1.ペトロの信仰告白
今朝与えられております御言葉の小見出しには、「ペトロ、信仰を言い表す」とあります。ペトロがイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と初めて言い表した場面です。この出来事はフィリポ・カイサリア地方で起きました。フィリポ・カイサリアという町は、ガリラヤ湖の北40kmくらいの所にあります。私は行ったことはありませんが、ガリラヤ湖の源流の地域であり、写真で見てもとても緑の濃い、自然豊かな所です。そして、この「カイサリア」(=皇帝)という地名が示すように、ローマの皇帝のために捧げられた町でした。ですから、当然ローマ皇帝のための神殿もあり、ギリシャの神々の神殿もたくさんありました。異教の神々を祭っている地域でした。その意味では、日本という国に置かれている私共の状況とも重なるところがあります。そういう所で、イエス様は弟子たちに信仰を問うたのです。
このペトロの告白は、キリスト教会における初めての信仰告白と言って良いでしょう。キリストの教会は、二千年の間、この信仰告白を自分たちの信仰告白として大切にしてきました。キリストの教会の土台であり、これを失ったらキリスト教ではなくなってしまう、その一番大切な信仰が言い表されたのがこの場面です。ですから、ここはとても大切な場面です。そして、すべてのキリスト者が、自分に信仰が与えられた時や自分が信仰を初め言い表した時と重ねて読むことが出来る所でもあります。
2.私の洗礼試問の時
皆さんが初めて自分の信仰を言い表したのはいつだったでしょうか。私の場合、自分の信仰を問われ、公に自分の信仰を言い表したのは、洗礼を受ける直前の、長老会による洗礼試問会の時だったのではないかと思います。洗礼の試問会というのは一生に一度のことですから、そこで自分が何を問われ、どう答えたかを、長い間覚えているものだと思います。試問する長老や牧師は、たくさんの方に試問しますのであまり覚えていないのですけれど、試問を受けた方はよく覚えている、そういうものだと思います。私もよく覚えています。
私は、「あなたは三位一体の神様を信じますか。」と問われました。それに対して、私は正直に、「父なる神様は天地を造られた方だと信じます。イエス様も神の御子だと信じます。でも、聖霊はよく分かりません。」と答えました。本当によく分からなかったのです。今思いますとこの答えは、質問した長老を困らせてしまったのだと思います。三位一体を信じない人に洗礼を授けるわけにはいかない。確かに、そうなってしまいます。でも、分からないものは分からないと答えるしかありません。それで、これなら答えられるだろうと思われたのでしょう、次に「あなたはイエス様を誰だと信じますか。」と問われました。これにも「よく分かりません。」と答えました。今なら「天地を造られただ独りの生ける神の子、キリストです。」と答えるでしょう。しかし、あの時はどう言って良いのかよく分かりませんでした。この「よく分かりません」という私の答えに、試問会の空気が一気に険悪になったのを覚えています。そして、別の長老が少し怒ったように、「あなたはどうして洗礼を受けようと思われたのですか。」と問いました。本当にこの人は何を信じて洗礼を受けたいと言い出したのか、そう思われたのでしょう。私はこの問いに対してならはっきり答えられました。「イエス様は私を決して見捨てない方だと思ったので、この方と一緒に生きていきたいと思ったからです。もう、この方を悲しませるようなことはしたくないと思ったからです。」と答えました。そこで牧師が「それがはっきりしているのなら良いでしょう。」と言い、他の長老が「洗礼は出発ですから、しっかり学んで、信仰の歩みをしていってください。」と言い、試問会が終わりました。
私は、このイエス様の「あなたはわたしを何者だと言うのか。」との御言葉を読むと、あの試問会の時のことを思い出すのです。あの時、自分は何も分かっていなかったな。でもあの時の私は、自分は何という罪人かということを知った。そして、イエス様を信頼し、この方と一緒に生きていきたい、この方を悲しませるような歩みはするまいと思った。それは本当です。試問会で長老たちの質問にちゃんとした答えは少しも出来ませんでしたけれど、長老会はその私の答えの中に聖霊の働きを見て、洗礼を授けることを決めたのでしょう。洗礼の試問というのは、聖書や教理の試験をする所ではありません。それが全く必要ないことだとは思いませんけれど、一番大切なことは、「洗礼を受けたい」というその志が、聖霊なる神様の導きによって与えられたものであるかどうか、それを判断することです。
3.ペトロの告白を受け止められるイエス様
ペトロはここで、16節「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。完璧な答えです。しかし、この告白をしたことがどういうことなのか、この時ペトロが本当に分かっていたかどうかは疑問です。何故なら、この直後にイエス様が十字架と復活の話をすると、ペトロは「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、イエス様から「サタン、引き下がれ。」と言われているからです。この時、ペトロは自分の告白したことがどういうことなのか、よく分かっていなかったかもしれません。しかし、イエス様はそのペトロの告白を受け止めて、こう言ってくださいました。17節「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」イエス様は、ペトロの告白を父なる神様が与えたものだと受け止めてくださったのです。私は、この場面はイエス様による弟子たちの試問会だったのだと思います。そこにおいてイエス様は、ペトロの告白を父なる神様が与えられたものだと受け止めてくださったのです。ペトロは自分が告白した言葉の意味をよく分かっていなかったかもしれません。しかし、イエス様は父なる神様が与えられたものとして受け止めてくださった。私共の信仰の告白とはそういうものなのではないかと思うのです。
4.神様が与えられた告白
イエス様はこの前に、13節「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」とお尋ねになりました。「人の子」というのは、イエス様が御自分のことを言う時に使われる言葉です。つまり、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と問うたのです。この問いに対して弟子たちは、14節「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。この答えには、当時の人々がイエス様をどう見ていたかがよく表れていると思います。人々はイエス様の様々な奇跡を見て、教えを聞いて、イエス様というお方が一体誰なのか、色々なことを言っていたのでしょう。今、何故ヨハネなのか、エリヤなのか、エレミヤなのか、その説明はしませんけれど、ここには当時の人々のイエス様に対する期待が表れていると言えるでしょう。ここで大切なことは、要するに人々はイエス様を、「神様に遣わされた大した偉い人」だと思っていたということです。いつの時代でも、そういう人はいるものです。そういう人の一人だと人々はイエス様を見ていたということです。
弟子たちは、この「人々は何者だと言っているか。」という問いに対しては、人々が言っていることだと、特に考えることもせず、言ってみれば無責任に、自分が聞いたことを平気で口にしたのでしょう。しかし、イエス様は次に、15節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われました。他の人が何と言っているかではない、あなたがたはどうなのだ。そう問われたわけです。この問いは重く厳しいものです。無責任に答えることは出来ません。この時、弟子たちはイエス様から直接問われた。イエス様御自身が目の前にいるのです。いい加減に答えることは出来ません。
彼らはずっとイエス様と一緒にいました。イエス様の奇跡を見、教えを聞いてきました。彼らはイエス様を愛し、信頼し、従っていた。イエス様を先生として慕っていた。しかし、改めて「わたしのことを何者だと言うのか。」と問われると、言葉に詰まったのではないかと思います。そしてペトロが答えるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です。」これは、イエス様御自身が告げられたように、父なる神様が与えてくださった告白でした。洗礼者ヨハネや旧約に出て来る預言者たちとは全く違う、今も生きて働き給う神の御子、神だ、と言ったのです。代々の聖徒たちが待ち望んでいた方、神様の救いの御業を成就されるメシアだ、そう告白したのです。
イエス様をまことの神であると知る。それは人間の理解の範疇を超えています。イエス様を、偉い人だ、愛の人だ、と言うのなら、人間の理解の中です。しかし、ペトロの告白はそれを超えていました。この天地を造られた神だ、と言ったのです。日本ならたくさんの神様がいますし、死んだら神様として祭られている人もたくさんいる。しかし、聖書の世界では、神様は天地を造られた神様ただ独りです。ペトロはイエス様を目の前にして、あなたは神だ、と告白した。神様の救いを完成させるメシアだ、と告白した。これは、本当に人間の理解を超えた、神によって与えられた告白です。実に、私共の信仰は神様によって与えられるものなのです。イエス様が神の子である、メシア、キリストであるという信仰は、私共が発見して手に入れるようなものではありません。神様が与えてくださるものです。そうであるが故に、この信仰は揺らぎませんし、どんな知識や知恵とも比べようがないほどに大いなるものなのです。
5.この岩の上に教会を建てる
イエス様は続けてこう言われました。18節「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」この言葉は、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会とで大きく理解が異なっています。ローマ・カトリック教会は、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」というイエス様の言葉の「この岩」というのを、ペトロ自身であると理解します。この信仰を言い表したペトロの上に教会を建てる。そして、このペトロの後継者がローマ法王ということになります。
しかし、イエス様は「あなたはペトロ。あなたの上に」とは言わず、「この岩の上に」と言われたのです。ちなみに、ペトロとは「小さな岩」という意味です。しかし、「この岩の上に」という所に用いられた言葉は「ペトラ」で、これは「大きな岩」を意味します。言葉遊びであることは確かですけれど、「この岩」をペトロ自身と理解するのは無理があります。だって、ペトロは、この後で「サタン、引き下がれ。」と言われていますし、イエス様を三度知らないと言ってしまうような人です。そんな人の上に教会を建てたら、土台がグラグラで、いつ倒れてもおかしくないものしか建ちません。ペトロという人は、信仰の大切な先達ではありますけれど、弱さや愚かさをも持った人です。教会の土台にはなり得ません。
私共は、「この岩」というのは、ペトロが言い表した「あなたはメシア。生ける神の子です。」という信仰告白だと受け止めています。この信仰を土台としてキリストの教会は建ってきたし、建っている。そういうことでしょう。
6.陰府も対抗できない教会
そして、この教会は、「陰府の力もこれに対抗できない」ほどのものなのです。陰府とは死んだ人が行く所と考えられていましたから、これは「死の力もこれに対抗できない」という意味です。イエス様が十字架にお架かりになって死に、三日目に復活された、その復活に与るのが教会につながる者たちだということです。
人間は死にます。しかし、それで終わりではない。イエス様を救い主、神の子と信じる者は、イエス様の復活の命に与る者となる。それはこんなイメージです。私共が生きていく上で、様々な悪しき力が私共を襲います。しかし、キリストの教会という砦の中に逃げ込むならば、悪しき力は私共に手を出せない。その悪しき力の大将は死です。イエス様はその大将を、復活という出来事によって打ち倒しました。そのイエス様が教会の頭としておられる。だから、陰府の力である死は、キリストの教会をどうすることも出来ません。勝負は既についているからです。
このペトロによって言い表された信仰は、私共を教会に招き入れます。信仰は私共をイエス様と結びつけ、イエス様の復活の力が私共を守ります。だから、この信仰を言い表したペトロは、イエス様から「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」と言われたのです。どうして「幸いだ」と言われたのか。それはこの信仰によってキリストとつながり、陰府の力さえも手を出せない者にされるからです。
7.鍵の権能
イエス様は19節で「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言われました。「天の国の鍵」というのは、天の国に入れる、入れないを決めることが出来る鍵ということです。それが教会に与えられているというのです。これは「鍵の権能」と言われるものです。そんな大それたものが教会に与えられているのかと思う人もおられるかもしれませんが、これはあまり難しく考えなくて良いと思います。これは教会だけに与えられている、洗礼を授け、聖餐に与らせる権能を言っているのです。教会がこの世においてどんなに小さい存在であっても、洗礼と聖餐は教会にしか執行することが出来ない、許されていないのです。この大いなる権能を与えられているのがキリストの教会というものなのです。
しかし、この言葉を、この人は天の国に入れます、この人はダメです、そんな風に教会が勝手に決めることが出来るかのように考えてはなりません。洗礼は、父なる神様が与えてくださった信仰によって授けられるのですから、この鍵も、神様の御心に従って用いられるのです。この神様が与え給う信仰抜きに鍵の権能を用いれば、それは教会が神様になってしまいます。大変な罪を犯すことになります。教会は神様になれるはずもありませんし、決してなってはいけないのです。
8.整えられ、成長する私共の信仰
さて、最初に私の洗礼試問会の話をしました。それは、言葉は拙くても神様の導きを正直に語れば良いということなのですけれど、しかし、その私の信仰告白というものは、信仰の歩みの中で整えられ、成長し、はっきりしていきます。そして、それは代々の聖徒たちが告白してきた信仰と重なっていくものなのです。いくら、「私の信仰告白」が大切だと言っても、代々の聖徒たちの信仰と相容れないようなものでは困ります。というより、そんなことはあり得ないのです。何故なら、ペトロにこの信仰を与え、代々の聖徒たちに信仰を与え、私共に信仰を与えてくださったのは、同じただ独りの神様だからです。私の信仰は、この礼拝の中で育まれ、成長し、整えられ、或いは正され、教会の信仰と一つになっていくのです。
私共は同じ信仰を与えられているが故に、同じ賛美をささげ、同じ祈りにアーメンと唱え、ああ、ここに私の信仰がある、と聖書の解き明かしを聞くのです。私共の信仰が同じでなければ、この礼拝そのものが成り立たないのです。礼拝を成立させるのもまた、私共に信仰を与えてくださった神様御自身です。今、共にこの神様をほめたたえ、祈りを捧げましょう。