日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

伝道開始記念礼拝説教

「からし種一粒の信仰」
イザヤ書 63節7~14節
マタイによる福音書 17章14~23節

小堀 康彦牧師

1.トマス・ウィン宣教師
 今朝私共は伝道開始138年を記念する礼拝を守っています。138年前の1881年(明治14年)8月13日・14日の二日間、米国北長老教会の宣教師トマス・ウィンが旅籠町の山吹屋で説教会を開いた。これが私共の教会の伝道開始の時です。同時に、この時が富山の地においてキリストの福音が公に宣べ伝えられた最初の時でした。
 トマス・ウィン宣教師は、1877年(明治10年)12月に横浜港に着き、1879年(明治12年)に金沢に来ました。第四高等学校の前身である石川県中学師範学校の英語の教師として招かれたのです。彼は伝道するのが目的でありましたから、金沢に来ますとすぐに伝道を開始します。そして、2年後の1881年(明治14年)5月には金沢教会が設立されました。これが北陸における最初のキリスト教会です。現在の日本基督教団金沢教会です。トマス・ウィン宣教師は5月に金沢教会が設立されますと、その年の8月には七尾・高岡・富山・石動に伝道旅行をいたします。これが私共の教会の伝道開始の時です。
 私は毎年、伝道開始記念礼拝を守るたびに、このトマス・ウィン宣教師の伝道の熱というものに心を動かされるのです。日本に来て、何とか金沢の地に最初の教会を設立した。そこで一息入れるとか、この金沢教会を守っていこうとか、そんな思いは少しもないのです。すぐに富山へ伝道の足を伸ばす。それはトマス・ウィンにとっては全く当たり前のことだったのでしょう。金沢の地で伝道を開始した時から、彼の頭の中には北陸全域が伝道すべき所として思い描かれていたのでしょう。言葉も習慣も良く分からない。勿論、知っている人など一人もいない。しかし彼には、イエス様に与えられた福音を宣べ伝えていく対象として、この北陸の土地に住むすべての人がはっきり意識されておりました。イエス様が共にいてくださる。自分がどこに行っても、イエス様が共におられる。そして道を拓いていってくださる。彼はそのことを信じておりました。もし、トマス・ウィンが金沢の地の人々の救いだけを思っていたのならば、私共の教会は生まれていなかった。私共はこのことをしっかり心に刻んでおかなければなりません。私共はつい、目に見える富山鹿島町教会という教会のことだけを考えてしまいます。しかし、それはトマス・ウィンの信仰のあり方とは全く違うということです。

2.第一期:講義所時代:伝道者長尾巻から中村慶治牧師
 トマス・ウィン宣教師一行によって行われた説教会から2年後、長尾巻という伝道者がトマス・ウィンのもとからこの富山の地に遣わされてまいりました。彼は、トマス・ウィンから洗礼を受け最初に伝道者として立てられた人です。1884年(明治17年)には惣曲輪講義所が開設され、長尾巻は私共の教会の初代伝道者になりました。さらに、彼によって開拓伝道されたのが、小松教会であり金沢元町教会です。私共は北陸連合長老会というものを組織しておりますが、それはトマス・ウィンの信仰のあり方、伝道の志を受け継いでいるからなのです。
 この惣曲輪講義所時代、会堂はありませんでした。借家住まいの伝道でした。長尾巻の後、林清吉、篠原銀蔵、戸田忠厚、中村慶治という4名の伝道者が遣わされました。その中村慶治牧師の時代に米国長老教会から惣曲輪の地に100坪の土地が与えられ、会堂が建てられ、そこで10年伝道してやっと伝道教会となりました。1912年(明治45年)のことです。伝道開始から31年かかりました。この時が私共の教会の創立の時となりましょう。私共は伝道開始138年と申しておりますが、教会創立ならば107年であり、初代牧師は中村慶治牧師ということになります。中村牧師は伝道教会となるまで10年間、伝道教会となって7年間、私共の教会で伝道され、金沢元町教会(当時は金沢殿町教会)へと転任されました。この講義所時代の約30年間が私共の教会の第一期ということになりましょう。中村慶治牧師は、私共の教会の歴代の牧師の中で2番目に長く在任された方でした。一番長かったのが藤掛順一牧師の19年半、次が大久保牧師と中村慶治牧師の17年ということになります。 

3.第二期:伝道教会時代
 第二期は伝道教会時代ですが、中村慶治牧師の後、亀谷凌雲牧師、浜甚二郎牧師、馬淵康彦牧師、田口政敏牧師、そして再び亀谷牧師が兼務してくださいました。この時代は亀谷牧師10年、浜牧師5ヶ月、馬淵牧師3年半、田口牧師8年と、比較的短い間隔で牧師が代わりました。無牧の時もありましたが、定住牧師としては4人の牧師が遣わされました。この時、私共の教会は日本基督教会という全体教会に連なっておりました。この時代の私共の教会の信仰告白が、今日、皆さんとこの後一緒に唱和する、1890年(明治23年)に制定された「日本基督教会 信仰の告白」です。
 そして、1941年(昭和16年)、日本基督教団が成立しますと、翌年これに加わり、日本基督教団富山惣曲輪教会となりました。日本基督教団が成立するまで、私共の教会は「日本基督教会に属する富山伝道教会」と言っておりました。富山伝道教会時代も30年。これが私共の教会の第二期と言って良いでしょう。

4.第三期:戦後、焼け跡から
日本基督教団富山惣曲輪教会は1945年(昭和20年)8月2日未明、富山大空襲ですべてを焼失し、2週間後に敗戦を迎えます。それから7年間、私共の教会は富山二番町教会と一緒の礼拝を持ちました。そして、1952年(昭和27年)7月の総会で、富山二番町教会とは合併しないことが決議されて、戦後の歩みが再開します。私共の教会の第三期の始まりです。
 惣曲輪教会があった場所に、富山二番町教会が使っていた蒲鉾形の兵舎を移築して再出発しました。8月10日に行われた記念すべき第一回礼拝は、12名の出席でした。とても牧師を招へい出来る教勢ではありませんでした。教区の援助を受けて、1954年(昭和29年)に鷲山林蔵牧師が戦後初めての定住の専任牧師として赴任してこられました。本当に大変な時代でした。鷲山牧師は4年半ほどで日本橋教会へ転任され、その後横浜指路教会に行かれました。鷲山牧師の後、山倉芳治牧師が来られ、蒲鉾形の兵舎を利用するのをやめて会堂が建てられました。しかし、この時の会堂建築費用320万円のうち、教会員による献金はその一割ほどでした。残りは教団からの援助と、米国長老教会から与えられた100坪の土地の一部を売って賄われました。
 そして、山倉牧師の時代に、教会は教区の援助を受けないで良い状態になりました。私共の教会は山倉牧師が来られる直前の1959年(昭和34年)まで、伝道開始から実に76年もの間、援助を受け続けてきたのです。私はこの事実を、決して忘れてはならないことだと思っています。伝道開始から138年。しかし、その内76年は援助を受けており、自立出来たのはこの62年だけです。

5.第四期:富山鹿島町教会
 第四期は、1985年(昭和60年)に総曲輪の地から鹿島町に移って、この会堂を建てた時からとなるのかもしれません。この第四期については、藤掛順一牧師の19年間と私になってからの15年間ですので特に語ることはありませんが、北陸連合長老会を結成したことは大きなことだったでしょう。もっとも、この会堂といい、北陸連合長老会といい、藤掛牧師の前任者であった大久保照牧師がほとんど道を付けられたものでした。
 このように伝道開始以来の138年は4つの時期に分けられます。第一期は講義所時代30年、第二期は伝道教会時代の30年、第三期は教団になっての43年、そして第四期は鹿島町に移ってからの35年ということです。

6.山の下
 さて、今朝与えられております御言葉、マタイによる福音書17章14~23節には、イエス様が山の上で姿を変えられた後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちと共に山を下られた時のことが記されております。山の上でイエス様はその姿を変えられ、まさに神の子・救い主の栄光の姿を三人の弟子たちに現されました。三人の弟子たちは、天の国の窓が開かれて天の国を見せていただくという、聖なる体験をしました。その彼らが山を下って来ますと、そこは山の上で経験した世界とは全く違っておりました。
悪霊がはびこり、不信仰が当たり前の世界でした。ある人がイエス様にこう願い出ます。15~16節「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」いつの時代でも、我が子が苦しんでいれば、親はなんとかして助けてやりたいと思います。この人は、イエス様のところに助けを求めに来たのです。ここに「てんかん」という病名が出て来ますが、これを私共が現在医学的に理解している「てんかん」と同じと考えることはありません。これは悪霊の仕業による変調でありました。悪霊はいつの時代にもいて働いておりますけれど、その仕業は時代や文化や環境によっても変わるものだと思います。しかし、その特徴は変わりません。それは、悪霊は私共から自由を奪うということ、命を危うくするということ、神様に敵対するということ、交わりを破壊するということ、そしてそれにはしばしば、怒りやねたみや、争い、自己顕示、不品行といったものが伴います。
 この人は息子をなんとか助けて欲しくて、イエス様に憐れみを求めます。彼はひざまずき、「主よ、憐れんでください。」と言います。これは、私共が神様の御前に出る時の自然な姿、言葉でありましょう。

7.からし種一粒ほどの信仰
 ここで注目すべきは、弟子たちはこの息子を治すことが出来なかったということです。何故なのでしょうか。弟子たちは息子がいやされた後で、イエス様に、19節「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。」と尋ねました。イエス様の答えはこうでした。20節「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
イエス様は弟子たちに「信仰が薄い」と言われ、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われます。からし種というのは小さい物の代表です。1mmもないほど小さいからし種、その種くらいの信仰があれば山を動かすことが出来ると言われる。とすれば、弟子たちにはそのからし種一粒の信仰もなかったということなのでしょうか。いや、イエス様は弟子たちに「信仰がない」とは言われなかった。信仰はある。しかし薄い。この「薄い」と訳されている言葉は、直訳すれば「小さい」という言葉です。イエス様は、「あなたがたの信仰は小さい。からし種一粒より小さい。」と言われたということになります。余計分からなくなってしまいます。
 私はこう考えます。そもそもイエス様は何故、三人の弟子たちだけを連れて山に登られたのか。逆に言えば、どうして他の九人の弟子は山の下に置いていかれたのか。イエス様が山の上に連れて行った三人の弟子たちにその変貌した姿を見せたのは、イエス様が復活された時のための備えでした。イエス様がまことの神の御子であることを示し、復活の時の備えとされました。だったら、山の下に残された九人の弟子たちにとって、それはどんな意味があったのでしょうか。イエス様は、どのような意図をもって、九人の弟子たちを山の下に置いて行かれたのでしょうか。それは、イエス様は十字架に架かり死んで三日目に復活されますが、その後は天に昇られる。つまり、イエス様の姿は目に見えなくなるわけです。しかし、目に見えなくなっても、イエス様は共にいてくださる。そのことを信じることが出来なければ、弟子たちは何も出来ません。山の上でイエス様がその姿を変えられたことが、イエス様が復活された時のための備えであったように、山の下に残された弟子たちにとっては、置いていかれることが、イエス様が見えなくなってしまってからの備えの時、訓練の時だったのではないかと思うのです。それは17節でイエス様が、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」と言っておられることからも分かります。
 イエス様は十字架と復活を見ておられる。この時イエス様は山の上に行ってしまった。ここにはいない。しかし、イエス様に助けを求めに来る者はいる。その時弟子たちが、「イエス様はここにいないけれども、いるのだ。わたしたちと共にいてくださって、救いの御業を為してくださるのだ。」そのことを信じることが出来るかどうか。それが、イエス様が求められたからし種一粒の信仰だったのではないかと思うのです。

8.インマヌエルの恵みの現実
この時弟子たちは、「イエス様はいない。だから、自分たちだけで何とかしなければいけない。」と思ったでしょう。しかし、何も出来なかった。それは、そうなのです。弟子たちは、何か特別な力や能力を与えられていたわけではないからです。ただイエス様が共にいてくださって事を起こしてくださるのです。そのことを信じ、そのことに信頼して、初めてイエス様の弟子としての業を為すことが出来るのです。この時、弟子たちはその一番大切なこと、いつでもどこでもイエス様が自分たちと共にいてくださるということを忘れてしまっていたのです。私共の信仰は、あるかないか分からないほどに小さな、からし種一粒ほどのものでしかないし、それで良い。ただ、どんな時でもどこにいてもイエス様が共にいてくださると信じる、その一点を外してしまえば、私共の信仰は全く力がないものになってしまうのです。私共には力もなければ知恵もない。しかし、共にいてくださるイエス様は、天地を造られたただ一人の神様の御子です。イエス様に出来ないことはありません。イエス様は山を移すことだってお出来になるのです。
 イエス様は17節で「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」とも言われました。これは、イエス様の時代が特別に不信仰でよこしまだったということではないでしょう。いつの時代、どこの国だって、不信仰がはびこり、よこしまなことがまかり通っている。悪霊が闊歩している。それが山の下の現実、私共が生きている現実なのです。そういう世界のただ中にイエス様は来られた。そして、救いの御業を為してくださった。イエス様の弟子たちは、キリストの教会は、このイエス様が私共と共にいてくださって、救いを求める人々のために生きて働いてくださる。そのことを信じているのです。
トマス・ウィンが伝道した138年前、この富山には一人のキリスト者もおりませんでした。説教会を開けば石を投げられたのです。しかし、トマス・ウィンは、いつでもどこでもイエス様が共におられることを信じました。イエス様の救いの御業が必ず為されることを信じていました。そして、神様がこの北陸の地に住む一人一人を愛しておられることを知っていました。この138年の間に、私共の教会に遣わされた定住の伝道者は、長尾巻に始まり、私で15名です。皆、イエス様が共にいてくださることを信じてこの地で伝道しました。そして、イエス様は、救いを求める者に確かな救いを与え続けてくださいました。山は動いています。働き続けています。
 138年前、富山にキリストの教会が建ち続けることになると、誰が信じたでしょう。今、富山市には10を越えるキリストの教会があり、主の日には礼拝を捧げています。山は動きます。イエス様が共にいてくださるということを私共が信じる、そのからし種一粒ほどの信仰でもあるなら、イエス様が事を起こし続けてくださいます。伝道開始から138年の年月は、イエス様が共にいて生きて働いてくださるということを明らかに示してくださった年月なのです。

[2019年8月4日]