまま帰らせたら、途中で疲れきってしまうかもしれない。そう思われた。イエス様の私共への思いは、そのように細やかで配慮に満ちたものなのです。
ゴールデンウィークで帰省された方もおられると思いますが、私も妻の父を見舞いに宮津まで行ってきました。妻の母は一昨年亡くなったのですが、その母は、私共が帰省してまた車で戻る時に必ず、途中でお腹がすくだろうと「おにぎりとおかず」のお弁当を持たせてくれました。途中にはサービスエリアがたくさんあるのですから、お弁当は必要ないといえば必要ないのです。しかし、それが母心というものなのでしょう。私は、この「空腹のままで解散させたくない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」と言われたイエス様の言葉に、母心のようなものを感じました。私共は、この母心のようなイエス様の配慮の中で生かされているということなのでしょう。本当にありがたいことです。
5.あり得ない出来事
弟子たちはイエス様に言います。33節「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」その通りです。一万人を超える人たちに食べさせるパンなど手に入るはずがない。しかし、イエス様は何事もなかったかのように「パンは幾つあるか。」と言われます。弟子たちは「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり。」と答えました。これではどうにもなりません。弟子たちが食べるにも十分ではありません。しかし、イエス様はこの七つのパンと少しの魚を取って、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちに渡されました。弟子たちはこれを群衆に配ります。人々は皆、これを食べ満腹しました。しかも、残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになりました。
初めのパンよりもパン屑の方が多い。私はこの奇跡が長い間分かりませんでした。弟子たちがパンを配る。すると、またパンが生まれる。配っても配ってもなくならない。そんなバカなことがあるものかと思っていました。これはイメージすることさえ難しい出来事でしょう。足の悪い人が立って走るようになる。それはイメージ出来ます。目の見えない人の目が見えるようになる。これもイメージ出来ます。しかし、配っても配ってもなくならないパンなどイメージすることさえ出来ません。しかし、これが奇跡というものなのです。この奇跡は弟子たちにとって二度目です。私は、ここにもイエス様の、弟子たちに対する教育的配慮があったのではないかと思っています。単純に、一回より二回の方が忘れないでしょう。これは、決して忘れてはならない出来事だったのです。イエス様というお方が、決してあり得ないことを為すことが出来るお方なのだということを、しっかり弟子たちの心に刻ませるためです。
弟子たちにとって、この奇跡は衝撃だったでしょう。この奇跡において弟子たちは、イエス様の為さることを横で見ていただけではありません。その奇跡の当事者でした。配っても配ってもなくならないパン。それが自分の手元で起きたのです。しかも、一度や二度ではありません。この時、弟子たちは一人が千人くらいにはパンを配ったはずです。それだけ、繰り返し繰り返し起こったのです。今まで経験したことのない、あり得ない出来事。イエス様は何というお方か、と弟子たちは思ったことでしょう。
6.すべての隔てを越えて
そして、もう一つ。この人たちが異邦人だったとすれば、これはユダヤ人にとって大変な出来事でした。弟子たちはユダヤ人です。ユダヤ人は異邦人とは一緒に食事をしない。異邦人は汚れているとされていたので、一緒に食事をすると自分も汚れると考えていたからです。しかし今、一つの同じパンを分かち合って、異邦人と一緒の食事をしている。イエス様の前では、神様の前では、ユダヤ人も異邦人も関係ない。一緒に救いの恵みに与る。この食事は、私共が与っている聖餐の食事につながり、やがて私共が与る天上の食卓を先取りしているものでした。
この地上にあって私共は、国境や民族の違い、言葉や文化の違いによって分断されています。しかし、イエス様の憐れみの中で、そのような違いは意味がなくなり、私共を分断するものではなくなるのです。キリストの教会は、天の国の先取りとしての共同体だからです。その教会の姿を最も良く現しているのが、聖餐です。この聖餐の食卓に与るには、イエス様を我が主・我が神と信じて洗礼を受けた者であるということ以外、一切の制約はありません。国籍も民族も言葉も職業も性別も政治的主義主張も、このイエス様の憐れみの前には、私共を分断する力を持ち得ない。まことにありがたいことです。
この恵みを覚えて、共々に主をほめたたえたいと思います。
[2019年5月5日]