1.アドベント
アドベント第三の主の日を迎えています。今年のアドベントの日々を歩みながら、新しく教えられた言葉、心に残った言葉があります。富山新庄教会出身であり、皆さんもよく知っておられる東京神学大学の小泉健教授が、この10月に日本キリスト教団出版局から『主イエスは近い -クリスマスを迎える黙想と祈り-』という本を出されました。その本の中に、「第一のアドベント」「第二のアドベント」という言葉が出てきます。この言葉は、小泉先生が本の始めの所で、「こういう言葉はないのだけれど、あえて言えば」と前置きして用いられた言葉です。「第一のアドベント」とは、旧約の人々が救い主の到来を待ち望んだ日々を指します。そして「第二のアドベント」は、再び来られるイエス様を待ち望むキリスト者たちの日々を指します。私がこの言葉から何を新しく学び、何が心に残ったのかと申しますと、アドベントというのは、単にクリスマスより前の四週間の日々を意味するのではない。私共の生涯のすべてがアドベントなのだ。私共はキリスト者として、いつでも第二のアドベントを過ごしているのだ。そのことを改めて心に刻むことができました。私共は第二のアドベントの日々を歩んでいる。第一のアドベントは、イエス様が到来されたクリスマスの出来事によって満たされました。そして今、私共はそのイエス様が再び来られるのを待ち望みつつ歩む「第二のアドベント」の時を歩んでいる。それはイエス様が再び来られることによって満たされます。その日を信じて、その日を待ち望み、その日に向かって歩む。それが私共キリスト者です。
2.讃美歌21-248番「エッサイの根より」
今年のアドベントの主の日は、第一のアドベントを歩んだ旧約の人々を生かした御言葉、旧約のイザヤ書から御言葉を受けています。今朝与えられているのは、イザヤ書11章の御言葉です。
1節の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」というとても有名な言葉で始まります。この後の讃美歌248番においても歌われている言葉です。この歌を歌うたびに思い出すのは、私が求道中の時、そして洗礼を受けて間もない頃、クリスマスが近くなると必ずこの歌を歌うのですが、私にはいったい何を歌っているのか全く分からなかったということです。「何かよく分からないエッサイという植物があって、そこから新しい芽が出る。」そんな風に思っていました。讃美歌21になってからは、歌詞が変わりまして、教会生活をしたことがない人にはいよいよさっぱり分からなくなったのではないかと思います。1番の歌詞は「エッサイの根より 生いいでたる、預言によりて 伝えられし ばらは咲きぬ。静かに寒き 冬の夜に。」となっていますから、いよいよ「エッサイという種類の薔薇」の話かと思う人が出るのではないかと思います。讃美歌の歌詞が説明されることはほとんどありませんから、私もそうでしたが、この248番はよく分からないなと思う人もいるかもしれません。エッサイというのは、ダビデのお父さんの名前です。そして薔薇は、ドイツではイエス様を表す花です。この曲はドイツのクリスマスの曲ですので、こういう表現になっているのです。エッサイという種類の薔薇が冬に咲いているということではありません。
3.ダビデ王朝のひこばえ
さて、このイザヤ書11章は紀元前8世紀、北メソポタミアに生まれた強大な国アッシリアが、南北二つに分かれた神の民、北イスラエル王国と南ユダ王国に迫って来る、そういう時代に記されました。預言者イザヤは、南ユダ王国のダビデ王朝が滅びる、その絶望的将来を見据えながら、しかしそれでも神様の愛は変わらない、救いの御業が為される、そのことを神様によって示されて、神の民に告げました。それが、今朝与えられた御言葉です。
「エッサイの株」と訳されていますが、この「株」という言葉は切り株を意味します。つまり、エッサイの息子であるダビデによって始まったダビデ王朝が倒される。滅んでしまう。大木が切り倒され、残るのは切り株だけ。青々と茂った枝も何もかもなくなり、もうそこから何も生まれないと思える切り株だけが残る。しかし、その切り株から新しい芽が萌えいでる。そして若枝に成長する。そうイザヤは告げました。
この切り倒した木の株、木の根から生えてくる新しい芽、それを「ひこばえ」と言います。昔は裏山の木を切ってたきぎにしたり、炭にしたりしました。その切った木の株から新しい芽が出て、若枝となり、何年かするとまた切ることができる木が育つ。「孫=ひこ」が「生える」で「ひこばえ」です。「ひこばえ」というのは、日常的に使われていた言葉で、誰もが知っている日本語でした。俳句の春の季語にもなっています。しかし、灯油やガスが普及し、裏山で木々を伐採してたきぎとして使うことはなくなりました。そして、「ひこばえ」という日本語も忘れられてしまいました。
イザヤが見ていたのは、ダビデ王朝の「ひこばえ」です。ダビデが王になったのは紀元前1000年。それから300年近くが経ち、イザヤがこの預言をした時、北イスラエル王国はアッシリアの前に滅びますが、ダビデ王朝のあった南ユダ王国は何とか滅びるのを免れました。しかし、アッシリアの属国となってしまいます。その後、南メソポタミアに生まれたバビロニアによって紀元前587年に南ユダ王国も滅びます。ダビデが王になってから約400年後、このイザヤの預言から約150年後に、エッサイの家系であるダビデ王朝は切り倒され、切り株になってしまったのです。
サムエル記下7章16節において、ダビデは、預言者ナタンによって「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と約束されました。この神様の約束は、ダビデ王朝が滅びることによって反故にされたのでしょうか。イザヤは、そうではないと告げたのです。確かに、ダビデ王朝は滅びる。エッサイの家系は切り株となってしまう。しかし、もう何も生まれない、神様の約束もなくなった、そう見えたとしても、そこから新しい芽が出る。若枝が育つ。ダビデの子孫からまことの王、救い主が生まれる。その方によってこそ、神様の約束は実現する。ダビデの王座は復興し、とこしえに堅く建つ。神様の約束が反故にされることはない。そうイザヤは告げたのです。
4.まことの王として来られる方
では、その萌え出でる芽、若枝とはどんな方なのでしょう。2~5節に記されているのがその方です。2~3a節「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」ここを読んですぐに分かることは、その方は力の王ではないということです。ここには、力によって、武力によって国を建てる王ではないことが、はっきり示されています。それは、アッシリアやバビロニア、更にはローマ帝国に対抗し、これを力によって打ち破って建てられる王国ではないということです。
その方は、主の霊、神の霊、聖霊に満たされた方です。知恵と識別、思慮と勇気を持ち、何よりも主を知り、主を畏れ敬う方です。更に具体的に言えば、3b節「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」方です。私共は、目に見える所しか見ずに、人を判断します。人が言うことを聞いて、その人を判断します。しかし、その方はそうではないと言うのです。では、何を見、何を聞くのか。それは、心の思いを見、心の叫びを聞かれるということです。そんな王はどこにいるのでしょうか。
また、4a節「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。」とイザヤは告げます。社会的立場の弱い人、貧しい人、この社会で行き場を失い、虐げられている人、その人たちを正当に公平に裁かれる王だというのです。強い者、豊かな者の味方をするのではない王。そんな王がどこにいるでしょうか。
4b節「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」とイザヤは告げます。その方の言葉は、私共の心を打ち、悔い改めさせ、この世を正します。逆らう者を死に至らせることもできる、権威ある言葉を告げられる方。そんな方がどこにいるのでしょうか。
5節「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。」とイザヤは告げます。「正義と真実」、これがまことの王の特徴です。自分が考える小さな正義を振りかざして平気で嘘を言う権力者ばかり見せられている私共には、そんな王が本当にいるのだろうかと思う。そんな王がどこにいるのでしょうか。
しかし、そんな王が本当にお生まれになった。私共はその「まことの王」を知っています。その方こそ、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストです。その方は、私共の心を私共以上によく知っておられます。私共の身勝手さも、愚かさも、罪も、嘆きも、苦しみも知っておられ、声にならぬ叫びも聞いておられます。その方は、私共がどんなに弱り果て、困り果てていても、御言葉をもって励まし、支え、悔い改めへと導いてくださいます。その言葉は真実であり、正義そのものです。何が正しく、何が間違っているのかを私共に教えてくださり、正しい道へと導いてくださいます。その正義と真実は、愛と結ばれています。何故なら、その方は自らの命を懸けて、命を捨てて、私共を神様の許へと導いてくださいました。第一のアドベントを歩んだ人々が待ち望み続けた方を、私共は知っています。このイザヤの預言が、確かに主イエス・キリストの誕生によって成就されたことを知っています。私共にはまことの王が与えられたのです。何と幸いなことか、何とありがたいことかと思います。
5.主の霊を注がれて
そして、この幸いはもう一つの事実を私共に教えます。それは、この方と共にあった霊、主の霊、聖霊が、私共にも注がれているということです。この霊が注がれているが故に、私共もまた、主を畏れ敬うのです。この霊を与えられていなければ、私共は主を知らず、主を畏れることも敬うことも知りませんでした。私の思いが満たされれば幸い、満たされなければ不幸。正義と真実など、自分が生きる上では少しも重要ではない。そう思って生きていました。自分のことしか考えないところには、正義も真実もないでしょう。それは個人であれ、国であれ、同じことです。私共は主イエス・キリストというまことの王を与えられた故に、そのことを知りました。新しい者、神の子、神の僕とされたからです。神の国は、イエス様の到来と共に始まりました。しかし、まだ完成されていません。ですから、私共は第二のアドベントの時を生きるのです。
6.弱肉強食ではなく
イエス様が再び来られる時、何が起きるのか。イザヤはこう告げました。6~9a節「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」ここで、「小さい子供がそれらを導く」と言われる「小さい子供」とは主イエスのことでしょう。ここで告げられているのは弱肉強食の世界の完全な否定です。人間の世界だけではありません。狼と小羊、豹と子山羊、子牛と若獅子といった動物の世界さえも、この世界全体が弱肉強食ではなくなるというのです。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない世界です。これは、自然にそうなるということはあり得ません。ここで告げられているのは、神様の新しい創造の業によって生まれる世界です。自然もまた造り変えられるのです。
私共はその日を待ち望みつつ生きる。その日を待ち望みつつとは、その日に向かって歩むということですから、その日に与えられる全き平和を目指して、この世界がそこに向かっていることを知っている者として歩むということです。確かに、この世界の現実は弱肉強食でしょう。しかし、それで良いわけでもないし、それがこの世界の本当のありようでもありません。弱い者が虐げられ、その声が押しつぶされ、権力者が自分を守るために不当な圧迫を行うことを当然のこととしてはなりません。それは、あってはならないことです。それは「主を知る知識」によって分かることです。そのようなことは理想かもしれません。そのようなことは夢や幻なのかもしれません。しかし、イザヤは「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」ることを告げ、事実、ダビデの子孫から主イエス・キリストが生まれました。イザヤが見たのは幻です。しかし、それは神が与え給うた幻です。神が与え給う幻。それは神様が、必ずそのようにするという、御心を示したものでした。
私共も幻を見る。夢を見る。それは神様が与え給う幻であり、夢です。イザヤが見た幻です。それは必ず成る。主イエス・キリストが来られたように、必ず成る。10節で、イザヤは「その日がくれば」と告げます。その日、すなわちイエス様が再び来られる日です。「その日」に向かって、私共もこの世界も歩んでいます。
7.神様は神様なのです
日本においてクリスマスは年末の行事として定着しました。しかし、そこに自分を生かし、この世界を造り変える、大いなる光を人々は見ようとはしません。人々は、この罪に満ちた世界は、その光をイルミネーションに変えてしまい、主人公をイエス様からサンタクロースに変えてしまいました。今はお寺の幼稚園でさえ、クリスマスを行います。お寺で行うのでいすら、当然、イエス様は出てきません。イエス・キリスト抜きのクリスマス。それは、何も変わらない、変えようとしない、神様なんて押し入れの奥にしまっておけばいいという人間の罪が、クリスマスの出来事さえ飲み込んでいるかのようです。しかし、どんなに押し入れの奥に片付けようと、神様は声を出し、弱い人、貧しい人に力と勇気を与えられます。「この世界はわたしのもの。そこに生きるものは、すべてわたしの愛するもの。」と神様は告げられます。この神様の声を沈めることは誰にも出来ません。神様は神様だからです。この神様の愛によって、この世界は保たれ、導かれています。この神様の愛をないものにすることは誰にもできません。神様は神様だからです。
もう少しでクリスマスを迎えようとするこの時、私共は心を一つにして祈りましょう。「主よ、早く来てください。」これが第二のアドベントの時を歩む私共の祈りです。
[2019年12月15日]