1.アドベントを迎えて
アドベント第一の主の日を迎えています。昨日は、北陸学院大学同窓会富山支部のクリスマス会が当教会で行われました。今週の土曜日には、刑務所のクリスマス会と富山市民クリスマスが行われます。クリスマスの行事が目白押しになっていきます。街のあちこちにもクリスマスのイルミネーションが飾られています。
いつ頃からでしょうか、私はクリスマスが近くなると、この世界が平和であるようにと強く思うようになりました。クリスマスと世界の平和がどうしても分けられない。クリスマスになるとどうしても世界の平和を思う。そして悲しくなります。
私が生まれた時、先の大戦は終わっていましたが、ベトナム戦争が始まっていました。ベトナム戦争は私が20歳になるまで続いていました。そして、クリスマスが近づくと、「クリスマス停戦をする」という報道が毎年ありました。まだ教会に行っていなかった私でしたが、クリスマスの時に戦争が止む、そのことが何か不思議なことのように感じ、でもそれはとっても良いことだと思いました。クリスマスの時だけでなくて、ずっと止めればいいのにと思いました。
私は20歳で洗礼を受け、その時、ベトナム戦争は終わりました。「クリスマス停戦」という言葉も聞くことがなくなりました。しかし、私は、毎年クリスマスが近づくと、今年こそ平和に世界中でクリスマスを祝うことができるようにと願う思いを強くしています。残念ながら、今もアフガニスタンで紛争が続いています。シリアの内戦、コンゴの内戦、イラクの内戦、クルド人とトルコの紛争、リビアの内戦、イエメンの内戦と、世界各地で戦争状態が続いている。これが現実です。しかし、その現実の中で、私共は願い、祈るのです。「平和を与えてください。」「御国を来たらせたまえ。」「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ。」
2.預言者イザヤの時代
今朝与えられております御言葉、イザヤ書8章23節以下の所は、クリスマスを迎えようとするこの時期、必ず読まれる箇所の一つです。それは9章5~6節にあります、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」というイザヤの預言を、代々の教会がキリスト預言と受け止めてきたからです。この言葉は、市民クリスマスで歌われるメサイアの中の合唱においても歌われているところです。
このイザヤの預言がどういう時に告げられたのかと言いますと、紀元前8世紀、イエス様が生まれる700年以上前に、メソポタミア北部、現在のイラク北部に、アッシリアという巨大帝国が生まれ、近隣の国々を次々と飲み込んでいきました。北イスラエル王国は、シリアと同盟を結んで、アッシリアに対抗しようとします。強大な国に対抗し、飲み込まれないようにするには、小さな国は同盟を結び、塊になって対抗するしかありません。けれども、この時南ユダ王国はこれに加わろうとしませんでした。同盟したシリアと北イスラエル王国は、南ユダ王国を攻め、エルサレムを包囲しました。これがシリア・エフライム戦争です。同盟したシリアと北イスラエル王国が南ユダ王国を攻めるというのは分かりにくいかもしれませんが、アッシリアは北から攻めてきます。その時、南のユダ王国が自分たちを攻めればひとたまりもありません。だから、何としても同盟して欲しい。だから、シリアと北イスラエル王国(エフライム)は軍事的に脅しをかけて、自分たちと同盟させようとしたのです。この時、預言者イザヤは南ユダ王国にいました。そして、南ユダ王国のアハズ王に向かって「ただ主に依り頼め。」と告げました。しかしアハズ王は、何とアッシリア王ティグラト・ピレセル3世に使者を送り、援軍を求めたのです。アッシリア王は大喜びです。シリアや北イスラエル王国を攻める口実が出来たからです。アッシリアは大軍を率いてシリアを攻め、瞬く間に都ダマスコを占領しました。更にアッシリア軍は、ギレアド、ガリラヤ、ナフタリといった北イスラエル王国の北部の町をも瞬く間に占領します。そして紀元前722年、都サマリアが陥落して北イスラエル王国は滅んだのです。
3.イザヤの目の前にあった現実
イザヤが見ているのは、「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」という現実です。つまり、アッシリアの強大な軍隊の前に為す術なく敗北し、占領された北部地域。アッシリアの占領政策は苛烈でした。その土地に住む多くの者を他の土地に強制移住させ、その代わりには、やはりアッシリアが征服した別の民族をそこに移住させて、共同体を破壊し、民族的アイデンティティーを奪いました。「辱めを受けた」とはそういうことです。単に占領されたというだけではない。神の民としての誇りを奪われ、踏みにじられたのです。それが、9章1節「闇の中を歩む民」であり、「死の陰の地に住む者」ということです。財産も、生活の基盤も、生きる希望も、何もかも失った人々。イザヤが目にしているのは、そういう人々です。
4節にある「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服」これは、圧倒的兵力でシリアと北イスラエル王国に迫ったアッシリア軍兵士の靴の音、ザッザッという軍靴の響き、そしてそのアッシリア軍の前に為す術なく敗北し、累々と重なる兵士たちの死体をイメージさせます。イザヤが目の前に見ていたのは、そういう光景でした。
4.イザヤが見た将来
しかし、イザヤは告げるのです。8章23節「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」確かに、「先に」辱めを受けた。その光景が目の前には広がっている。しかし、「後には」栄光を受けるとイザヤは告げます。
9章1節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と告げます。「見た」「輝いた」は完了形です。でも、それはまだそれは起きていないのです。しかし、イザヤは、「見た」「輝いた」と告げます。それは既に起きたのと同じように、確実に起きることだからです。神様がそのようにするとお決めになったことだからです。
2節「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。」と告げます。アッシリアに攻められたのは穀物の収穫の後でした。そして、すべてを奪われたのです。イザヤはそのままでは終わらないと告げます。「深い喜びと大きな楽しみ」が与えられる。「喜び祝う」と言うのです。それは、今度は反対にイスラエルがアッシリア帝国をやっつけることになると言っているのではありません。イザヤが見ていたのは、そんな将来ではありません。4節「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」とあるように、軍靴も軍服も火に投げ込まれ、焼き尽くされる将来です。つまり、戦いそのものがなくなる。平和が満ちる。その日を見ていたのです。
アドベントを迎える今日、私共が仰ぎ望むのもそのような明日です。世界中で戦火が止むことなく続いている現実。何百万という人が故郷を離れ、難民となっている。そういう中で私共は、軍靴も軍服も焼き尽くされる日が来ることを信じ、待ち望むのです。核兵器もミサイルもなくなる日が来ることを私共は信じる。それは政治的な見通しで、そういう日が来るだろうというのではありません。人間の罪と愚かさは、そのような明日を生み出すことは出来ないでしょう。しかし、神様はそうされます。この明日は、神の言葉によって与えられる、それ故に揺るがぬ希望なのです。
5.独りの嬰児によって
では、それはどのように与えられるのか。イザヤは5節でこう告げます。それは「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」によって与えられる。巨大な軍事力によってでもなく、偉大な政治家によってでもなく、ひとりのみどりご、ひとりの男の子によってもたらされる、とイザヤは告げました。
多くの旧約学者たちは、これはアハブ王の後のヒゼキヤ王を指していると言います。そういう風に読むこともできるでしょう。しかし、聖書の預言というものは、一つの歴史的事実だけを告げているのではない、と私は理解しています。少なくとも、三つの場面・出来事をその射程に持っている。一つは、この預言が為されたすぐ後に起きること。学者たちはこれを巡って様々な議論をしているのですが、それだけじゃない。二つ目は、イエス・キリストによってもたらされる出来事。三つ目は、イエス・キリストの再臨によってもたらされること。イザヤの預言は、この三つの射程を持ったものなのです。
キリストの教会は、この「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」を、主イエス・キリストと受け取ってきました。それは、マタイによる福音書4章12節以下で、イエス様が伝道を開始された時にこのイザヤ書8章23節bが引用されていることからも明らかです。この「みどりご」は「わたしたちのために生まれた」のです。この「男の子」は「わたしたちに与えられた」のです。「わたしたち」とは「先に辱めを受けた者」「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」たちです。それは、戦禍の中であえぐ人々だけではありません。様々な現実の中で、生きることに困難を覚え苦しんでいるすべての人です。そのすべての人のために、イエス様は来られたのです。
イザヤがこの預言を告げた時、イエス・キリストというお方をイメージすることはできなかったかもしれません。このみどりごが、この男の子が、やがて「わたしたちのために十字架にお架かりになられる方」であることまでは分かっていなかったかもしれません。しかし、今私共はそのことをはっきり知っています。イエス様が私のために来てくださった。「わたしたちの指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」となってくださった。だから、この方の御手の中にある明日、この方と共にある明日に、私共は希望を持つのです。
6.御国の完成を目指して
イザヤは6節で「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」と告げました。これは、南ユダ王国の繁栄を告げているのではありません。722年に北イスラエル王国がアッシリアによって滅んだ後、南ユダ王国は、587年にバビロニア帝国によって滅ぼされるまで存続しました。しかしそれは、繁栄したと言えるようなものではありませんでした。アッシリアの後はバビロニア、その後はペルシャ、その後マケドニア、その後はローマと、ずっと巨大な帝国の支配の下に置かれ続けたのです。
私はこの6節の預言は、ニカイア信条において告白されている「そして父の右に座し、生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。」という、イエス様の再臨によって起きる神の国の完成を指していると受け止めて良いと思います。このイザヤの預言は、イエス様の到来によって与えられた神の国の始まり、そして、再びイエス様が来られることによって与えられる神の国の完成、それを告げています。私共は、イエス様が一回目に来られたことを知っています。そして今、再び来られるイエス様を待ち望んでいます。
アドベントという言葉は、ラテン語の「来る」「到来」を意味する Adventusから来ました。イザヤ、そしてイザヤの預言を与えられた旧約の人々は、イエス様の最初の到来を待ちました。これを第一のアドベントと言っても良いでしょう。長いアドベントでした。そして今、私共は再び来たり給うイエス様を待ち望んでいます。これを第二のアドベントと言っても良いでしょう。私共は、第二のアドベントの時を歩んでいるのです。イエス様が来られることによって完成される神の国は「平和は絶えることがない」と告げられています。その国は正義と恵みが満ちている所です。私共はその国を待ち望みます。主の祈りにおいて、「御国を来たらせ給え」と祈るということは、イエス様が再び来られることを、この方の御支配による神の国の到来を、待ち望み、祈るということです。
7.主の熱意によって
御国は、私共の努力で建てることができるわけではありません。しかし、その国が必ず来ることを私共は信じています。私は人間の政治的プログラムによって御国が来るとは思いません。しかし、必ず来ると私共は信じています。何故なら、御国は万軍の主の熱意によって成し遂げられるものだからです。「万軍の主の熱意」、それはこの世界を造られた熱意であり、愛する独り子をわたしたちのために与えてくださった熱意であり、イエス様の言葉と業とによって明らかにされたわたしたちへの熱意であり、イエス様を死者の中から復活させられた熱意です。この熱意によって世界は存在し、私共は生かされており、救われたのです。主の熱意は諦めることを知りません。もし、諦めてしまう程度の熱意だったなら、神様はイエス様を送ったりはされなかったでしょう。御手を伸ばして私共を救ってなどくださらなかったでしょう。しかし、神様の熱意が私共を救いへと導き、やがて来る神の国の完成に向かって生きる者としてくださった。私共自身が、主の熱意の証拠なのです。だから私共は、主の熱意によってもたらされる平和の国、主イエスの王国、とこしえに立てられる神の国を信じて、待ち望むのです。
このイエス様が再び来られることへの希望は、今を生き抜く力と勇気を私共に与えます。闇の中を歩んでいても、そこに一条の光があれば、そこに向かって歩んでいけます。私共がアドベントの日々を歩むとは、この光を知らされた者として、希望を持つ者として生きるということです。私共は絶望しない。光を知ったからです。闇がすべてを覆っているように見えたとしても、まことの光なるイエス様が既に来られたし、再びお出でになることを知っているからです。この希望の光を消すことは、どんなに強大な悪しき力もできません。闇は光の前には退くしかないからです。
[2019年12月1日]