1.イエス様のもとを去った青年
先週の主の日、私共は子供たちの祝福の場面に立ち会い、神様の祝福があるようにと祈りを合わせました。そして、与えられた御言葉から、自分の善い業によって永遠の命を得る、天の国に入るのではなくて、子供のように何もできなくても、ただイエス様を信頼して、イエス様のもとに祝福を求めに来るならば、神様の憐れみによって天の国へと招かれるのだ、永遠の命を与えられるのだという福音を聞きました。そして、この時イエス様に「永遠の命を得るためにはどんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねた金持ちの青年は、イエス様から「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と言われて、ただイエス様を頼るということができずに、自分の富を頼ったまま、悲しみながらイエス様のもとを去りました。この青年に対して、何かかわいそうだなというような思いを抱いた方もおられたのではないかと思います。
これは私の勝手な想像ですけれど、イエス様とこの青年の関わりはこれで終わったわけではない、と私は思っています。彼は「悲しみながら立ち去った」と聖書は記しています。この悲しみは、イエス様の言葉に従えない自分をはっきりと示された故の悲しみでした。それは、自らの罪を示された者の悲しみと言っても良いと思います。この悲しみと信仰とは無関係ではありません。この悲しみを知った者は、この悲しみを忘れることはできません。そしてまた、イエス様もこの青年を忘れることは決してありませんでした。イエス様の憐れみに満ちたまなざしは、この青年にずっと注がれていたと思います。どうして私はそう思うのか。それは、この青年の中に若い日の自分の姿を見るからです。また、多くのキリスト者の証しの中で、イエス様に従って歩み出す前に、或いはイエス様に従って歩み始めたにもかかわらず、この青年と同じ悲しみを抱いたことを聞くからです。
信仰の歩みは悔い改めと共に始まります。悔い改め、それは「悔いること」と「改めること」です。自らの罪を悔い、イエス様に従う者として生き方を改める。この自らの罪を「悔いること」は本当に悲しい、辛い、嘆きを伴います。自分の正しさ、プライドを捨て、自らの罪を神様の御前に言い訳することなく認める。それは本当に辛いことです。しかし、この悲しみから一歩踏み出すこと、イエス様を信頼し、イエス様に委ね、イエス様に従う者としての一歩を踏み出すこと、それが「改める」ということです。イエス様はその一歩をこの青年に求め、一歩を踏み出すことを待っておられる。私を待ってくれたように、皆さんを待ってくれたようにです。このイエス様のまなざしを忘れてはなりません。このまなざしの中、私共は生かされているからです。
2.富の誘惑
今朝与えられております御言葉は、この金持ちの青年がイエス様のもとを去った後、イエス様と弟子たちとの間で為されたやり取りが記されています。イエス様は弟子たちにこう告げます。23~24節「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」このイエス様の言葉は、御自分のもとを去った青年のことを突き放した言葉のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。青年が持っていたお金、富というものの力をイエス様はよく知っておられたのです。そして、その力が神様に対抗し、私共を神様から引き離すことをよくよく御存知であり、そのことを弟子たちに悟らせようとされたのです。
イエス様は公に宣教を始める前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けました。その時イエス様を襲った三つの誘惑が聖書に記されていますが、その内の一つが、この富の誘惑でした。悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」と言ったのです。イエス様は、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と言って、この誘惑を退けられました。この悪魔の誘惑を退けて、十字架への道へと敢然とイエス様は歩み始められました。そのように、この荒れ野の誘惑はイエス様が公の宣教をどのように行っていくのかを最終的に決められた時と見ることができます。しかし、それだけではありません。イエス様は私共のために、私共に代わってこの誘惑をお受けになったのです。この誘惑は私共が必ず受ける誘惑だからです。富は、私共を神様に仕えるのではなくて悪魔に仕えるようにと誘惑するのです。この誘惑から逃れることは誰もできません。しかし、イエス様はこれに勝利されました。それは、私共はその誘惑に勝てなくても、イエス様に祈り、イエス様を頼るならば、イエス様が私共のために、私共に代わって戦ってくださり、勝利してくださる。その誘惑を退けてくださる。その道を開いてくださったということです。私共が出遭う誘惑をイエス様は御存知なのです。残念なことに、この時この青年はイエス様に頼りませんでしたけれど、イエス様に頼り、イエス様に従うならば、この誘惑から私共は守られます。イエス様が守ってくださいます。勿論、この戦いがなくなることはありません。しかし、イエス様に頼るならば、必ずこの誘惑を退けることができます。
しかし、自分一人で戦うならば、この誘惑に勝てる人はまずおりません。それほどまでに悪魔の誘惑は強く激しいものなのです。この誘惑は目に見える富だけではありません。この世における権力だったり、地位であったり、栄誉であったりもします。この世の栄華が私共の心を奪うのです。イエス様はそれをよくよく御存知でした。そして、それと戦うことがどんなに難しいかも御存知でした。ですから、「はっきり言っておく」「重ねて言うが」と、このことを強調して言われたのです。この誘惑の強さ、悪魔の策略の巧妙さの故に、また私共の弱さの故に、天の国に入ることができない。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とイエス様が言われたのは、そういうことです。神様よりも富に心を奪われてしまうからです。
3.信仰の現世主義
弟子たちはこのイエス様の言葉を聞いて、「それでは、だれが救われるのだろうか。」と言いました。イエス様は、「あなたたちは金持ちではないから大丈夫だ。」とは言われなかったのです。一つには、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」との言葉に反応して、「それじゃあ、だれも天の国に入れない。」と言ったのでしょう。しかし、それだけではありません。当時のユダヤにおいては、「金持ちになる、金持ちである」ということは、「神様の祝福である」と普通に考えられておりました。信仰の現世主義と言ってもいいかもしれません。富が神様に従うことと対立するなんて考えてもいなかったのです。
善いことをすれば神様はそれに報いてくれて、善いものを与えてくれる。それが富であり、この世の栄華であり、家庭の幸せであり、子宝であり、健康長寿でした。これは当時のユダヤ教の理解でした。しかし、これは何も当時のユダヤ教だけではなくて、広く世界中で受け入れられている宗教的常識とでも言うべきものではないでしょうか。日本人の宗教意識の根っこにあるのも、このようなものだと思います。ですから、新興宗教はこれらのことを約束して伝道する。これを信仰すれば、目に見えるこんな良いことがありますよ宣伝する。これは分かりやすのです。何故なら、この世の論理そのままだからです。善いことをすれば、見返りとして善いものが与えられる。ギブ・アンド・テイク。その流れの中で、善いことをすれば神様に喜ばれて永遠の命を得る、神の国に入れるとなるわけです。
しかし、これは福音ではありません。イエス様が私共に与えて下る救いの筋道ではありません。イエス様の弟子たちは、この段階ではまだイエス様の十字架と復活による救いを知りません。16章で、イエス様は自らの十字架と復活について予告されましたけれど、弟子たちはそれが何のことか、この段階では少しも分かっておりません。ですから、金持ちが天の国に入るのは難しいと言われても、よく分からなかった。その人が善い人で善い行いをしたから、神様が祝福してくれて金持ちになった。それなのに、金持ちが天の国に入れないとするなら、一体だれが救われるのか。何をしたら天の国に入れるのか、救われるのか。イエス様のもとから悲しみながら去った青年と同じ所で、弟子たちはイエス様の言われたことが分からなかった。善いことをすれば救われるという枠の中に囚われていたからです。イエス様のもとを去った青年の方が、自ら悲しんだのですから、弟子たちよりも富と信仰について、富の誘惑について、自らの限界について、よく分かっていたのかもしれません。
4.神様は私を救うために全能の力を用いられる
イエス様は弟子たちを見つめて言われました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」イエス様はこの言葉を語る時に弟子たちを「見つめ」られました。弟子たちを見つめるイエス様のまなざしの中には何があったのでしょう。「あなたたちはまだ分からないのか。」という思いではなかったかと思います。イエス様がここで、「神は何でもできる」と言われたのは、神様の全能の力というような、神様についての一般的なことを言おうとされたのではありません。これは私共が天の国に入る、私共が救われる、その文脈の中で告げられた言葉です。つまり、私共が救われるのは、自分の力や真面目さ、善き業によってではない。そんなものでは私共は決して天の国に入ることはできない。しかし、神様は救われることのないような私共をも救ってくださる。神様にはできないことはない。私共を必ず救ってくださる。この神様の力を、この神様の憐れみを、「あなたたちはまだ分からないのか!」そう告げられたのです。私共はこの神様の憐れみに満ちた全能の御業によって救われるのです。もっと言えば、イエス様はここで、「この神様の何でもできる、何でも為される、その憐れみに満ちた力によってわたしは来た。天から来た。そして、わたしは十字架に架かり、復活する。あなたがたを天の国へと招くため、あなたがたに永遠の命を与えるために。」そう告げられたということです。
5.イエス様に従う信仰
このイエス様の御自分の命を懸けた救いの御業の宣言に対して、ペトロは何とものんびりした応答をします。27節「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』」イエス様は「自分の業によってではない。ただ神様の力、神様の憐れみによってだ。」と言われているのに、ペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と言うのです。イエス様はこのペトロ言葉を聞いて、心の中でため息をつかれたのではないかと思います。しかし、イエス様はこのペトロの問いを退けないのです。私だったら、「まだ分からないのか!」と怒ってしまいそうですけれど、イエス様はそうではないのです。
イエス様の答えは驚くべきものでした。28節「イエスは一同に言われた。『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。』」新しい世界(それは終末において神の国が完成する時のことです)において、「人の子」(イエス様のことです)が栄光の座に座る、つまり神の御子としての座に座るということですが、その時には、十二弟子は十二の座に座り、イスラエルの十二部族(これは新しいイスラエルとしてキリストの教会を示しているでしょう)を治めることになる、とイエス様は言われるのです。
ここでイエス様は、弟子であるペトロたちが何もかも捨ててイエス様に従った、この一点において、弟子たちは神様から価値ある者と見なされると告げられたのです。何もかも捨ててイエス様に従う、それは善き業の一つではありません。そうではなくて、「神様が良しとされるただ一つのこと」なのだと教えられたのです。何もかも捨ててイエス様に従う、それがイエス様が求め、神様が認める信仰だからです。「信仰によって救われる」とは、イエス様に従うことによって救われることです。信仰とは、ただ心で思うことではありません。「鰯の頭も信心から」という言葉がありますが、日本人にとって、だれをどう信じるかはあまり問題にならず、とにかく信じていれば良い、信じることは良いことだ、そういう感覚があるかもしれません。ですから、教会で結婚式をして、神社へ初詣に行き、葬式はお寺ですることにも抵抗がないのでしょう。しかし、聖書が告げる信仰には中身があるのです。そこで決定的に大切なのは、だれを信じるかということです。そして、その方をどう信じるかということです。ここでイエス様はペトロの言葉を受け取り、これが「信仰によって救われる」という福音が告げる「信仰」なのだと言われた。それは、イエス様に従うことです。イエス様を救い主として信じ、愛し、従う。それが聖書が告げる信仰です。それは少しも観念的なことではありません。自分の人生を懸け、自分の生涯をこの一点によって営んでいく歩みです。
ある方が、「キリスト者という言い方ではなく、キリスト道と言うべきである。」と語られたことがあります。茶道、書道、武道、剣道のように、キリスト道だ。それは、イエス様を信じるということは、キリストと共に歩む、キリストに従って歩む、このこと抜きにはあり得ないからだというのです。キリスト教でなくキリスト道と言うかどうかは別にしても、言いたいことは分かりますし、私もそうだと思います。
6.御国を目指して
イエス様を愛し、信頼し、この方に従う。その道は天の国に至ることになる。必ず救いに与ることになる。それは十二弟子にだけ約束されているのではありません。イエス様は29節で「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」と告げられました。「家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆」とありますが、大切なのは「わたしの名のために」です。イエス様の名のために、イエス様に従うために、イエス様を愛する故に、イエス様を信頼する故に、ということです。その人は永遠の命を受け継ぐ、つまり天の国に入る、救われるということです。
このイエス様の言葉を聞いて、私共はいささか「ひるむ」ところがあるでしょう。「家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てる」、つまり家族も財産もすべて捨てる、そんなことまでしなければならないのか。自分にはできそうもない。しかし、そんな風に考えることはありません。そうしなければならないと信徒に迫る牧師がいれば、それはカルト宗教でしょう。この言葉は、イエス様に従うということはそういうことになるという事実を告げられたのだと思います。キリストの教会は、長い歴史の中で実際多くの迫害を受けてきました。今でもそのような目に遭っているキリスト者は世界中にたくさんいます。日本だってつい70年前まで、そうでした。先の大戦の時、キリスト者であることは「非国民」と言われたのです。社会主義国においては、キリスト者であることは社会的・経済的困難を強いられました。今でもそうです。イエス様が言われたこの言葉は、そういう歩みの中にいる多くのキリスト者を、どれほど励ましてきたことでしょう。そして、代々のキリスト者はこの地上における困難の中で、天の国を見上げて、キリストに従う者として歩んできたのです。キリスト教は現世主義ではありません。勿論、目に見える祝福がないとは言いません。神様は全能の方ですから、何でもお出来になりますし、何でもしてくださいます。しかし、神様が私共に与えようとされている本当の祝福、私共が神様に一番求めるところは、そこにあるわけではありません。永遠の命です。
7.自らを誇ることなく
そして最後に、イエス様は30節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と告げられました。これについては、次の20章1~16節の御言葉を受ける時に学びますが、要するに、自分はこれほどのことをしました、そんな風に自らを誇ってはなりません、ということです。ペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」と言いました。これは確かに信仰の歩みにおいて大切なことです。しかし、それでも、自分はこれだけやってきましたと誇ることは天の国にふさわしくないのです。イエス様はここで、信仰を自分の善き業として考え、これを誇るという誤りをおかしてはならない。そう弟子たちに教えられたのです。
ただ神様の憐れみによって、ただ神様の御力によって、救いに招かれた私共です。しかし、富の誘惑も、自分の善き業を誇る誘惑も、とても強く私共を捕らえようとします。この誘惑を退け、この誘惑から逃れることができるよう、私共はただイエス様に祈り願いつつ歩んでいくしかありません。イエス様は必ず私共を守り、導いてくださいます。
[2019年11月17日]