1.2020年を迎えて
2020年、新年を迎えました。多くの日本人が神社仏閣へ初詣に行く中、私共はここに集い、新年の礼拝をささげています。改めて、私共はキリスト者なのだと思います。私共は新しい年、このような良いことがありますようにという自分の願いや思いを神様に祈る前に、まず神様の言葉を聞くのです。勿論、大学受験や高校受験を控えている人やその父や母にとっては、そのことが上手くいきますようにという願いを持っておられることでしょう。また、体調の悪い方や高齢の方が家族にいれば、そのことも神様の守りの中にあるようにと願うことでありましょう。それは当然のことですし、そのような祈りや願いを持ってこの元日の礼拝に集われるのも当然なことであります。そのような私共に対して今朝与えられております御言葉は、詩編115編の御言葉です。詩編は祈りの詩、祈りの歌でありますから、様々な祈りを持って集って来た私共に、神様がこのように祈りなさいと教えようとしている。新しい一年を始めるに際して、あなたがたはこう祈りなさいと私共に教えている。そういうことではないかと思います。
2.わたしたちではなく、主よ
この詩編115編は、とても特徴的な言葉、ハッとさせられる言葉で始まっています。1節「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、」と始まります。私共は祈る時、まして新年に当たっての祈りを為す時、今年はこういう年でありますようにと祈ることが当然だと思っています。それが日本人が新しい年を迎えた時の、祈りのDNAと言っても良いものでしょう。しかし、今日与えられた御言葉は、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、」と、「私たちのことではない」という言葉を二度も繰り返すのです。私たちでないならば誰なのか。詩人は、「あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。」と告げます。「あなたの御名こそ」つまり神様御自身こそ、と言って、神様のために祈るのです。神様御自身こそ、栄え輝きますように。つまり、神様にこそ栄光がありますように、ということです。「私たちではなく、主よ、私たちにではなく、あなたにこそ栄光がありますように。」と祈っているのです。ハッとさせられます。第一に祈るべきことは私のことではないのです。神様に栄光があるように祈ることがまず最初なのだ、と教えられます。冷静に考えてみれば、それは私共キリスト者にとって、耳にタコができるほどに教えられていることです。新しい年の初めに、元日に、改めてこの御言葉からそのことを教えられる。まさにハッとさせられるのです。日本人の文化的DNA、初詣の記憶が息づき始める中で、いつの間にか、「あなたの御名ではなく、あなたではなく、私こそ栄光を受ける年となりますように。」という願いが当然のこととなっている自分に気付かされるからでしょう。
思い起こしましょう。「主の祈り」の最初の祈りは何だったでしょうか。「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせ給え。」です。神様の御名があがめられますように、神様の御名が聖とされますように。この祈りこそ、イエスさまが祈ることを教えてくださった「主の祈り」の、最初の祈りでした。115編の詩人は、「主の祈り」を教えてくださったイエス様の心をもってこの祈りを始めているということです。
更に言えば、長老派の代表的信仰告白の一つであるウェストミンスター信仰基準の小教理問答の問一は、「人間の生きる主な目的は何ですか。」答「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」とあります。元日の今日、私共に改めて告げられていることは、私共が第一に祈り願い求めることは、私たちではなく神の栄光が現れることです。「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、」です。
3.あなたの慈しみとまことによって
詩編の詩人は、何によって神様の栄光が現れるようにと言っているのでしょうか。「あなたの慈しみとまことによって」です。神様はイスラエルを愛し、契約を結ばれました。この「慈しみとまこと」というのは、神様は、神の民イスラエルと結んだ契約、それを決して反故にしないということを、出来事をもって示してくださることによって、神様の栄光が現れる。そのことを信じ、願い、祈っているのです。
詩編が記されたのは、バビロン捕囚期、或いはその後と考えられています。イスラエルは力を失い、弱り果てておりました。神殿も失われていた。そのようなイスラエルに、周りの国の人々は「彼らの神はどこにいる。」と言ったのです。イスラエルを守り導く神は一体どこにいるのだ。こんなに困っているのに、弱っているのに、何もしてくれないではないか。「お前たちの神はどこにいる。何が、天と地を造った神か。全く力もなく、何もできないではないか。」そう言われたのです。それに対して、この詩人は、「わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。」と告げます。周りの国々には大きな神殿があるが、イスラエルには誇るべき神殿もない。しかし、詩人は「わたしたちの神は天にいまし、」と言うのです。わたしたちの神は、目に見える建物に住むような小さな方ではない。天におられ、この世界のすべてを支配している神なのだと告げたのです。
これは、パウロが伝道した時も同じでした。パウロは、ギリシャの様々な神の巨大な神殿のある町で、天地を造られ天におられるただ独りの神様を宣べ伝えました。パウロには巨大な神殿に対抗し得るような目に見える何もありませんでした。彼には会堂もない、何もない。しかし、天地を造られた神、復活されたイエス様が天におられました。聖霊なる神様が共におられました。ただそれを頼りに、パウロはイエス様の十字架と復活によって示された神様の慈しみとまこと、愛と真実を宣べ伝えたのです。それは今も同じです。私共は、人々を驚かすような神殿を持ちません。しかし、神様と主イエス・キリストは天におられます。その天におられる神様・イエス様は、聖霊として私共と共にいてくださり、出来事を起こし、私共への愛と真実を証ししてくださいます。神様は生きて働き給う方ですから、神様の慈しみとまこと、愛と真実は、神の民の上に出来事として現れます。
4.人は拝むものに似た者となる
詩編の詩人は、偶像を激しく批判します。4~7節「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。」このような記述は、イザヤ書37章、44章などにも見られるものです。要するに偶像は人間が造ったもので、生きてもいない、何もできないものではないかと言います。大切なのは8節です。「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。」これは重大な言葉です。人は何を拝むかによって、それと同じようなもの、似たものになるということです。偶像とは手で造った像とは限りません。神様より大切なもの、神様より頼るべきもの、神様より力あるものと考えるならば、それが偶像となります。富も趣味も仕事も、何でも偶像となり得ます。そして、その偶像を持つ者は、それに似たものになってしまうというのです。人間の手で造られた偶像に依り頼む者は、その偶像と同じように命のないものになってしまう。死んだものになってしまうということです。
しかし、まことの神を拝む者は、永遠の命に生きるものとなります。コリントの信徒への手紙二3章17~18節「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」とあるとおりです。「主と同じ姿に造りかえられてい」くのです。
5.主に依り頼め。主は助け、主は盾。
だから、詩編の詩人は告げるのです。9~11節「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」「主に依り頼め、主は助け、主は盾」です。詩人は三度繰り返します。何があっても、誰が何をしようとしても、主は私共を助けてくださいますし、主はその全能の力をもって守ってくださいます。これは本当のことです。だから、私共は主に依り頼むのです。この信頼が裏切られることはありません。主は生きて働きたもう全能のお方だからです。
12月29日の礼拝の後、玄関でいつものように挨拶をしておりますと、何人もの方から、「色々あったけれど、何とか守られた一年でした。」という言葉を受けました。何人もの方からです。その言葉を聞きながら、「この人にはこんなことがあった。」そう思い起こしながら、「確かに、何とか守られた。」そう思いました。本当にそうです。色々なことがあります。でも守られた。守られてきた。守られている。「主は助け、主は盾」だからです。だから私共は主に依り頼むのです。主こそ生ける神であられるからです。すべてを造り、すべてを支配し給う、全能のお方だからです。
6.祝福してください
詩編の詩人は12~13節で、「主よ、わたしたちを御心に留め、祝福してください。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福してください。主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください。」と祝福を願い求めます。ここでも三度です。
「祝福」という言葉は、ほとんど教会でしか使われなくなっている言葉ではないかと思います。一方、これと反対の言葉である「呪い」は教会の外でも通じます。それは、日本人が祝福してくれる神を知らないからでしょう。だから、祝福と言われてもピンと来ない。残念ながら、呪いならピンと来る。
旧約において告げられる神様が私共に与えてくださる「祝福」は具体的です。代表的なのが、子供が与えられることです。14節に「主があなたたちの数を増してくださるように、あなたたちの数を、そして子らの数を。」と言われているとおりです。神様の祝福は、何よりも命の祝福です。その祝福は、肉体の死を超えた、永遠の命の祝福として完成されます。勿論、それだけではありません。私共が生きるために与えられている食物も、家族も、友人も、必要のすべてが主の祝福によって与えられているものです。私共は神様の祝福に囲まれています。生ける神様の御手の中で生かされているからです。
7.祝福をもって栄光を現される方
ここで、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、」で始まったのに、結局は自分のための祝福を求めるのか。それでは、家内安全、商売繁盛を求める初詣の祈りと変わらないではないか。そう思われるかもしれません。しかし、そうではありません。私共は、家内安全、商売繁盛を与えてくれるから神様を拝み、祈るのではありません。私共が神様を拝み、その栄光が現れるのを祈り求めるのは、この方が天地を造られたただ独りの神であられるからです。この方に愛され、赦され、「父よ」と呼ぶ者とされたからです。この方が、愛する独り子イエス様を十字架に架けてまで、私共を「我が子よ」と呼んでくださる方だからです。そしてこの方は、私共と契約を結び、どんなことがあっても共にいることを約束してくださいました。この方の栄光は、その約束が真実であることを出来事によって表わされるのです。私共がこの方を「我が主、我が神として依り頼む」、そしてこの方は祝福をもってそれに答えてくださる。ここに、この方の愛と真実が明らかにされ、栄光が現れるのです。
この詩編の詩人がこれを歌った時、「お前たちの神はどこにいる。」と言われるような、人々に侮られるような、弱い小さな者たちでした。しかし神様は、この弱い小さな者を決して見捨てない。祝福をもって守り、支え、導いてくださる。そこに、私共の神様の愛と真実が現れるのです。この愛と真実は既に、クリスマスの出来事によって、イエス様の十字架と復活によって、証しされました。しかし、それで終わってはいません。イエス様の救いの御業に与った者たちが神の国に入るまで、神の国が完成するまで、この方は私共を守り、支え、導き給います。祝福し続けてくださいます。そこにこの方の栄光、生きて働き給う全能のお方であることが現れ出るのです。この方が私共と共におられ、愛してくださることが明らかに現れるのです。
弱く、小さく、愚かな私共が、それでもただ主に依り頼み、神様の御心に従う中で、神様の憐れみを受け、祝福を受けて生きる。私共の存在そのものが神の栄光を現していくことになるのです。そして、私共が神の栄光を現す者として生きる。生かされる。用いられる。そのことこそ、何より私共の喜びであり、誇りなのでしょう。
私共は様々な問題や課題を抱えて生きています。そのすべてを、全能の父なる神様の御手に委ねて歩む。私共は、聖霊なる神様のお働きの中で少しずつ少しずつ変えられ、キリストに似た者とされていくのです。
私共は、自分の抱えている様々な問題も課題も、そのままそっくり神様に申し上げたら良い。神様はその祈りを聞き、最も良い道を必ず備えてくださいます。受験を控えている青年たちにも、必ず最も良い道が備えられています。その事を信じ、安心して受験に臨んだら良いのです。この最も良い道とは、私にとって最も都合の良い道ではありません。それは、神様が私共を愛してくだり、生きて働いてくださり、私共を祝福してくださり、御国の完成へと導いてくださる道です。それは主の栄光が現れる道です。この最も良い道が私共一人一人に備えられています。主が備えてくださるその最も良い道を、この2020年も共々に歩んでまいりたい。そう心から願います。
[2020年1月1日]