1.キリストの体なる教会
教会が「キリストの体」であることを、私共は信じております。この場合の教会とは、勿論、建物のことではありません。主イエス・キリストを我が主・我が神と信じる者たちの群れのことです。教会は、ニカイア信条において告白しているように、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」です。教会は世界に広がり、歴史を貫いて、唯一つの、聖霊なる神様の御臨在のもと、使徒以来の信仰を保持しています。これが「キリストの体なる教会」です。富山鹿島町教会は、このキリストの体なる教会に連なり、キリストの体の一部として神様の救いの御業に仕える群れとして立っています。そして、キリストの体なる教会として、今日もこのように主の日の礼拝をささげております。ここに聖霊なる神様が臨んでくださり、私共に祈り心を与え、共々に賛美をささげることが許されています。聖書の言葉が与えられ、御心が示されます。信仰が与えられ、新しい一週の歩みへとここから遣わされていきます。これはすべて聖霊なる神様の御業として為されていることです。そして、この教会が「キリストの体」であるということは、何よりもキリストの霊である聖霊なる神様がここに御臨在されているということです。
2.聖霊が私の中に宿っている
それでは、この礼拝が終わったら、教会はどこに行ってしまうのでしょう。このように礼拝している時、私共はここに確かに教会があることが分かります。しかし、礼拝が終わり私共がそれぞれが遣わされた場へと散じていくと、教会はどうなってしまうのでしょう。こう言っても良いでしょう。この礼拝が終わったら、聖霊なる神様はどこに行ってしまうのでしょう。この問いに、今朝与えられております御言葉は明確に答えています。19節です。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」聖霊は私共の体に宿る、と聖書は言います。これはまことに驚くべきことを私共に告げています。私共は、主の日には教会に集い、聖霊なる神様の導きの中で礼拝をささげています。私共にこのように礼拝をささげさせてくださる聖霊なる神様は、私共の体に宿り、私共と共に歩んでくださっている。つまり、聖霊なる神様は礼拝が終わったら天に帰ってしまうのではなくて、私共一人一人の中に宿られる、と聖書は告げるのです。
私共は、インマヌエル、「神、我らと共にいます」の恵みに生かされています。このインマヌエルの出来事は、神の独り子であるキリストが人間となって、イエス様としてこの世に来られたことによって、いよいよ確かなこととして与えられました。しかし、このインマヌエルの出来事はそれで終わりではありませんでした。イエス様は十字架に架かり、死なれましたけれど、三日目に復活され、更に弟子たちに聖霊を注ぎ、インマヌエルの恵みの中に私共一人一人が生きることが出来るようにしてくださったのです。
聖霊なる神様が私共の中に宿ってくださるということは、目で見ることは出来ませんし、感じることでもありません。これは、神様が私共に与えてくださっている恵みの現実として信ずべきことです。それは、洗礼によって私共がキリストと一つにされたということを信じるのと同じことです。また、聖餐によってキリストの体を食し、キリストの血潮を飲む。そのことによって、キリストが私共の中に入ってくださり、私共と一つになってくださるということを信じるのと同じです。或いは、教会がキリストの体であるならば、教会につながる私共、教会の枝である私共一人一人もまたキリストの体の一部とされているということを信じるのと同じです。これは実に驚くべき、実に畏るべきことでありますけれど、これが私共に与えられている救いの恵み、信ずべき救いの現実なのです。
3.聖霊なる神様が宿っている「しるし」
聖霊なる神様が私共の中に宿ってくださっているならば、私共の主人は私共自身ではありません。私共はもはや自分自身のものではない。私共は神様のものなのです。ですから、私共はもはや自分の願いや自分の欲を満たすために生きる者ではなくなりました。ここに私共に聖霊が宿ってくださっている確かな「しるし」があります。私共がイエス様を知らなかった時、私共は自分が自分自身のものであることを疑ったことはありませんでした。自分の思いのまま、欲するままに生きておりました。そして、それが当然だと思っておりました。それ以外の生き方があるなどと考えたこともありませんでした。しかし、今や、です。私共は、神様の御心が成るように、神様の愛と平和が満ちるように、と願い求める者になりました。イエス様が私共に教えてくださった「主の祈り」に従って、「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天になる如く、地にもなりますように。」と祈る者になりました。勿論、私共がイエス様の救いに与る前も、全く祈っていなかったわけではありません。どなたに祈っているかが明確でないなりに、祈っていました。しかし、その祈りは自分のこと、或いは家族のことばかりではなかったでしょうか。家内安全、商売繁盛のようなことばかりを願う祈りだったでしょう。しかし、今は違います。この変化は小さなことではありません。この祈りの変化は、私共が根本から変わったことを示しています。そしてこの変化こそ、私共の中に聖霊なる神様が宿ってくださっている確かな「しるし」なのです。
私共が日々の歩みの中で祈る時があるならば、神様を賛美することがあるならば、それは私共の中に宿ってくださっている聖霊なる神様の御業です。また、私共が日々の歩みの中で、困っている人、弱っている人のために何かしてあげたいと思ったのならば、それは私共の中に宿ってくださっている聖霊なる神様の御業です。そして、その人に水一杯でも差し出すことが出来たならば、それは私共の中に宿っておられる聖霊なる神様の御業です。今朝、ここに私共が集い、礼拝を捧げている。それもまた、聖霊なる神様の導きの中で為されていることです。このように、聖霊なる神様が私共の中に宿ってくださっている「しるし」は、数え上げたらキリがないほどに、私共の日々の歩みの中に満ちています。
それは、御心に適うことや愛の業である何かを私共自身が為す場合だけではありません。そのような愛の業を受け取る時にも、聖霊なる神様は働いてくださっています。私共が愛の業を受け取り、ありがたいと思う時、私共はその人に感謝すると共に、神様の守り、支えというものを思い、神様に感謝することでしょう。神様に「ありがとう」と思う。そこに聖霊なる神様の働きがあります。もし、聖霊なる神様が働いてくださらなければ、私共は、何かをしてもらっても、それを当然と思う。或いは、こんなことまでしてもらわなくてはならない自分を、何と惨めだと思う。不平と不満が心に湧き上がって来る。素直に感謝が出来ない。そういうことになってしまうのではないでしょうか。しかし、ありがたいと思う、感謝する、そこには既に聖霊なる神様が働いてくださっているのです。
4.代価を払って買い取られた私共
このような変化、それは私共が代価を払って買い取られたからだ、と聖書は告げます。20節「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」この代価とは、イエス様の十字架です。誰に買い取られたのか、それは神様にです。誰から買い取られたのかと言えば、サタンからです。私共は自らの罪の奴隷でありましたけれど、イエス様の十字架という代価によって神様のものとしていただいたのです。
当時この手紙を受け取ったコリントの教会には、自由人もいたし、奴隷もいました。当時のコリントの町には、自由人よりも多くの奴隷がいたと考えられています。それが当時のローマ帝国の中にある都市における社会構造でした。ですから、この「代価を払って買い取られた」とか、「あなたがたはもやは自分自身のものではない」という言い方は、この手紙を読んだ人たちには、とてもよく分かったと思います。
パウロは、自分のことをしばしば「キリストの僕」と言いますけれど、この「僕」と訳されている言葉は「奴隷」という意味です。罪の奴隷から神の奴隷とされた者、それがキリスト者なのだというのです。奴隷という言葉は、現代の私共にとってはマイナスのイメージしかないかもしれません。しかし、パウロが「キリストの奴隷」と言う時、それは実に誇りを持って語られた言葉でした。自分はキリストを知るまで自由だと思っていたけれど、それは自分の「罪の奴隷」に過ぎなかったことを知らされた。しかし今や、自分は罪の縄目から解き放たれた。神様のものとされた。神様という主人を持つ者になった。何とありがたいことか。そうパウロは思っていたのです。
罪の奴隷から神様の奴隷へ。私共の主人が変わりました。この変化は自分では起こすことが出来ません。何故なら、奴隷は自分で主人を選ぶ事は出来ないからです。しかし、実に神様御自身が私のために代価を支払ってくださいました。御自身の愛する独り子、イエス・キリストの十字架という代価です。この代価は安いでしょうか。高いでしょうか。これは神様にとって、最も高価な代価でありました。御自身にとって最も大切な、最も愛する独り子、天地創造の前から共におられた独り子キリストを、私共を罪の奴隷から解き放つために十字架にお架けになった。これが神様が私共のために支払われた代価です。この高価な代価を支払ってまで、神様は私共を罪の奴隷の状態から解き放ちたかったのです。これが神様の愛です。
5.神の栄光を現す者として
この愛を知った者はどう生きるのか。この高価な代価を支払ってくださった新しい主人である神様の御心に適う歩みをしたいと思うでしょう。何とかこの愛に応えたいと思う。それが、「自分の体で神の栄光を現す」という歩みです。
今朝与えられている御言葉は、当時のコリントの教会において為されていた、娼婦を買うという性的不品行に対して、それはキリスト者としてあり得ないことだと告げる文脈の中で告げられています。12節「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」とパウロは告げます。パウロがコリントの教会の人々に告げた福音は、これはしてはいけない、このような時にはこうしなければいけない、そのようなことを細々と定めた律法に従うことによって救われるのではない。「ただイエス・キリストを信じることによって救われるのだ」ということでした。しかし、このパウロの告げた福音が誤って受け取られてしまったのです。「わたしたちはイエス様によって一切の罪を赦され、自由にされた、何をやってもいいのだ。」確かにそのとおりなのです。しかし、この何をやってもいいのだとは、自分の欲を満たすために何をやってもいいということではありません。そうであるならば、結局の所、自分の欲という罪の奴隷の状態から少しも変わっていないからです。確かにすべては許されています。しかし、その自由はキリストの十字架という尊い代価が支払われて与えられたということを弁えるならば、自分の欲を満たすためではなくて、神様の御心に従い、神様の愛の道具として用いられるために、その自由を使うのでしょう。自分の栄光ではなく神様の栄光を現すために用いる、それがキリスト者というものだ。イエス様の救いに与った者の姿なのだ。そうパウロは告げたのです。
当時のコリントの町の性倫理の常識では、売春が公然と行われ、それが悪いことであるという認識もありませんでした。そのような町に生きるコリントの教会の人たちの中には、それと同じ感覚で生きていた人も少なくなかったのでしょう。しかしパウロは、そうではないと告げたのです。性の倫理というものは、時代や地域によって変わります。ここ30年くらいの間に、日本における性倫理の常識も随分変わったと思います。性というものは、人間の欲の根っこにあるものですから、これを制することは本当に難しいのだと思います。しかし、この問題にどう対処していくのか、それは神様に与えられた自由をどう用いるかという問題であり、神様の栄光を現すとはどういうことなのか、そこから考えられなければならない問題なのです。現代の日本に生きる私共も、この筋道において性倫理というものを考えていかなければならないのでしょう。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデによって捕らえられて、娘の踊りの褒美に首をはねられてしまいました。
6.本当に自由な者として
性の問題だけではありません。現代では、麻薬や覚醒剤というものも驚くほど蔓延しています。日本も例外ではありません。私共の教会では、毎週木曜日の夜7時から富山ダルクの人たちに一階の集会室をお貸ししています。ダルクの活動は、覚醒剤などの依存症で人生をダメにしてしまった人たちがやり直すための営みです。ここに来ている人たちはやり直そうとしている人たちですから、頑張って欲しいと思います。
しかし、私が刑務所で会う人々の中には、そうではない人も少なくないのです。ある人にこう言われたことがあります。「私は聖書を読み、キリストを信じたいと思っています。しかし、どうしても分からないことがあるのです。どうして覚醒剤を使うことはいけないのでしょうか。」正直な思いを告げてくれました。皆さんなら何と答えるでしょうか。自分で稼いだお金を使って覚醒剤を買って、誰に迷惑をかけているわけでもない。何がいけないのか。自分には分からないと言うのです。法律で決まっているからダメだ。そんなことは百も承知なのです。刑務所に入っているのですから。そのような答えではこの人は納得しないことは分かりました。私はまず「覚醒剤を使う時、あなたは自由ですか。」と聞きました。「目の前に覚醒剤があって、あなたはそれに手を出さないことが出来ますか。」と聞きますと、その人は「それは出来ないでしょうね。」と答えました。「とするならば、あなたは少しも自由ではなくて、覚醒剤の奴隷になっているということではないですか。神様は私共を御自身に似せて、自由な者として造られました。私共の自由は、神様に従うために用いられるものです。神様が私共の主人だからです。しかし、あなたの場合は、覚醒剤が主人となっているということでしょう。それは御心に適いません。十戒の第一の戒『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。』この戒に完全に反したことになります。だから、覚醒剤は聖書のメッセージから言ってもダメなのです。」そう答えました。少し納得したようでした。でも刑務所を出てから、きちんと覚醒剤と手を切れるかどうかは分かりません。聖霊なる神様が働いてくださって、罪の奴隷、覚醒剤の奴隷の状態から解き放たれるようにと、一緒にお祈りいたしました。
聖霊なる神様が私共の中に宿ってくださる。そのことによって、私共の体が神殿となる。そのことを弁える時、私共は自らの歩みを神殿にふさわしいものにしていこうとするのでしょう。悪しき霊は私共の罪に働きかけ、私共を誘惑し、御国に向かっての歩みを妨げようとします。しかし、私共がその誘惑をきちんと誘惑として弁えるならば、聖霊の働きの中で祈るでしょう。イエス様は私共に「我らを、こころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」そう祈ることを教えてくださいました。この祈りを捧げつつ歩む中で、私共は神様の栄光を現す者としての歩みを全うしていくことになるのです。私共は既に尊い代価を支払われて神様のものとしていただきました。そして、私共の中に聖霊が宿ってくださっています。この救いの恵みの事実に心を向けて、御国に向かって共にしっかり歩んでまいりたいと心から願うのであります。
[2019年7月21日]