1.たとえのあらすじ
2020年最初の主の日を迎えております。今朝与えられております御言葉は、イエス様が語られた、天の国のたとえの一つです。一度聞いたら忘れられない、とても印象的な、単純な話です。
ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇い入れました。一日の労賃は1デナリオン。ぶどう園でこのように労働者を雇うのは、収穫の時期です。ぶどうの収穫は初夏から秋にかけてですから、夜明けは6時頃でしょう。だから最初は6時頃、そして9時頃、12時頃、午後3時頃、午後5時頃と、この主人は5回も広場に行って労働者を雇い入れました。そして、日没が近づき、その日の収穫を終えて賃金が支払われる時になりました。この主人は、一番最後の、午後5時頃に雇い入れた人から支払いを始めます。支払われた賃金は1デナリオン。午後3時に雇われた人も1デナリオン。昼12時頃に雇われた人も、朝9時頃に雇われた人も1デナリオン。そして、夜明け頃から働いた人の番が来ました。支払われたのはやはり1デナリオンでした。
2.天の国は報酬ではなく、ただ恵みとして
これが天の国・神の国だ、とイエス様は語られました。単純な、すぐに覚えられるたとえ話です。この雇われた労働者とは私共であり、主人は神様、1デナリオンというのは私共が天の国に入ること、救われることを意味しています。
このたとえ話そのものはすぐに覚えてしまうほどに単純な話です。しかし、納得できる話かと言えば、何か引っかかりを覚える方もおられるのではないかと思います。それは、この賃金がまことに不公平なものだからです。午後5時頃に雇われた人は1時間も働いていないでしょう。しかし、夜明け頃に雇われた人は10時間以上働いているわけです。それなのに支払われる賃金が同じというのは、まったく不公平だ。あり得ない。そういう思いを持つのが普通の感覚でしょう。これがこの世界のことなら、そういうことになるでしょう。しかし、これは地上の話ではありません。天の国・神の国についてのたとえです。こんなことが地上で行われたら大変です。そもそも、この主人のやり方を知れば、次の日からは夜明けと共に雇われる人はいなくなるでしょう。皆、日没近くの5時頃に広場に出て来て雇ってもらおうとするのではないでしょうか。
ここでイエス様が語られたのは、天の国・神の国です。天の国・神の国に入る、救われるということは、私共がこれだけのことをしました、その報酬として与えられるものではない。ただ神様の恵みとして与えられるものだ、ということです。良いことをしたから、神様の御心に従って歩んだから、その見返りとして与えられるというものではない。イエス様はそう教えてくださったのです。
善き業を為し、その対価として救いに与ろうとする。救われるため、天国に入るために良いことをしましょう、良い人になりましょう。これが多くの宗教で教えていることです。しかし、キリスト教は違います。私共は、ただ神様の恵みとして救いに与る、天の国・神の国に入るのです。もし、自分の行いにふさわしくということでしたら、きっと誰も天の国・神の国に入ることはできないでしょう。私共が救いに与るということは、天の国に入るということは、ただ神様の憐れみによるしかありません。しかし、私共はすぐに思い違いをしてしまうのです。自分は善い人だから神様に愛され、神様の救いに与ることができるのだ、と。このイエス様のたとえにおいても、10~12節を見ますと、「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」とあります。午後5時頃に雇われた人に1デナリオン支払われるならば、最初に雇われた自分は、もっと多くもらえるだろうと思った。しかし、支払われたのはやはり1デナリオンだった。だから、彼らは不平を言った。この気持ちは分かります。しかし、天の国・神の国はそういう所ではないのです。
3.天国にランクはなく、他の人との比較もない
ここで、労賃が皆1デナリオンだったということは、皆同じように天の国に入れていただいた、救いに与ったということです。ですから、ここでもし2デナリオン、3デナリオンもらう人がとすれば、それは天の国・神の国の中にも段階があるということになってしまいます。特上の天の国、上の天の国、並の天の国。天丼じゃないのですから、天の国には特上も上も並もありません。しかし、天の国が自分の行いに応じて与えられるということならば、天の国にもランクがなければならないということになるのではないでしょうか。私の知っております新興宗教においては、はっきりそう教えています。天国にはランクがある。その一番上に入れるように頑張りましょう、と教えているのです。バカバカしい話です。しかし、自分の行いに応じてということならば、そうなるしかないのです。
更に言えば、このたとえ話の中でもそうでしたけれど、行いに応じてということですと、必ず他の人との比較ということが起きてきます。これも天の国・神の国には全くふさわしくないものです。この地上の世界にあっては、どんなことにも必ず他の人との比較というものがあります。競争原理ですね。政治も経済も学問もスポーツも芸術も、競争のないものはありません。しかし、天の国・神の国にそれはありません。私共が救いに与るのに、他の人との比較は全く意味がありません。
このたとえ話の中で、最初に雇われた人たちが不平を言うと、主人は何と答えたでしょうか。13~14節aに「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。』」とあります。主人は、夜明け頃に雇う人と1デナリオンの約束をしました。他の人とも同じ約束をしました。この主人の約束、それに従って労賃が支払われた。他の人との比較して、あなたはあの人より多く働いたから多く支払いましょう、ではないのです。つまり、私共が救いに与るということは、このぶどう園の主人である神様との契約に基づいて救いに与るということなのです。
では、このぶどう園での労働とは何を指しているのでしょうか。それは、神様の御業に仕える、神様の御用に用いられるということです。
単純に考えてみましょう。ある人は生まれた時から教会に来ていて、幼児洗礼を受け、幼い時から信仰を与えられて、神様の御用に仕えた。分かりやすく、この人は牧師になったとしましょう。一方、ある人は人生の終わりが近くなって、もう礼拝にも来られないほど弱くなってから、イエス様を信じて洗礼を受けた。この二人に対して与えられる救いに違いはあるのか。招かれる神の国に違いはあるのか。全くありません。それが福音です。
4.愛によって与えられる神の国
主人は続けてこう言いました。14節b「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」この「わたしは最後の者にも同じように支払ってやりたい」、これは愛でしょう。神様の愛です。神様はすべての人を救いたいのです。だから、何度も何度も広場に行き、まだ働いていない人を雇ったのです。夜明けと共に雇われた人は、力もあり、元気で、すぐに雇われた。夕方の5時になっても誰にも雇ってもらえない人、それは老人か、障害があるか、とても仕事はできそうにないと思える人だったのかもしれません。しかし、雇った。皆救いたいからです。それが神様の御心、愛です。愛というものは、不公平なものなのです。私共が救われるということは、この神様の愛、神様の憐れみに与るということです。
元日礼拝が終わって二日の日に、妻の母の墓参りに、京都に行ってきました。一日の夜に、妻が義弟、義妹と三人で話しているのを聞いていました。そこでこんな話が出ました。小さい時にお母さんに、「三人の内、誰が一番好き?」と聞いたなあ。あんたも聞いたの?私も聞いた、となかなか盛り上がりました。三人みんな別の時に、同じことをお母さんに聞いていたのです。そして三人ともその時のことを良く覚えていました。その時、お母さんは何と答えたか。「みんなおんなじ。」そう答えたそうです。三人が別々の時に聞いたのに、同じ答えだった。「みんなおんなじ。」それが愛なんでしょう。三人三様、性格も得意なことも違います。周りの人からの評価も違います。しかし、そんなものは全く関係ない。それが愛です。神様も、私共が「誰が一番好き?」と聞けば、「みんなおんなじ。」と答えるに違いないのです。みんな救いに与って欲しい。それが御心なのです。
5.神の御業に仕える喜び
夜明けと共に雇われた人は一日中働きました。それは大変だったかもしれないけれど、働く所があった、雇われた、それは本当に幸いなことだったのではないでしょうか。夕方5時になっても雇われない人は、自分を雇ってくれる人はいない、自分は必要とされていない、明日の生活はどうしよう、という色々な不安や悲しみの中でその日を過ごしていたことでしょう。夜明けから働いていた人は、賃金が不公平だと不平を言いました。しかし、この主人の心が分かったなら、「働く所があって本当によかったね。これで食べられるね。」と、一緒に喜べたのではないかと思うのです。このぶどう園の主人はきっと、そうして欲しかったのではないかと思います。
教会において洗礼者が与えられるのは本当に嬉しい時です。それは、神様の愛を受けた喜びを一緒に喜ぶ時だからなのだと思います。幼い子、若い人が洗礼を受けるならば、これから神様の業に共に働ける幸いを喜びますし、年老いた人が洗礼を受ければ、色々あった中で遂にここにたどり着いたのだなと思い、本当に嬉しく思う。それが洗礼の時の私共の喜びです。
神様の御業に仕えることは、嬉しいことであり喜びです。大変なこともありますけれど、主人を持ち、為すべきことを与えられているということは、本当に幸いなことです。私は伝道者となって33年。本当に幸いな者として生かされてきました。どうして自分だけこんな大変なことをしなければならないのか、そんな風に考えたことは一度もありません。夜明けから主人のぶどう園で働けたことは、喜び以外の何ものでもなかったはずなのです。それは人と比べるようなことでもないし、神様に召されて、与えられた為すべきことのために自分の人生を捧げることが出来ることは、喜び以外の何ものでもない。私共はその喜びの中に生きる者として召されている。本当に幸いなことです。
6.ただただ恵みとして
この主人は、更に15節で「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と言いました。誰がどのように救いに与るのか。それは神様御自身がお決めになることであって、私共はその神様のなさる御業を見て感心したり、神様はこんなこともされるのかと神様をほめたたえたりするだけなのでしょう。私共は、共に神様の御業に仕える者であって、その人を救いに与らせることなどはできません。神様は自由に「自分のものを自分のしたいようにされる」お方です。
神様は「わたしの気前のよさをねたむな」と言われる。神様が自由に働いて救いの御業を為される時、私共は「えっ!」という出来事に出会うことになるのです。夜明け頃から働いていた人から見れば、せめて9時とか12時から働いていたなら何とか分かるけれど、午後5時からだったら一時間も働いていない。それはないだろう。そう思うわけです。この神様の気前のよさに「それはないだろう」と思うのは、夜明け頃から働いていた人です。少なくとも自分はちゃんと働いていると思っている人です。
そもそも、イエス様はどういう時にこのたとえ話を話されたのでしょうか。アドベントとクリスマスがあって、もう一ヶ月以上前になってしまいましたので、忘れてしまった方もいるかもしれませんけれど、19章16節以下の所で、金持ちの青年がイエス様の所にやって来て、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねました。イエス様は「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と言われ、青年は悲しみながら立ち去っていきました。その後、27節、ペトロが「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と言います。ペトロは全く分かっていません。私はこうしました、だから何をいただけますか。この発想は、全く福音が分かっていないわけです。善き業の見返り、報酬として救われると考えている。しかし、私共はただ神様の恵みによって、神様の憐れみによって救われる。それが福音です。 この分かっていないペトロに対して、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」そうイエス様が告げられたのが19章の最後です。この文脈で見れば、先の者というのはペトロたち、イエス様の弟子たちのことでしょうし、後の者とはまだイエス様を知らない人のことでしょう。この「先の者が後になり、後の者が先になる」という言葉を受けて、日本語訳には出てきていませんが、「なぜならば」という言葉があって、この20章のたとえ話が始まっているのです。そして、このたとえ話の最後にも同じ言葉、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」が告げられているのです。
この世の秩序においては、「先の者は先に、後の者は後に」なのです。しかし、神の国は違う。福音は違う。「先の者が後に、後の者が先に」ということが起きる。何故なら、この後先を決めるのは、私共の為す業によるのではなく、神様の御心によって決められることだからです。神様は自由に後先をお決めになる。その神様の自由は誰も止めたりはできません。この神様の自由の中で憐れみを受け、救いに与ったのが私共なのです。私共の中に、神様の御前で誇るべき善き所など、何一つありません。しかし、愛され、神の子とされ、神様の御業に仕えることを許されました。何と幸いなことでしょう。私は体も頭も衰えてきていますので、今年は去年よりできないことが増えていくかもしれません。しかし、それが何だと言うのでしょう。そんなことは私の救いに何の関係もありません。私共はただ神様の憐れみによって、後の者だったのに先にされ、救いに与らせていただいた。この恵みの事実だけが、私を生かすのです。永遠の命へと私共を導くのです。
[2020年1月5日]