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礼拝説教

「命を救う賢さ」
ヨシュア記 9章1~27節
エフェソの信徒への手紙 5章15~20節

小堀 康彦牧師

1.前章までのこと
 2019年最後の主の日を迎えています。12月最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。今朝与えられております御言葉はヨシュア記9章です。
 6章で、ヨルダン川を渡って約束の地に入ったイスラエルはエリコを占領します。しかし、次の町アイでの戦いでは敗れてしまいました。滅ぼし尽くせと神様から命じられていたのに、アカンが、上着と銀200シェケル(約2kg)、金50シェケル(約550g)を自分のものにしていたからです。神様によってそのことが示されて、アカンはイスラエルから絶たれます。それが前回見ました7章に記されていたことです。そして、再びイスラエルはアイの町を攻め、これを滅ぼしました。それが8章に記されています。
 イスラエルによってエリコそしてアイの町が滅ぼされた。この出来事は、カナンの地に住んでいた人々にとって大変な脅威であったに違いありません。「次は自分たちの町が攻められる。」当然そう思ったことでしょう。そこで彼らは同盟を結んで、一致団結してイスラエルに対抗しよう、戦おうとしました。9章1~2節「ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノン山のふもとに至る大海の沿岸地方に住むヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちは皆、このことを伝え聞くと、集結してヨシュアの率いるイスラエルと一致して戦おうとした。」とあるとおりです。ところが、ギブオンという町の住民、彼らはヒビ人でしたけれどその同盟に加わらず、イスラエルをだまして、自分たちの命を保障する協定を結ばせて滅びるのを免れたというのが、この9章に記されていることです。

2.ギブオン人の嘘
 ギブオンの住民はこのようにしました。4節b~6節a「彼らは使者を装い、古びた袋、使い古して繕ってあるぶどう酒の革袋をろばに負わせ、継ぎの当たった古靴を履き、着古した外套をまとい、食料として干からびたぼろぼろのパンを携えた。彼らはギルガルの陣営に来てヨシュアとイスラエル人に、『わたしたちは遠い国から参りました。どうか今、わたしたちと協定を結んでください』」と言ったのです。どうして遠い国から来た者に偽装したかと言いますと、申命記7章1~2節に「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。」とあるからです。イスラエルは、この地の人々と協定を結んではならない、必ず滅ぼすように、と神様に命じられておりました。ですから、ギブオンの住民は、遠い国から来たと嘘を言ってイスラエルをだまし、和を講じて、命の保障をする協定を結ぼうとしたのです。
 これに対し、イスラエルの人々は、7節に「お前たちは、我々と共にここに住んでいるのだろう。どうして協定を結べようか。」とありますように、すぐにギブオンの人々の言葉を信じたわけではありません。しかし、彼らの嘘はなかなか大したものでした。9~10節「僕どもはあなたの神、主の御名を慕ってはるかな遠い国から参りました。主がエジプトでなさった一切のことも、ヨルダン川の東側のアモリ人の二人の王、すなわちヘシュボンの王シホンとアシュタロトにいたバシャンの王オグになさったことも、ことごとく伝え聞きました。」と言います。エリコの町のこととアイの町のことを言わないのは、それは最近のことですから、それを言えば近くの者だと分かってしまうからです。40年も前のエジプトのこと、そして出エジプトの旅でのことを告げたのです。更に、11~13節「わたしたちの長老はじめ国の住民は皆、わたしたちに、『旅の食糧を手に携え、彼らに会って、わたしたちはあなたの僕です、どうか今、わたしたちと協定を結んでくださいと言いなさい』と申しました。御覧ください。これがわたしたちのパンです。ここに来ようと出発した日に、食糧として家から携え出たときにはまだ温かかったのが、今はすっかり干からびてぼろぼろです。このぶどう酒の革袋も酒を詰めたときは真新しかったのですが、御覧ください、破れてしまいました。わたしたちの外套も靴も、はるかな長旅のため、古びてしまいました。」と告げます。古びた袋、古い靴、着古した外套、干からびたぼろぼろのパンがここで役に立ちました。このことのために、彼らは手の込んだ小道具を用意し、ぼろぼろの衣装を着けて来ていたのです。まことに知恵を使った嘘でした。
 遂にイスラエルは彼らの言うことを信じてしまいます。そして、この時ヨシュアは主の指示を求めませんでした。ヨシュアと指導者たちとは、ギブオンの人々と協定を結んでしまったのです。この「協定」と訳されている言葉は、他の所では「契約」と訳されている言葉と同じです。彼らはイスラエルの神、主にかけて契約を結んだのです。ところが、16節「協定を結んでから三日後、彼らが近くの者で、自分たちのうちに住んでいることを聞くと」とあります。何と三日後には、彼らが近くの者であること、つまり協定を結んではならないと神様が命じた者であることが判明したのです。しかし、神様の前で誓った後です。もう彼らを滅ぼすことはできません。結局ギブオンの人々は、イスラエルのため、また祭壇のために、芝刈りをし、水くみをする者となったのです。

3.神様の御前における約束
 皆さんはこのヨシュア記9章を読んで、神様がこのことによって何を自分たちに語ろうとしているか、すぐにピンと来たでしょうか。正直なところ、分かりにくい、何を語ろうとしているのか分からない、そういう感想を持った方も多いと思います。それは、ギブオンの人々が嘘をつく、イスラエルをだます、そういうあり方において自分たちの命を守ろうとした、こんなことが許されるのかという思いがあるからだろうと思います。そもそも、嘘や偽りをもとにした協定が有効なのか、無効ではないのか、そう考える人もいると思います。現代人の法感覚、常識から言えば、そういうことになるでしょう。しかし、創世記27章、ヤコブが父イサクから祝福された時のことを思い起こしてください。父イサクは兄のエサウを祝福しようとしていました。ところがヤコブは、毛深いエサウになりすますために、子山羊の毛皮を腕や首に巻き付け、エサウの晴れ着を着て、父の所に行くのです。そして、まんまと父イサクをだまして、祝福を受ける。アブラハムからイサクへと継がれた祝福がヤコブに渡った時のことです。この直後にエサウが父イサクの所にやって来て、イサクは、自分が祝福を与えたのが兄エサウではなくて、弟のヤコブだったことを知るのです。しかし、あの祝福は嘘に基づくものだから無効だということにはなりませんでした。この祝福を受け継いだヤコブから12人の男の子が生まれ、イスラエルの十二部族が生まれていくわけです。一度神様の前で誓われたものが無効になることはない。それが聖書の常識です。

4.二つの受け止め方
 このヨシュア記9章についての受け止め方は、大きく二つあります。一つは、このギブオンの人々のやり方はとんでもない。イスラエルは彼らにだまされた。ヨシュアが神様の指示を求めなかったから、こんなことになってしまった。だから、だまされないように、神様の指示に従って歩んでいきましょう、というものです。もう一つは、このギブオンの人々のあり方は正しくはない。しかし、自分たちの命を救うためのこの知恵は大したものであり、神様はこれを受け入れてくださった。このギブオンの人々の姿にこそ、異邦人の救いの道が示されている、というものです。
 聖書は神様の言葉ですから、私共の思いを超えております。ですから、これが唯一正しい解釈です、唯一正しい読み方です、と言えるものはありません。聖霊なる神様の導きの中で、聖書は、私共にいつも新しく神様の御心を示していくものです。ただ、この説教の備えをしながら分かったことがあります。それは、この正反対のように思える二つの受け止め方の違いは、自分がどちらに身を置いてこの記事を読むかによるということです。ギブオンの人々の嘘がとんでもないという受け止め方は、だまされたイスラエルの立場に自分たちの身を置いてこの記事を読んでいるのです。一方、ギブオンの人々の嘘を、自分の命を救うための知恵ある異邦人のあり方として読む人は、ギブオンの人々と同じ立場に立ってこの記事を読んでいるということです。

5.異邦人の救われる道
 では、私はどうなのか。今回私は、この記事をギブオンの人々の立場に身を置いて受け止めた時、福音の光が射し込んでくるように思いました。
 ギブオンの人々の言葉を聞いてみましょう。24節「あなたの神、主がその僕モーセに、『この地方はすべてあなたたちに与える。土地の住民をすべて滅ぼせ』とお命じになったことが僕どもにはっきり伝わって来たので、あなたたちのゆえに命を失うのを非常に恐れ、このことをいたしました。」とあります。彼らは、神様によって滅ぼされるということを本気で受け止め、それを非常に恐れ、このような行動に出たというのです。何としても命を失わないようにという必死さ、本気で神様の裁きを恐れる思いが伝わってまいります。ギブオンの人々が嘘をついたこと自体が正しいということではありません。しかし、自分の命を救おうとして為したこのことを、神様は退けたりなさらない。憐れみの中で受け入れてくださる。実際、ギブオンの人々は、共同体と主の祭壇のために芝刈りをし、水くみをする者としてイスラエルに受け入れられたのです。神様は彼らをイスラエルに組み入れることを良しとされました。
 私共が神の民の一員とされたのは、ギブオンの人々のように嘘をついたり、策略を用いたわけではありません。しかし、罪人である私共が救われる道は、異邦人である私共が救われる道は、神様を本気で畏れ、神様の憐れみを信じ、神様の御前で救っていただくための契約をするしかない。それは、イエス様の十字架と復活によって与えられた契約です。この契約に与ることによってしか、私共の救いはありません。本来滅ぼされるしかなかったギブオンの人々が、神様のもとでイスラエルとの契約をものにして自らの命を救ったという出来事は、異邦人である私共にも開かれている救いへの道を指し示している。福音の光がここにはある。そのように読めるのです。
 何故、人は救いを求めないのか。それは、自分が滅びるなんて思っていないからでしょう。自分の力で何とかなると思っている。1節にあるように、ギブオンの町の人々以外の者たちは、一致団結してイスラエルに対抗すれば何とかなると思ったのです。自分たちが戦う相手が誰なのか、分かっていなかったからです。天地を造られた唯独りの神様と戦うのだとは思ってもいなかった。しかし、ギブオンの人々は違います。自分たちが戦う相手が神様であるということを知り、本気で何とかしなければならない、単なる軍事的な力によってということではなくて、どうにかして神様の赦しに与らなければならない、そう思ったのです。だから、手の込んだ偽装までして、イスラエルと協定を結んだのです。

6.御翼のもとに逃れて来た者を憐れまれる神様
このギブオンの人々の思いを、神様がお受けにならないはずがないのです。ルツ記2章12節に「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」という言葉があります。これは、ボアズ(エッサイの祖父。エッサイはダビデの父。)が、モアブの女ルツに対して告げた言葉です。異邦人であるモアブの女ルツ。彼女はイスラエル人の夫を亡くし、モアブの地から夫の父の故郷ベツレヘムに戻って来て、夫の母であるナオミを、落ち穂を拾って支えました。イスラエルの神様は、異邦人であろうと、その御翼のもとに逃れて来た者を無下にはなさらない。十分に報いてくださる。その神様の憐れみの心が、このギブオンの人々に対しても示されている。これが私共の神様なのです。愛する独り子を天より降らせ、十字架にお架けになってまで、私共を救おうとされる神様です。その神様がギブオンの人々を退けるはずがないのです。この神様の憐れみこそ、私共を救ってくださった御心なのです。
 ギブオンの人々と協定を結んだ三日後に、彼らにだまされたことを知ったイスラエル人たちは腹を立てます。そして、そんな協定を結んだ指導者たちに不平を言います。「なぜ易々とだまされたのか。協定を結んではならないという神様の御命令に背くことになるではないか。」そんなことをすれば自分たちが神様に裁かれかねない、と心配したからでしょう。しかし、ヨシュアはギブオンの人々を殺しません。神様の前で誓ったからです。彼はギブオンの人々を奴隷とすることにしました。このことに対して、神様はイスラエルを責めたり、ヨシュアを責めたりされません。ヨシュアがするままにされました。つまり、神様はこのヨシュアの為したことを了解されたのです。このことは、7章におけるアカンに対して為されたことと比べればはっきり分かります。
 ギブオンの人々はイスラエル人の奴隷となります。しかし、そこで与えられた仕事はイスラエルに仕えることであり、主の祭壇に仕えることでした。これはひどい仕打ちでしょうか。そうではないと思います。私共はイエス様の救いに与って何者とされたのか。それは第一に神の子とされました。しかし、それだけではありません。神の僕、神の奴隷となったのです。これを、ひどい目に遭ったと思う人はいないでしょう。神様の僕とされた、そこに私共の喜びと誇りがあります。私はこのギブオンの人々の姿に、後にイエス様の救いの御業によって与えられる、異邦人の救いの先取りがある、福音の調べがある、そう思うのです。

7.賢い者と愚かな者
 パウロは、エフェソの信徒への手紙5章15節において、「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」と告げました。愚かな者、それは神様を恐れない者のことです。そして、賢い者とは、何よりも神様を畏れ敬う者のことです。箴言1章7節「主を畏れることは知恵の初め。」と言われているとおりです。ギブオンの人々は本気で主を畏れ、主の御翼の陰に身を寄せました。これこそ、何よりも賢い者なのです。神様を侮る愚かな者になってはなりません。そして、神様を恐れ、主の御翼の陰に身を寄せる者を、私共は諸手を挙げて迎え入れていくのです。その人がこの社会の中でどのように扱われている人であろうと、それは何の意味もありません。主を畏れ、主を敬い、主に助けを求める人ならば、そしてその人が神様の前で契約を結ぶならば、例外なくキリストの教会に迎え入れられなければなりません。それが福音によってのみ立っていく、キリストの教会の姿だからです。

[2019年12月29日]