1.キリエ
讃美歌21の30番から35番に、「キリエ」とまとめられた歌があります。これらは礼拝の最初に歌う歌です。私共の礼拝では用いておりませんが、多くのキリストの教会で礼拝の最初に歌われています。「キリエ」とは「主よ」という意味です。この歌詞を見ますと、「キリエ」の後には「エレイソン」という言葉が続きます。これは「憐れみ給え」という意味です。「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れみ給え」そう歌って礼拝が始まる。この「キリエ・エレイソン」という言葉は、今朝与えられております箇所で、二人の目の見えない人がイエス様に向かって「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」と叫びましたが、この叫び、「主よ、憐れんでください」というギリシャ語がそのまま教会の中に残って、礼拝の歌、礼拝の言葉となりました。私共は、主の日の度にここに集い、この二人の目の見えない人がイエス様に叫んだ、その叫びをもって礼拝を捧げているということです。この二人の目の見えない人がイエス様に向かって叫んだ、その叫びこそが、主の御前に集う私共の叫びであり、祈りなのでしょう。
「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れんでください」これは日常の生活において、人間を相手に使う言葉ではないでしょう。確かに、人間を相手にこの言葉を発するなら、私共はとても惨めな気分になってしまいます。しかし、神様の御前に出たらどうでしょうか。もし、神様の前に出てもこの言葉を発することに抵抗があるとするならば、それは自分の姿が見えていない、自分が何者であるのか分かっていないということなのではないでしょうか。「私は神様に憐れんでもらわねばならないような者ではない。私は別に神様の力なんて借りなくても自分で十分やっている。今までもそうしてきたし、これからもやっていける。自分は悪いことはしていないし、自分で稼いで生きている。神様に憐れんでもらう必要などない。」もしそう思うのであるならば、この言葉は言えません。しかし、本当にそうでしょうか。私共は自分の力でやってきたのでしょうか。自分の力だけでやれているのでしょうか。神様の憐れみなど必要としていない者なのでしょうか。
2.二人の目の見えない人
今朝与えられております御言葉を見てみましょう。29節「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。」とあります。イエス様一行はエリコの町を出ます。22km先のエルサレムに行くためです。大勢の群衆が一緒でした。彼らは、過越の祭りをエルサレムで迎えるためにユダヤの各地から来た、巡礼の者たちだったと思います。群衆全部がガリラヤからイエス様に従っていた人たちというわけではなかったでしょう。エリコを通ってエルサレムに向かう巡礼の人たちが、ここでイエス様の一行を見つけて従ったのではないかと思います。彼らは過越の祭りをエルサレムで迎える高揚感と共に、「今年の過越の祭りはいつもとは違う。イエス様が一緒だ。イエス様はエルサレムで何をなさるのだろうか。」そんな期待に胸を膨らませてイエス様に従っていたのだろうと思います。
その時、二人の目の見えない人が道端に座っていました。この聖書では「そのとき」と訳されていますが、ギリシャ語では「見よ」です。見てみましょう。二人の目の見えない人が道端に座っていました。それは物乞いするためです。当時は、現在の日本のような社会福祉はなかったので、目の見えない人たちは物乞いするしかありませんでした。エルサレムに上って行く人たちが通るその道端に座って物乞いをする。この時は過越の祭りのシーズンですから、エリコの町を通ってエルサレムに向かう人は普段の時よりずっと多かったと思います。物乞いをする者にとって、それは年に何回かある稼ぎ時だったでしょう。物乞いに施しをすることは、ユダヤ教では大変良いこととして勧められていました。ですから、エルサレム神殿に巡礼に行く人々にとっては、物乞いに施しをしてからエルサレムに行くほうが気分がいいわけです。それを当てにして、彼らは道端に座っていたのかもしれません。
しかし、この日は違いました。彼らはイエス様がここを通られることを知っていました。そして、イエス様が多くの奇跡を為し、多くの人々をいやし、目の見えない人を見えるようにされたことも聞いていました。彼らは目が見えませんので、自分からイエス様の所へ行くことはできません。イエス様のことを聞きながら、自分ではイエス様の所に行けないこと、イエス様に癒やしてもらえないことを悲しんでいたと思います。しかし今日、イエス様がこの道を通られると人々から聞いた。千載一遇のチャンスです。イエス様が自分たちの前を通られたその時、彼らは大きな声で叫んだのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」一度だけ叫んだのではありません。何度も何度も声の限りに叫んだに違いありません。あまりにもうるさいものですから、群衆はこの二人を叱りつけて黙らせようとしたほどです。しかし、二人は黙りません。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」そう叫び続けたのです。
この言葉の中に、この二人の目の見えない人の、イエス様に対する信仰が表れています。彼らは、イエス様に対して「主よ」「キリエ」と言ったのです。決定的な言葉です。イエス様が主であるということは、私は僕、奴隷ということです。そして、「ダビデの子よ」です。これは、イエス様を救い主、王、メシアと見ているということです。このようなイエス様に対する信頼をもって、彼らはイエス様におすがりしたのです。この方なら何とかしてくれる。この方に頼らなければどうにもならない。この方が自分の前を通っていくこの時を逃しては、もう二度とこの方に会うこともできないし、この方に救ってもらうこともできない。彼らは必死でした。イエス様に何とかしてもらいたいと必死に願い、声の限り叫び続けたのです。
3.何をしてほしいのか
この二人の叫び声はイエス様に届きます。イエス様は立ち止まり、この二人を呼んでこう問うのです。「何をしてほしいのか。」こんなことは聞かなくても分かりそうなものです。しかし、イエス様は問われます。二人の答えは、「主よ、目を開けていただきたいのです。」でした。彼らは物乞いです。もし彼らがイエス様を本気で救い主として信じ、憐れみを求めていたのでないならば、彼らは決してこうは答えなかったでしょう。このようなことを願っても無駄だからです。もし彼らがイエス様を救い主として信頼し、この方に最後の望みをかけていたのでなければ、彼らはきっといつものように、「いくらかのお金を恵んでください。」そう言ったに違いないのです。しかし、彼らはそうは言わなかった。救い主にしか求めても無駄なこと、ただの人には決して求めないことを、イエス様に願い求めました。そして、イエス様はその願いを受け入れられ、二人の目を開き、見えるようにされました。
イエス様はこの二人に対して、「何をしてほしいのか。」と問われました。実はこの問いは、先週の御言葉、ゼベダイの二人の息子の母がイエス様の前にひれ伏した時、イエス様が彼女に問われた「何が望みか。」と訳されている言葉と同じです。ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネの母は、二人の息子の栄光を求めました。そして、この二人の目の見えない人は、主の憐れみを求め、目が見えるようになることを求めました。イエス様がその願いに応えられたのは、二人の目の見えない人に対してでした。ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネ、そしてその母はイエス様に従っていた弟子でした。一方、目の見えない二人の人は、イエス様が通る道の道端に座っていた、初めて会った人です。人間の常識から言えば、ずっと自分に従っている弟子の願いを聞き、初めて会った人の願いは無視するでしょう。しかし、イエス様はそうはされませんでした。それは、イエス様に向かって求めることの内容によるということだったのでしょう。自らの栄誉を求める者の願いにイエス様はお応えにならない。しかし、ただ主の憐れみを求める者に対しては、イエス様は深く憐れんで、御業を為してくださるということなのでしょう。
4.深く憐れんだ
ここで注目すべきは、イエス様が二人の願いを聞いて「深く憐れんだ」ということです。この「深く憐れんだ」という言葉は、直訳すれば「内臓を動かされた」です。ただ可哀想だと思うというのではなく、内臓が揺さぶられるほどに心が動き、憐れまれたのです。この憐れみの心が、イエス様の愛なのです。この愛は、21章から始まる、エルサレムにおける受難週の出来事、それは十字架と復活へと至るのですが、その出来事を生む心です。イエス様は深く憐れまれるお方であるが故に、十字架にお架かりになったのです。
しかし、この同じ叫びを聞きながら、これを黙らせようとした人々がいます。イエス様に従っていた群衆です。彼らは、二人の叫びによって心を動かされることはなかったのです。どうしてでしょうか。それは、彼らにとってこの二人の目の見えない人のことなど、どうでもよかったからです。当時のユダヤ教の人々は、目が見えないという障害を持ったのは神様の裁きを受けてそういう目に遭ったのだ、と考えておりました。悪い奴だから神様の罰を受けてこうなったのだと考えていた。ですから、施しはしますけれど、それは「上から目線」でやってあげているのであって、その人の嘆きを自分の嘆きとして受け止めるなどという発想はなかった。この目の見えない人に対する差別の心が、この叫びに対して憐れみの心を引き起こさせなかった。心を閉ざさせた。そういうことではなかったかと思います。
しかし、イエス様はそうではなかった。イエス様はこの二人の叫びに心を痛め、深く憐れまれたのです。このイエス様の憐れみの心は、「主よ、憐れんでください。」と主の御前に集う私共にも注がれています。「主よ、憐れんでください。」と祈って御自分に近づく者に対して、イエス様はいつでもこの深い憐れみをもって臨んでくださいます。このイエス様の深い憐れみの心の中で生きる者、それがキリスト者なのです。
5.主に従った
この二人の目の見えない人は、目が見えるようにさえなれば人並みの生活ができる。人々からの差別の視線を受けなくてもいい。働くことだってできる。そう思って、目が見えるようになることを求めたのでしょう。しかし、この二人が目が見えるようになってしたのは、「イエスに従う」ということでした。自分の家に帰っていったのではありませんでした。目が見えるようになったらこうしよう、あうしようと願っていたことを行ったのではありませんでした。
それは、彼らの目が見えるようになった時、彼らが見たのは主イエス・キリストというお方だったからです。彼らは、イエス様によって目が見えるようにされた。そして、見えるようになった目で彼らが見たのは、何よりも主イエス・キリストというお方でした。その見えるようになった肉体の目に映ったのは人間イエスでありましたけれど、それは紛れもなく「私の主」であり「ダビデの子」でした。彼らは肉の目を開かれるのと同時に、霊の目を開かれたのです。イエス様が誰であるのか、はっきり分かったのです。神の子、救い主、キリスト、メシアであることがはっきり分かった。だから、彼らはイエス様に従ったのです。ここに、目が見えるようになること以上の大転換が、二人の上に起きました。イエス様を我が主・我が神として拝み、この方に従い、この方と共に生きるという、新しい命の始まりです。
6.バルティマイ
マルコによる福音書は、これと同じ記事を10章46節以下に記していますが、目が見えるようにしていただいた人は一人です。そして、マルコはその人の名前を記しています。バルティマイです。きっと、マルコによる福音書が記された頃、つまりイエス様が十字架にお架かりになって復活されてから30数年後の頃には、バルティマイと言えば教会のみんなが知っている、そういう人だったのでしょう。だから名前が記されているのでしょう。そして、この出来事は、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書に記されています。それは、この目を見えるようにしていただいた人が、きっと繰り返しこのことを話したからだと思います。ペトロがイエス様を三度否んだことを何度も語ったように、この目の見なかった人バルティマイも、イエス様によって目が見えるようにしていただいたことを何度も何度も語ったに違いありません。
「私は目が見えず物乞いをしていた。しかし、イエス様が十字架にお架かりになる前、私の前を通られた。私は声の限り叫んだ。『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。』何度も何度も叫んだ。そうしたら、イエス様が立ち止まって、『何をしてほしいのか。』と聞かれた。私は、『主よ、目を開けていただきたいのです。』そう言った。そしたら、イエス様が私の目に触れてくださって、目が見えるようにしてくださったんだ。その目が開いた時、私の目の前にはイエス様がおられた。この方こそ私の主、私の神、救い主、キリストだとはっきり分かった。だから、私はこうしてイエス様に従う者になった。私はあの日から生まれ変わった。」そのように何度も話したに違いありません。聖書は、そのようにイエス様と出会い、イエス様によって新しくされた者たちの証言集なのです。
7.主に変えていただく
私はこの説教の備えをしながら、私もこの二人の目の見えなかった人と同じだと思いました。もしイエス様に出会っていなかったら、あの時「主よ、憐れんでください。」と主に助けを求めていなかったのなら、私は、自分の力だけで生きてきたし、生きていけるし、生きていく。今もそう思っていただろうと思います。そして、力のない人を見下して、俺様は大した者だと思って生きていただろうと思います。二人の目の見えない人の叫びなど、聞いてもただうるさいだけ、黙っていろ。そう思って生きていただろうと思います。
人は、自分の力ではどうにもならないことに向き合わなければならない時があります。それは辛い時であり悲しい時でありますけれど、その時こそ私共が変えられる時でもあるのです。「主よ、憐れんでください。」このひと言を言ったから、私共は変えていただきました。「主よ、憐れんでください。」このひと言が言えたなら、私共は変えられます。イエス様の深い憐れみによって変えていただけます。その道はすべての人に開かれています。「主よ、憐れんでください。」と言って、何をしてほしいのかを正直にイエス様に告げたら良いのです。困り果てていることを正直にイエス様に告げたら良い。イエス様は必ずその声を聞いてくださり、深く憐れんでくださり、道を開いてくださいます。イエス様は、私共を救うために来られた、生きて働き給う神様だからです。
[2020年1月19日]