1.はじめに
マタイによる福音書を共々に読み進めています。21章からイエス様はエルサレムに入られ、受難週の出来事が記されていくことになります。いよいよイエス様は十字架・復活へと歩んでいかれる。今朝与えられております御言葉は、その直前の出来事を記しております。
17節「イエスはエルサレムへ上って行く途中、」と始まりますが、この「上って行く」というのは、都に上京するという意味で上って行くというのと、物理的に上って行くという意味があります。29節には「エリコの町を出ると」とありますので、イエス様はガリラヤを去った後、サマリアを避けてヨルダン川の東側のペレアを通って南へ下り、そして死海が近くなった辺りでヨルダン川を渡り、エリコを通ってエルサレムに向かわれたと思われます。死海は海抜マイナス約430m、エルサレムは海抜約800メートル、ですからこの標高差は1200mくらいあります。直線距離にして30kmくらいで1200m上るのです。立山町から称名滝に行くくらいの道を考えていただければ良いかと思います。
2.死と復活の三度の予告
その途中、エリコに着く前にイエス様は十二弟子だけを呼び寄せて、イエス様はご自身の十字架と復活を予告されました。小見出しに「イエス、三度死と復活を予告する」とありますように、イエス様が御自身の死と復活を予告されたのはこれで三度目です。一回目は、ペトロがイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した直後の、16章21節以下です。予告を聞いたペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、イエス様をいさめました。そのペトロに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ。」と言われた。この時ペトロらイエス様の弟子たちは、イエス様が言われる「死と復活の予告」が何を指しているのか、さっぱり分かりませんでした。二回目は、山上でイエス様の姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなるという出来事があり、山を下り、てんかんで苦しむ子供をいやされた後で語られました。17章22節以下にあります。そして、この三度目です。今回イエス様は、今までよりもかなり詳しく丁寧に弟子たちに語られました。
ちなみに、三度自らの死と復活を予告されたのは、実際に三回予告されたという意味と、「三」は完全数ですので、否定できないほどに、はっきりと、ちゃんと、完全に、予告されたということを意味していると考えて良いでしょう。あと数日でエルサレムに入られるイエス様のまなざしは、エルサレムにおいて為される神様の救いの御業、御自身の受難と十字架の死、そして復活を、しっかりと見つめておられました。
3.誰が引き渡したのか
イエス様はここで、「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」「彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す」そして「侮辱し、鞭打ち、十字架につける」と予告されました。イエス様は、御自身が木曜日の夜に捕らえられて金曜日に十字架につけられて殺されるまでの流れを、この時既に承知されていたということが分かります。
ではイエス様を引き渡すのは誰か。イエス様は誰によって祭司長たちや律法学者たちに引き渡されるのか。また、異邦人、つまりローマ人の総督ポンテオ・ピラトですが、彼にイエス様を引き渡すのは誰なのか。普通に考えますと、祭司長たちにイエス様を引き渡したのはイスカリオテのユダであり、総督ピラトにイエス様を引き渡したのは祭司長や律法学者たちということになりましょう。或いは、イエス様を十字架につけよと叫んだ群衆を加えることができるかもしれません。しかし、イエス様はここで、そのようにお語りになっていないのです。それは、最後に「そして、人の子は三日目に復活する」と告げられたのですが、これは直訳すると「復活させられる」です。イエス様は誰に復活させられるのか。当然、それは神様です。ということは、イエス様が引き渡されるのも神様によってです。イエス様の十字架と復活は一連の出来事です。つまり、イエス様を引き渡す者と、イエス様を復活させる方は同じなのです。イエス様は、神様によって祭司長や律法学者たちに引き渡され、異邦人である総督ピラトに引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架に架けられ、そして復活させられる。そう告げたのです。
4.十字架の意味
イエス様は、エルサレムにおいて起きる御自身の十字架と復活の出来事はこのように起きると承知していただけではなく、その意味もはっきり承知しておられました。それは、ゼベダイの息子ヤコブとヨハネについての母の申し出に対する答えの最後、28節で「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とお答えになっていることから分かります。イエス様は、御自身の十字架が「多くの人の身代金として」「命を献げる」ものであることを知っていました。「身代金」というのは、私共の日常会話の中に出て来る言葉ではありません。人が誘拐されたりして、その人を解放するために支払われるのが身代金です。ここで誘拐されているのは「多くの人」です。これは「すべての人」と読み換えても構いません。すべての人が誘拐されている。罪にサタンに捕らえられ、神様に造られた本来の姿を失い、まことに不自由な者とされている。その囚われの身となっているすべての人が、神様のものとして解き放たれるための身代金、それが御自身の十字架の死であることをイエス様ははっきり弁えておられました。そして、これこそがイエス様が語られた「仕える」ということの中身でした。
5.ヤコブとヨハネとその母
しかし、この予告を聞いて弟子たちが、このイエス様の思いをどれほどきちんと受け取ることができたのかは、よく分かりません。ほとんど分かっていなかったと思います。ですから、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母の言葉が出て来たのでしょう。20~21節「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』」
ヤコブとヨハネは、ペトロと並んで、十二弟子の中でもイエス様の最も近くにいた弟子でした。ペトロとヤコブとヨハネは、イエス様が山上でその姿を変えられた時に、山の上までイエス様と一緒にいることを許された者です。また、ゲツセマネの祈りの時に、イエス様の近くに伴われたのもこの三人でした。そして、死んでしまった会堂長の娘を「タリタ、クム」(少女よ、起きなさい)と言って復活させられた時に、イエス様に連れられていたのもこの三人でした。この三人が十二弟子の中で特別な存在であったことは確かです。
そして、このヤコブとヨハネの母も、イエス様に従って共に旅をしていた女性の一人でした。イエス様に従った女性たちのことは、福音書に多くは記されておりません。けれど、イエス様が十二人の男の弟子たちとだけ旅をしていたと考えるのは不自然です。誰が彼らの食事の世話をしたのか、それを考えるだけでも分かります。イエス様が捕らえられた時に、男の弟子たちは皆逃げてしまったのですが、マタイによる福音書27章55~56節には、多くの婦人たちがイエス様の十字架を遠くから見守っていたことが記されています。「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」とあります。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母もイエス様に従っていました。だから、彼女はイエス様に願い出たのです。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」これが母の思いというものかと思う人も多いでしょう。自分の子には偉くなって欲しい。それが自然な母の願いなのかもしれません。イエス様もそのことは分かっておられます。しかし、イエス様は「それで良い」とは言われませんでした。何故なら、イエス様が王座にお着きになる時は、天の国が来る時です。天の国の秩序は、この地上の秩序とは違うからです。
6.神様のサービス
イエス様は、22節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われました。どう分かっていないのか。25~27節「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。』」とイエス様は言われました。「異邦人の間では」とありますのは、「信仰なきこの世界においては」或いは「神様の支配が分からないこの世界においては」と読んで良いでしょう。私共が生きているこの世界のことです。そこでは「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」ヤコブとヨハネの母は、天の国・神の国でもこの世界の有り様と同じだと思って、このようにイエス様に願い出たのでしょう。しかし、それは根本において間違っている。何故なら、天の国とは「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になる」という世界だからです。この世界が、下の者、中位の者、上の者という階段状の三角形の構造だとするならば、天の国は逆三角形なのです。そのことをはっきり示すのが、イエス様の十字架です。イエス様は神の独り子でありながら、誰よりも低い所に生まれ、誰よりも低い者となって十字架の上で殺される。これが「仕える」ということです。
英語のserviceという言葉があります。これはラテン語のセルブスservus(奴隷)という言葉を語源としています。誰かのために手助けする、誰かのために仕事をする、という意味です。日本語でも「サービスする」とか「サービス業」という風に日常的に使われています。そして、この主の日の礼拝のことをSunday Serviceと言います。
少し横道にそれますが、キャンドル・サービスという和製英語があります。Candle Service。これは英語ではキャンドルを用いた礼拝のことですが、日本では、結婚式で新郎新婦が招いた客人のテーブルのキャンドルに火を灯すことに一般的に用いられています。だから、普通の日本人はキャンドル・サービスと言われたら結婚式を想起します。礼拝だとは思いません。それで、教会では12月24日の夜の礼拝を、「燭火礼拝(キャンドルサービス)」と書くようにしました。
では、この礼拝、サービスは、誰がサービスしているのか。奏楽者、週報を作る人、司式者、説教者、お掃除する人、色々考えられますけれど、第一にサービスしてくださったのは神様です。神様がまず私共にサービスしてくださった。独り子であるイエス様を十字架にお架けになって、私共と神様との間の罪という中垣を取り除いてくださった。そして、私共を招いてくださった。この神様のサービスがあって、私が神様を礼拝するというサービスが成立しているわけです。そして、この礼拝によって神の民は、互いに仕える、互いにサービスする、そのような民として立っていくのです。そこに、神の国を指し示す民、神の民が立ち上がっていきます。
7.仕える者として歩むために
イエス様は、ヤコブとヨハネの母に、そしてヤコブとヨハネにも、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と告げられました。それは、神の国が人の上に立つことを求める国ではなく、互いに仕える国であることが分かっていないということであると同時に、神の国の王となられるイエス様が、これから十字架の死を迎えることになることが分かっていないということでもありました。「仕える」ということが、それ程に徹底したものであることが分からなかった。イエス様は「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と言われます。この「わたしが飲もうとしている杯」とは十字架の死を意味しています。この問いに対して、ヤコブとヨハネの二人は、「できます」と言いました。二人の返答は即答だったと思います。色々考えての答えではなかったでしょう。この時、二人は本当に「できる」と思っていた。イエス様の右と左に座るためならば何でもする、そういう覚悟をもってこの願いを申し出たのでしょう。しかし、信仰の歩みは、仕えるという歩みは、このような覚悟によって為されるのではありません。この時の二人の「できます」という言葉は、ペトロが最後の晩餐の後、イエス様に向かって「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と言ったのと同じです。ペトロはこの時、イエス様に「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう。」と告げられました。そして、ペトロは「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言いました。しかし、イエス様の予告どおり、ペトロはイエス様を知らないと三度言ってしまいました。
ペトロもヤコブもヨハネも、私共と同じです。まことに弱いのです。そして、彼らはその弱さを知らされ、自分の覚悟や熱心さによってイエス様に従っていくのではないことを知らされます。では、イエス様に従う歩みは何によって為されていくのか。それは「ただ恵みによって」です。私共の有るか無きかの信仰さえも受け止めてくださり、神の子としてくださり、神様に向かって「父よ」と呼ぶことを許してくださり、聖霊を注いでくださり、私共は少しも偉い者ではないことを知らされ、互いに仕え合う交わりの中で生かされ、信仰の歩みが保たれていくのです。それは「ただ恵みによって」です。
8.ただ仕える者として証しする
イエス様はこの二人に対して、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」と言われました。そして、このイエス様の言葉は、ヤコブが十二弟子の中の最初の殉教者となることによって証しされます。一方、ヨハネは90歳過ぎまで生きたと言われていますけれど、その歩みもまた、厳しい迫害の中で弟子たちを守るための大変な歩みであったに違いありません。
ヤコブもヨハネも、後に神様が備えられた杯を飲むことになりましたけれど、その杯を飲むことができたのは、この時「できます」と言った自分の覚悟、自分の熱心に基づいたものではありませんでした。イエス様が捕らえられた時、弟子たちは皆、逃げたのです。その時に自分の覚悟も熱心さも砕け散りました。自分の覚悟や熱心さによってイエス様に従っていくことなど、できません。ただ仕える者として歩むことなどできません。自分の覚悟や熱心さは砕かれなければなりません。復活されたイエス様は、自分の覚悟や熱心さの砕かれた弟子たちの前に復活の体をもって再び姿を現されました。そして、弟子たちを再び弟子として召し出し、復活の証人として、福音を宣べ伝える者として遣わされました。弟子たちはただ恵みによって生かされ、ただ恵みによって互いに仕え合う者として遣わされたのです。私共も、イエス様の十字架という身代金によって神様のものとされ、神様に買い戻された者として新しい生命を与えられ、御国に向かって歩む者としていただきました。その歩みは、誰が上でも下でもなく、ただ互いに仕える者としての歩みです。
キリストの教会は「互いに仕える」という原理によって建っています。そのような共同体は他にはありません。キリストの教会は、この「互いに仕える」ということにおいて神の国を指し示します。どんな共同体も、本当はこの「互いに仕える」ということでなければ成り立ちません。家族であっても、国と国との関係においてもです。しかし、世はその事を知りません。それ故、混乱しています。私共はこの「互いに仕える」ということによって、神の国をこの世に対して指し示します。そして、「互いに仕える」ことによって、神の国は既にここに始まっていることを証しします。私共はそのことのために召し出された者だからです。
[2020年1月12日]